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FW谷村海那が千葉にゴール2発で横浜FMを勝利に導いた。これで今季5得点。昨夏いわきFCから移籍して以来、海那が得点すると横浜F・マリノスが勝つという「神話」が継続することになった。
「J1のFWが決めればチームが勝つのは当然」
という見方もあろうが、リーグトップがエリソン(川崎)とデニス・ヒュメット(ガンバ大阪)の7点だから、ゴールの数だけ比較しても貢献度は高い(ちなみに鹿島の選手が10位以内に二人、鈴木優磨とレオ・セアラが6点で並んでいる。すげえなぁ)。
※いずれも2026/5/1現在
(ここからいわきFCサボ推しです😆)その上、海那は中盤まで下がってボールを受けに行き、その体の強さを活かして保持したあとボールを出してから前に走るという仕事も怠らない。
もちろんその上で、一瞬の飛び込みからゴールを演出するワンタッチゴーラーとしての嗅覚も一級品。
もちろん2024年のJ2リーグで18ゴールを決めているのだからこの活躍は不思議ではない。
でもJFL、J2、J3とステージを上げながらどんどん輝きを増していく海那の姿を見ていると、感慨深いものがある。
才能は抜群だが動けない身体だった海那が、成長・覚醒していく姿を観てきた者としては、感慨深い。海那だからやるよね、という思いと、うちの海那がこんなに上のカテゴリーで輝いているという思いが、いわきサボの胸中には二つながらにあふれてくるんじゃなかろうか。
対峙する千葉のDF日高もまた、いわきFCの、卒業生だ。
いわきから彼らを眺めていると、学校の卒業生の活躍をみているような感じかする。
よくいわきFCは、主力を毎年引き抜かれるのによく頑張れている、と評価される。
いわゆる育成型のチームというわけだ。
なるほど確かにそういう面もある。
たが、いわきは「ファーム(牧場)」ではない。
どこよりも強い個人のそしてチームの強度を求め、ということはフィジカルの強化と組織のなかで自分を生かしていくことを同時に実現していくのだ。
チームの組織力、強度に満ちたガチンコでぶつかりかつ走るサッカーを身に着け、個人としての強度と敏捷性も同時に開花させていく。
演劇で例えれば、スターシステムを取る宝塚ではなく、劇団の力でロングランを続ける四季系。誰かがいなくなったらまた競争をしていく。それが若いチームだからこそ活力になるのだろう。
もちろん、昨年のようにベテランを欠いたGK陣が一旦崩壊したあと立て直しに時間がかかっとように、若者の競争と成長とだけでは長丁場は、乗り切れない。
だが今年は違っている。不幸なことに中盤の要柴田が、大怪我で欠場したとき、ベテランの40永木と、怪我から復帰した3遠藤凌が中盤に2人体制でチームを支えている。
チーム運営と個々の成長が噛み合っている。 いずれこのサッカーは
「大倉=田村サッカー」
として、時代の中に確かな足跡を刻んでいく、と予測しておこう(笑)
さて、今日はに連敗のあとのアウェイ磐田戦。
負けられない戦いです!
#Yahooニュース https://news.yahoo.co.jp/articles/f77896d4640454fbbf50070fdc0549962cda28ba
ようやく『BUTTER』を読み終えた。
前半の、巻措く能わざる、というかページターナーの力というか、グイグイ惹き込ませられるところから、中盤以降一転して様々な人たちの様々な反応、生き方が並列化していく印象を持った。
いわゆる「考察する」人々のなかには伏線の回収率が悪すぎる、と言われそうな印象も受ける。「投げっぱなし」といえばそうも見えるし、「考察」派ではなく「批評」派からいっても、人物の書き込み不足といえばそうともいえそうだ。
後半ページを繰るスピードが落ちたのは事実で、それは私見では
カジマナと町田里佳のせめぎ合いのなかに、玲子が突然乱入してきたところから始まる印象があった。
小説の構想としては描写人称が三人称であっても、理佳が視点人物であることは一貫してブレていない。もちろん玲子が単独行動をとるときには視点は里佳の肩の上から玲子の肩のう上に視点が変更して描写が続いていくのだけれど、決して玲子の内面が理佳のように描写されることがない。
だから、最初読んだときには玲子の暴走が始まったとき(新潟行き)、どうしても唐突感が拭えない。読者は里佳とともにその唐突感を生きることになる。
最も身近な友人でさえ、理解できない(主人公に寄り添うかのようでありながら不可解さを併せ持つ)行動をしていく玲子。
つまり、小説の構造上、玲子は幾分か里佳の「分身」として扱われている。
そしてそこでかなり重要なことは、主人公里佳にとっては深く理解している玲子でありなが何をやっているのか十分には理解できないまま話が進行していく点だ。
読者は玲子が幾分かは里佳の分身である、ということに、次第に気づいてはいく。
しかし、里佳の内面そのものとは別のものとしての分身でなければならないとも思わされる。
こういうときによく使われる紋切り型が「もう一人の自分」なのだが、そういう表現ではこの作品の玲子は掴みきれない印象がある。
(内容は書けないが)突然の暴走特急化に、読者は十分にはついていけないだろう。
そしてここがポイントなのだが、それは書き手にとって要請された唐突感でもある。
分身という分析用語を使った瞬間、自己の統合イメージ(たとえ失われたもの、希求されただけのものであっても)がまとわりつく。
言うまでもなく、通常小説はどんな登場人物であっても幾分かは読者の「自己」の投影できる鏡を手に持っている。
自分とは全く重ならない悪や神であっても、広い意味では幾文かは自分だったりする。
全く共感できないものばかり登場する小説は実験としては面白いが、なかなか成立しにくい。
玲子は里佳ではない里佳を幾分かはこの小説で作者によって担わされているといっていいのではないか。
電車で乗り込んできたところから、この物語は単線的な物語であることを保留しはじめる。
玲子の行動は、それなりに説明がつくっちゃつくけれど、読者の共感は結構置き去りだ。
だが、おそらくこの小説においては里佳のやり方ではないもう一つ別のやり方でカジマナに向き合う唐突な「分身」が必要だったのではないか。全く発話構造の違和感からだけの批評だがそう感じる。
いわゆるカジマナの殺人?の謎の答えを出すことが小説の目的なら、実録木嶋佳苗事件、として書けばよい。謎は解けたところまで提示されればよい。
でも、ここにはそれだけのお話にとどまらないものが盛り込まれている。
里佳が、篠井に何か問いかける切迫した場面で、最後に「私達、何で生きてるんですかね」って聞くところも大きいけどテーマっちやテーマとも言える。
たしかに底流に流れてるテーマだ。
孤独と連帯なんて呟きたくなる人もいるだろう。
それが現代にけるジェンダー問題にもかかわるし、もちろん働き盛りになろうとしている女性のことにもなり、産む性のリアルにも接続している。もちろん親(母親と父親別々にいろいろ問題は抱えてとの関係)とのこともあるし、メンター(指導する先輩)との支配被支配、友人との対等性の危うさetc.てんこ盛り。
梶井真奈子という存在と向き合おうとする主人公が、思わず世界のわからなさ(という過剰さ)と幾分か意図せず出会ってしまうお話、といえばそうともいえる。
でも、それぞれのテーマは短編連作にして一人一人の登場人物を描写していってもらいたい素材もはらんでいる。
だから、里佳を設定した以上「幾分か」の出会いを描き切ることにならざるをえない。
その結果唐突さ上等、ということになるだろうか。
玲子が突然取材に熱心になったかのような動きは、玲子の内面の問題でもあって、それは里佳にはわかりきることではない。友人ではあっても他人の内面だし。
でも、それでもなお傍らにいる、、ということの意味はあるのか?ということでもある。
物語よりは「幾分か」の手応え、「物語」に飲み込まれるこ道を危うくドライブしていくライブ感。
そういう意味で外国の読者にも広く深く受け入れられるのが納得いく。
伏線の回収が欲しければ伊坂幸太郎を読んでほしい(笑)
私はそうしています。それはそれで大好き。
ただ、小説の楽しみ方は自由だ。何を書いても良いのが虚構のリアリティのプラットフォームたる小説の小説たる所以だから。
小人の説。
神なき世界を生きる手応え、なんだろうね。
物語だけでなく。
それは孤独と連帯というテーマとも結びつく。
慌てるとトランプや高市にしがみつく羽目にも陥るが(笑)
むしろ味わうべきは石油やドルや武器ではなく『BUTTER』だろう。
そういう意味で、十分この小説は「政治的」でもありますよ、私見ですが。
お時間があればおすすめしたい一冊。ぜひ。
ちなみに下の書影は河出文庫版。
新潮文庫版は著者の意向で廃版になりました。
お買い求めになるのであればぜひ河出文庫版を。
ただ、2ヶ月後かな。
新潮社と柚木麻子との対立(1000%新潮社が問題)はどうぞ検索を。
https://amzn.asia/d/0cxexPA1岩崎宏美20周年記念コンサートのことをもう少し書く。
第一部は年齢相応の曲が多く、第二部はヒット曲メドレー(若い頃の)が中心のセットリストだったのだが、第一部の途中で
「聖母たちのララバイ」を聴きたい方も多いかと思いますがこれを歌うと終わりになってしまうので最後に歌います。
と本人のMC。
誰もが認める岩崎宏美ブランドを代表する一曲だ。
この曲、発表は1982年5月。誕生日前だから23歳のリリースということになる。
そして当時から
あなたの母になって守りたいって、なんだよそれ?!
とツッコミを入れる人は多かったはず。
火曜サスペンス劇場という放送枠の主題歌をを足掛け7年6曲歌っている。
岩崎宏美という歌手はその声、そして歌唱力で何を歌っても素晴らしいのだが、最初はレコード化の予定もなかったというこの「聖母たちのララバイ」以降の「火サス」の浸透によって、第二期というべき20代後半は、国民的歌手としての認知をたしかなものにしていったのだろう。
あまり歌詞を真面目に聴く歌ではない、とも言えるかも?
でも、ついつい「このー街はー戦場ーだからー」と口ずさんでしまう自分がいる。
そういう意味で歌詞の意味を超えて、岩崎宏美ブランドにとって最も偉大な一曲、になったことは間違いない(多分)。
微妙なファンの、私としてはその後ディナーショー歌手になった彼女と、温泉の旅館で握手してもらったこともある♥
特にミュージカル好きではないのに帝劇レ・ミゼに通ったのも岩崎宏美あればこそ。
今回のライブは、その時代その時代を歌手として生き切ってきた「岩崎宏美」を、改めて尊敬し直すステージになった。
上記は、継続的にnoteでいわきFCについて書いているゆうさんの記事です。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」
は野村克也監督の名言だと記憶していますが、それを引用しつつ、逆転負けしたいわきFCに対して、何が足りなかったのか、を丁寧に考察してくれています。
(この記事以外もいわきFCファンとして読み応えのあるゆうさんのnoteなので、未見の方はぜひ訪ねてみてください。)
1点目は気持ちよく(助走をつけて)クロスを上げさせてはダメだ、という指摘。マークを徹底しつづけるということでしょうか。
2点目は、相手の嫌がることをするのが足りないという指摘でした。
よく、友人とも(素人同士で)話しているのですが
2点目についてのゆうさんの指摘、
「相手に押されると、勇気あるプレーが減っていくこと」
に同意します。
いわきは、若いチームなので、気持ちが守りに入ると老獪な「かわし」や「いなし」が苦手のように見えます。
相手がロングボールを多用してきたとき、ボールを回収できたときは、いそがすに保持しつつ、相手が攻め急いできたところを狙って追加点を取る、といったことはなかなかできていません。
交代の後、全体的にラインが下がって中盤が空き、、結果としてゴール前のカオスを作られると危うい状況が生じます。
守るにしても、あくまでいわきFCは前への圧力が、あっての守備なので、後半の交代も含めて、どう前を向いて攻める姿勢を保持するのか、相手ロングボールに対応して耐えるだけではなく、その相手の嫌がることをどれだけ最後の10分間だしていけるか?
その辺りは継続してウォッチしていきたいところです。
さて、明日は岐阜戦。
土曜日の嫌な終わり方を払拭するくする先制点、ほしいなあ(^_^)v
たのしみです。
