今回は、私の話よりも父の話がメインとなります。
しかしこの一件が、後の私の人生を決定づけたとも言えます。
前回の記事で借金地獄となった私の人生にも変化があります。
父の病、検査後即入院
ある日、母から父の病状について聞かされました。
少し前から目の不調(視界が狭くなりよく見えない)を訴えていたのですが、半年に一度の定期検査の結果、どうも原因が目ではなく下垂体腺腫という脳の病気らしく、大きな病院で検査する必要があるとのことでした。
下垂体とは脳の中央底面にあるホルモンを出す臓器のことで、下垂体腺腫とは下垂体にできる基本的に良性の腫瘍です。
父はいつも通り元気であり、病人には見えなかったので、大したことでもないだろうと思いました。
しかし市内の厚生病院にて検査を受けたところ、手術が必要なので「このまま入院」という運びになりました。
目を使うことがそもそも厳しいということで、父が毎朝使用していたラジオを、売店で購入したイヤホンと共に持ち込みました。
このラジオは受信状況が悪かったため、家中のあらゆるラジオを持ち込んで試しました。SONY製の携帯ラジオが最も受信状況が良好で音質も良いことがわかり、これを採用しました。
父は、退屈凌ぎはこれで大丈夫だなと喜んでいました。
手術の結果、まさかの展開に
下垂体腺腫を除去する手術の日がやってきました。
何か難しいことがあるらしく、名古屋の大きな病院から医師が出張してくる話は聞いていました。
車椅子で手術室に入っていく前、父は母、私、彼女と無言でがっちり握手をしました。
我々は、父の手術が無事終了するのを待ちました。
数時間が経過し、手術終了予定時刻を30分以上オーバーしました。しかし一切連絡がありません。
さらに待ちましたが、一向に父は戻らず、連絡も無いままです。
手術が長引くのは仕方ないとして、何の状況説明もないのはいかがなものかと、ナースセンターにクレームを入れに行きました。
するとほどなくして医師が現れ、直接説明を受けました。
結果は、耳を疑う内容でした。
- 通常の下垂体腺腫ではなかった(名古屋から医師を呼んだのはこれを予想したためだった)
- 腫瘍は通常柔らかいが、硬くて摘出できなかった
- 腫瘍の一部を採取し、穴を塞いでいるが出血が止まらない(これが長引いた原因)
- 腫瘍の正体は調査するが、悪性(つまり癌)の疑いがある
半年に一度の検査を欠かさず受けていたのに、なぜ今そういう話になるのでしょうか。
わけがわからないまま、しばらく経って父が病室に戻りました。
父は状況について家族に尋ねましたが、「癌の疑い」については伏せ、「手術は完了したが腫瘍を取りきれなかった。これから原因を調査する」と嘘のないよう伝えました。
後に本人から聞いた話では、このとき父は「良くない結果で何かを隠しているな」と感じ取っていました。
父を含め家族は手術後数日程度で退院できるものと考えていましたが、結果的に入院は3ヶ月と少し続きました。
その間、私と母は毎日父の元へ通いました。彼女も一緒に行きたいと申し出てくれ、病室は賑やかでした。
末期癌の告知
科の移動があり、本格的な検査の日々が始まりました。
特殊なCTを含む様々な検査が行われました。高度医療保険のおかげでずいぶん助かりました。
別の症状を併発し始めた父は、そちらの治療をするうち目に見えて衰弱していきました。
人はこんなスピードで痩せるものなのか、と驚きました。
もう自力でベッドから降りることはできなくなっていました。
そしてある日、父を除く家族だけがナースセンターに呼び出されました。おそらくこれで父も察したはずです。
話の内容は以下でした。
- 腫瘍は悪性(癌)である
- 下垂体の悪性腫瘍は本体の癌から転移したものである
- 本体は小細胞肺癌、ステージ4である
- ほぼ全身に、骨にも転移しており手の施しようがない
つい先日まで元気に過ごしていた父が、末期癌…。
家族は言葉を失いました。
突然の借金完済
やはり何かを悟ったのか、父はまず自分の愛車を売却するよう私に指示しました。
型が古く、人気がないカラーだったため、どこに聞いても大した金額にはなりませんでしたが、唯一親身になって話を聞き、買取価格を高くしてくださったガリバーさんにお願いしました。
次に父は、私の彼女がいないときに
「残る借金を一括返済で全て終わらせろ」
と言ってきました。
「一括返済など不可能では」と問いましたが、老後まで手を付けず、死後に私に渡す予定だった定期預金を崩すという話でした。
そのときは不謹慎ながら「そのお金があるなら、何も結婚指輪を売らなくても」と考えてしまいましたが、それほど「このお金だけは」手を付けたくないものだったようです。
また、私に債務整理を行わせたのは「ブラックリスト入りでもしないと浪費癖を治せない」という考えがあったと、後に母から聞かされました。クレジットカード会社に電話して、息子をブラックリストに入れてほしいと頼んだこともあったそうです。
完済に必要な金額を計算し、お金は母が下ろし、返済の手続きと支払いは私が行いました。
意外なところで、まさかの借金完済となりました。
最後の最後、本当に最期まで、親に迷惑をかけ通しでした。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
しかし、この時はそれより父が心配でなりませんでした。
余命宣告
入院から2ヶ月以上が過ぎた頃、私と母は医師に呼ばれ、このように告げられました。
「余命ですが、もって2週間でしょう」
私はなんとなく、父は不死身だと思っていました。
72歳になるまで大した病気もせず、歯も丈夫で治療をしたことがなく、外見も10歳ほど若く見え、バイタリティに溢れ、行動力とリーダシップがあり、意思が強く頼りになり、部下や友人からの信頼も厚く、弱音を一切吐きませんでした。
漠然と、私のほうが父より先に死ぬだろうと考えていたくらいです。
その父が、命の危機とは無関係な手術と思っていたところ、まさかの末期癌で余命2週間…もしかしたら1週間かも知れませんし、さらに短いかも知れません。
受け入れられずにいましたが、父の性格上、隠さず真実を話して欲しいはずだと思い、言われた通りに話しました。
父は意外に思う風でもなく、「そうじゃないかと思ってた」「お迎えが来たってことだ」と言っていました。
医師より、抗がん剤で少しでも病気と戦うか、治療せずに緩和医療センターで普段に近い生活をして余生を過ごすか、選択を迫られました。
私と母は敷地内にある緩和医療センターを視察した結果、そちらに移ったほうが良いと思いました。
そちらであれば広めの個室を占有でき、色々なものを持ち込めますし、家族も寝泊まりできます。
共用トイレの利用について父は「バイ菌扱いをするな」と病院側に猛抗議したことがありますし、看護師の不手際で薬を間違えられた際に、母がいなければ気づかなったという問題もありました。そのような心配もなくなります。
今度は車椅子の父を連れて、再度緩和医療センターを視察しました。
しかし父の決断は、抗がん剤で少しでも癌と戦うことでした。「一人部屋は寂しい」「賑やかな方が落ち着く」という理由もありました。
家族で話し合った末、本人の意思に従うことにしました。
すぐに抗がん剤での治療が始められました。
父は院内に来ていた散髪サービス車で丸刈りにしました。
以後は、父の人生最後の2週間を少しでも有意義なものにするため、家族は努めて病室で一緒に過ごしました。
車椅子で敷地内をぶらぶらしながら緑を眺めたり、他愛もない会話をしたり、売店で買い物をしたりしていました。
父は以前に比べて余裕がなく、イライラすることもしばしばでしたが、家族と過ごす時は努めて穏やかに見せていました。
最後に叶えたかったこと
私には、父に少しでも元気があるうちに、どうしても実現したいことがありました。
父が大変かわいがっていた犬との再会です。
事実上父が飼い主であり、いつも膝に乗せてかわいがっていた犬(雄のチワワ)に、もう一度だけ会わせてあげたかったのです。
また、きちんとお別れをして犬を納得させてやりたいという気持ちもありました。
もう帰らない主人をただ待ち続けるのは、犬にとっても苦痛だと思ったためです。
入院してからずっと、私は犬の元気な写真を印刷しては病室に持ち込んでおり、父はそれを愛おしそうに眺めていました。もちろんできることなら会いたいと願っていたでしょう。またそれができないと、諦めていたはずです。
犬に会いたいかと聞くと、父は「会いたいけど院内に連れ込んではいけない」と言いました。しかし私には策がありました。
「会える場所があるとしたら?実はもう調べてあるし、規則にも違反しない」と告げると、「すぐに会いたい」と答えました。
父が言った通り、院内には動物を連れ込めない規則になっていました。そして父は病院施設から出ることはできません。
私はあらかじめ下見をし、病院の正面出入口ではなく、道路に沿ってぐるりと回った先にある、緩和医療センターの小さい駐車場に目をつけていました。緩和医療センターはペット連れ込みOKです。
そこならば「院内ではないので犬を連れ込めるし、施設内からも出ていない」ことになります。車の往来もほぼありません。
私は簡単ながら、計画内容と注意事項をまとめました。
最愛の犬と最後の別れ
母に段取りを告げ、注意事項を言い聞かせ、いよいよ決行当日になりました。
私が犬を連れて緩和医療センターへ向かっていたところ、普段はおバカキャラで車に乗るとくるくる回っていた犬が、じっと大人しくしています。ときおり心配そうにこちらを見ます。こんなことは初めてでした。
駐車場へ着くと、既に母と、車椅子に乗った父が到着していました。
私の車がバックで駐車している最中に、母の手を振りほどいて無理やり歩こうと焦っている父が見えました。転んだら即骨折する状態ですし、そもそも歩けないことを忘れるほど我を忘れている様子です。
急いで駐車し車を飛び出して父を抱え、後部座席のドアを開けて乗り込ませました。
助手席にいた犬を父の膝の上に乗せると、父は止めどなく涙を流しながら「ごめんな、待ってたな、ごめんな」と繰り返し頭をなで、何度も犬の名前を呼びました。
このようになりふり構わず号泣する父を、私は人生で初めて目にしました。
私は父に、お別れをきちんと告げるよう約束をしていましたので、これを促しました。
父は「お父さん、もう帰れないからな。お別れだよ。これが最後。ごめんな、元気でな」と、頭を撫でながら犬の目を見て、しっかりと別れを告げました。
犬の方は、父の膝に座るといつもの通り大人しく、時折様子の違う父の顔をじっと見つめていました。
私も父と同じく、涙が溢れていました。このときに撮影した写真がありますが、今見ても涙がこぼれます。
父が疲れてきたようなので犬に最後の別れを告げさせ、車から降ろして車椅子に座らせて、母に病室まで押して行ってもらいました。
私は犬を連れて一旦帰宅する必要がありました。
帰路でも犬はおとなしくじっと動かず、時折こちらを見ていました。
ふと見ると目元に大粒の涙があり、偶然とは思いましたが父に見せるため、信号で停止した際に撮影しました。
帰宅後は早速先ほど撮影した写真を印刷して病室に持ち込み、皆で見ました。
「◯◯くん(犬の名前)、きっとわかってくれたんだよ」
父も母も、そして私も、流れる涙が止まりませんでした。
父はこれらの写真をいたく気に入り、プレゼントしたフォトスタンドに入れてずっとベッドの傍らに置いていました。
父の変化、そして兆候
ある日、彼女と一緒に病室を訪れた際、唐突に父が「二人の結婚を許す」と言いました。
結婚を考えて付き合ってはいましたが、結婚すると明言していないのになぜ?と思いましたが、父は自分の死期を悟り、死ぬ前に言っておこうと考えてくれたのでしょう。
この頃から変化は少しずつ、しかし確実に起きていました。
父はいつものようにハキハキと話しているのですが、会話内容がまったく噛み合わないということが増えました。
正しく会話できるときもあるのですが、一度噛み合わなくなると、父は窓の外を眺めて無言になりました。
数日後、母の携帯番号から電話があり、出てみると父でした。
「かき氷が食べたい。母は違うものを買ってきやがった」ということでした。やや興奮しています。
聞いてみると、祭の屋台で売っているようなタイプのかき氷を食べたいようです。
祭の時期ではないうえ、そのようなかき氷がその辺に売っているはずもなく困りましたが、ダメ元で寄ったケーキ屋さんに近いタイプのカップ入りかき氷がありました。
味の異なる二つを購入し、さらに勘違いの可能性を考えコンビニに売っているガリガリに固いかき氷も購入して持っていきました。
すると父は、ケーキ屋さんで購入した方を「これだ、これが食いたかった」と喜びました。
ずっと食欲のなかった父が2ついっきに、貪るように食べましたので、少々驚きました。
後にナースセンターで医師と話す機会があり、この件について話したところ
「最期が近づくと氷菓等を妙に欲しがることがある」
と言われてゾクッとしました。
父の死
数日後の夜、病院から父の容態が急変したと緊急の電話がありました。
私と母は大急ぎで病院へ向かいました。
その際、病室での寝泊まりになる可能性を考え布団や毛布を車に詰め込みました。
父は入院していた病室から、ナースセンター奥にある特別な治療室に移されていました。
すでに意識はないようで会話はできず、「うぅー…うぅー…」と絶え間なく唸っており非常に苦しそうな表情です。
母と私、後に合流した彼女の三人で心細く見守りました。
看護師はたまにしか見に来ません。来てもそそくさと作業してすぐに去っていきます。おそらくもう最期だとわかっていたのでしょうが、少々冷たく感じられました。
母が自分の実家と父の実家に連絡し、親戚一同に「もう危ない」ことが告げられました。
遠いところに住む方も含め、十数名の親戚が大急ぎで様子を見にきてくださいました。
しかし父は苦しむのみで、耳元で大声を出された際にビクッとした以外に反応はありませんでした。
何時間経っても、父は変わらず苦しそうにしています。このままただ苦しみながら逝くのかと不安になりました。
時折非常に苦しそうになるためナースコールしていたのですが、何度めかのナースコールで医師がやってきて「麻酔で痛みを和らげますか?」と聞かれました。
ただし死亡する時期が早まる可能性があると告げられました。
さすがに悩みましたが、あまりに苦しそうであったため、10時間ただ苦しんで生きるより、5時間になっても穏やかに生きる方が良いと、麻酔を使ってもらうことにしました。
父は少し楽そうになり、唸る声も穏やかになりました。
夜中になり、彼女を含めこの治療室で寝泊まりすることに決めました。
室内端の床に布団を敷き、カーテンで仕切れるようにし、掛け布団は毛布やタオルケットを使いました。
一人は起きて父の様子を見ていることにしました。
まずは私が起きておき、母と彼女を寝かせました。
数時間してから母を起こし、私は皆の夜食を購入するため院外にあるコンビニへ出かけました。
三人分の食事や飲み物を買い、病室へ戻りました。
母は起きていましたが、私はバイタルをチェックする機器の表示を見てコンビニ袋を落としました。
何の値かわかりませんが、一定の速度で下がっていました。ピー音は鳴っていたのですが、そもそも最初から頻繁に鳴ったり消えたりしていたので参考になりませんでした。
もしやと思い間近に寄って父の口元を見ると、呼吸をしていませんでした。
すぐにナースコールして状況を伝え、医師を呼ぶようお願いしました。彼女も起こしました。
父の顔前で、極めて平静を装い「おーい親父、呼吸しよう、息吸おう」などと声掛けを行いました。
その後、父は一度だけ不自然に大きく息を吸い込みました。
これを見て、私は母に
「たぶん最期だ、手を握ってやれ」
と告げました。
母は涙を流し、父の手を握りながら「本当によくやったね」「もうがんばらんでいいよ」と言いました。
私も傍らで「親父、ありがとな」「心配ばかりかけてごめんな」と涙ながらに声をかけました。
医師がやってきて、何やら色々と調べる動作をした後、
「ご臨終です」
と告げられました。
その後多少バタバタと人の出入りがあり受け答えもしていましたが、あまり覚えていません。
父は家族に見守られながら、72年の生涯に幕を閉じました。
立派な人物でした。どこから見ても隙のない、完璧な父であり夫でした。近所でも職場でも大いに頼られていました。
私が高校当時、「尊敬する人物」を記入する欄に「父」と書きました。男として憧れていました。
そんな父が、つい先日まで元気で何事もなかったのに、目が治ったらすぐ自宅に戻ると誰もが思っていたのに、今、この世にいない…。
なかなか現実として受け止めることができませんでした。
悲しみに浸る間もなく、即座に葬儀屋の手配と遺体の搬出、その他諸々の手続きが必要でした。
家事以外はほぼ何もかも父に任せきりであった母は何もできず、また今はそっとしてやりたいという気持ちもあり、以後すべて私が手配・手続きしました。
無言の帰宅
病院に霊柩車が到着し、棺に移された父が自宅へ運ばれました。
自宅の庭側にある大きな窓から棺を和室内に入れ、父は棺から出され、普通に床に布団を敷いて寝ているような状態になりました。このとき男手が足りず、私も手伝いました。
父の体は氷で冷やされていました。表情は柔らかで不思議と血色も悪くなく見え、安心しているように見えました。
葬儀屋さん(JA)の方が、今後の段取りについて色々と説明してくださいました。寺以外のほとんどのことはお任せできるとのことでした。
慌ただしく時が過ぎ、やがて家族だけになると、静かで穏やかな時間が流れました。
「おかえり親父。お疲れさま」
私はあらためて声をかけました。側には犬もいて、落ち着いていました。
その後は簡易的な祭壇のようなものを組み立て、お輪や線香立てなど、必要なものを置きました。すべて自分で用意するまでの代用で、レンタル品でした(本当に色々と助かりました)。
置き方など色々としきたりがあるようでしたので、ネットで調べながら作業しました。
果物のほか、父の好きだったお酒や煙草を置き、明かりも灯しました。
これでやっと落ち着いて、線香をたいて手を合わせることができます。
父の顔の傍らには、病室で常に側に置いていた父と犬の写真を置きました。
以後、葬儀屋さんに代行してもらえず自分で用意しなければならないものをリストアップし、チェック表を作成しました。
しばらく忙しい日々を過ごしました。双極性障害のことなど考えてはいられませんでした。
斎場の予約がすぐには取れず、父が家にいる時間が予定より増えました。葬儀屋さんが途中で氷を変えに来てくれました。
日々様々な手続きや調べもので大忙しでしたが、時間ができると犬と一緒に父の顔を見に行き、会話をするようにその日の出来事を報告しました。
そしていよいよ、最後のお別れがやってきました。
通夜の後、親戚一同で食事をし、お酒を飲みました。「通夜振るまい」というそうです。
夜食の際に飲んだカップ味噌汁がおいしかったのを覚えています。私は家が近いため、一時帰宅して入浴後、身なりを整えまた戻りました。メモしておいたスピーチの文章を何度も読み直しました。
人付き合いが広く面倒見の良い父であったため、葬儀には連絡していない方を含め想定外の150名以上が足を運んでくださり、パイプ椅子が間に合わず立ち見ができるほどでした。これには斎場の方も驚いていました。
喪主を務めた私のスピーチに、同僚や友人、親戚や近所の方、父を慕っていたかつての同僚や友人たちが涙してくださいました。
不謹慎な考えかもしれませんが、大盛況となった葬儀に、賑やかなことが大好きな父は満足してくれたことと思います。
出棺、そして火葬場へ。本当に最後のお別れです。
皆思い思いの言葉をかけ、父に別れを告げました。私は伝えきれない感謝の思いを伝えました。
集っていただいた親戚一同へ食事を振る舞い、しばらく待ちました。
火葬が済み、お骨を骨壷に収めました。つい先日まで生きていたのに…どこか現実離れしていました。
骨壷は自宅に持ち帰りましたが、一時的なものです。
早くお墓を立ててあげなければいけませんでした。そして仏壇も用意しなければなりません。
お墓は、父が好きだった黒にしようと決め、墓地でも一際目立つ真っ黒でピカピカの墓石を立てました。
そして、父が運び込まれて寝ていた和室に仏壇を設置しました。これも真っ黒で、シンプルながらよく見ると細部が豪華なものを選びました。
今も毎日欠かさず朝と夜に、仏壇の前で犬と一緒に手を合わせながら父に話しかけています。
犬におやつをあげて遊ぶのも遺影の前です。犬は今も元気で、遺影の前で喜んで走り回っています。
遺影の中で、父はいつも微笑み、家族を見守ってくれています。
叶わぬ願い
私は父の死を悲しむ他に、もう一つ無念が残っていました。今もふと思い出すと目頭が熱くなります。
大の子供好きで有名だった父に、孫を抱かせてやれなかった…。
このことは大きな心の傷となり、今も癒えることはありません。
「光を産むことさえできていれば…」(前記事参照)
「あるいはもっと早く結婚して子供ができていれば…」
「倒れて双極性障害にならなければ…」
「父がもう少しだけ長く生きていてくれれば…」
しかし、父は旅立ちました。時間を戻すことはできません。
いくら後悔しても、「たられば」と思い悩んでも、もう父に孫を抱かせてあげる願いが叶うことはありません。
この後悔は、ずっと引きずったままです。
しかし今では、少しは喜んでもらえているのかも知れないと思っています。
ここからは、次の記事にてお伝えしたいと思います。