これまでの記事で、私の転落人生は概ね底の底まで行き着きました。
順風満帆であった人生が過労で倒れ双極性障害と不眠症を患うことで一変し、薬害により一時期はしゃべること、歩くことすらできない「他者の介助が必要な障害者」となりました。
そして就労不能、入院、副作用との厳しい戦い、二度の離婚と修羅場、借金苦とブラックリスト入り、二度の自殺未遂、さらに我が子と父、二度の死別を経験しました。
もちろん書ききれなかった出来事もたくさんあります。厳しい財政難の最中、家中の家電製品が一斉に寿命を迎えたこともありました。
精神的にも、経済的にも、社会的にも、ギリギリまで追い詰められました。
最初に過労で倒れてからこの記事を書くに至るまで15年ほどかかってますが、双極性障害と不眠症は完治していません。
しかし様々な経験を経て、私の意識と人生は転機を迎えます。
今回のお話は前回の記事の続き、突然だった父の死後から始まります。
鬱状態となった母
父の死後、葬儀屋や寺の選定と手続き、通達先のリストアップと連絡、必要なもののリストアップと購入、初七日以降もしばらく続く法要等、すべての手配や手続きを私一人で行いました。
これは元々世間知らずなところのある母が、家事以外のほぼ全てを父に頼りきっており、ごく一般的・常識的な手続きすらほとんど何も知らないと判明したためですが、理由はもう一つありました。
父の死後、母は鬱状態に陥っていたのです。
父がこの世を去ってしばらく、まだ自宅にいた父の顔を見に一階へ降りると、明かりがなく真っ暗だったことが何度かありました。
父と母と犬は、日常の殆どをキッチンと食卓のある部屋で過ごしていました。このときも母はキッチンにいました。
母はいつも遅くまで起きていたため、一階が真っ暗というのはおかしいことだったのです。
キッチンを見ると、母は真っ暗な部屋でただ食卓の椅子に座り、TVどころか照明もつけずにじっとしていました。
まるで母の周囲だけ時間が止まっているかのように見えました。
父の生前、息子の目から見ても母は父に頼り切りでした。家事に関しては完璧な母ですが、それ以外はすべて父に頼り、任せ、従い、寄り添い、常に父の後をついていくように行動を共にしていたのです。
支えであった父を突然失い、母の落胆や喪失感、悲しさ、寂しさ、不安はいかほどのものであったでしょうか。
一時的に鬱状態になっても不思議なことではありません。
これが長引くようであれば、病院に連れて行こうと決めていました。
しかしそれ以上に、今後は自分が母を支えなければという思いが強くなりました。
父は享年72歳、母はこの時点で68歳です。まだまだ老後の人生はこれからという時期、将来に絶望させたくありませんでした。
父に代わり家庭を守る決意
何もできなくなり、食事もろくに取らなくなっていた母の姿を見て、私は目立たないように生活を支えようとしました。
夕方に出かけては「食事を買って帰るけど要るか?」と声をかけ、少しでも食べてもらおうとしました。
買って帰った食事を二人きりで食べていると、嫌でも思い知らされます。
「もう父はいないんだな」
両親と一人息子の三人家族でしたので、一際存在感の大きい父が欠けると、食卓は大変寂しく感じました。私は努めて母に話しかけるようにしました。
「自分が父に代わってこの家と家族を守らなければ」
と、日増しに強く決意したものです。
父の死後、手配や手続きで目が回るように忙しかったのですが、それらを滞りなく処理できていることは自信に繋がりました。
まず、家と家族を守るためには、どうしても必要不可欠な要素がありました。
それは職場復帰です。
今のように収入が少なく不安定な個人事業では、この先生活できません。
母は、遺族年金等でぼんやり収入が増えるのだろうと考えていましたが、甘くはありませんでした。詳細は忘れましたがもらえると思っていた分よりずいぶん少なく、年金生活は心細いものになりました。
体調を整え、何度目かの職場復帰
これまで医師の忠告を無視して自己判断で職場復帰し、体調が悪化したら長期休暇に入ることを繰り返していました。
その際の教訓から、今回は無理のない職場復帰について会社側としっかり相談しました。
- ひとまず午後からのリハビリ出勤とする
- 体調が優れない日は早めに退社する
- サーバ管理を主な業務とし、開発業務は社員への指示のみ担当する
実は以前の職場復帰において、唯一負担にならなかったのがサーバ管理業務です。
開発業務は「目の前の作業に取りかかれない問題」によって進められなくなっていましたが、サーバ管理業務は淡々とした対話的作業が多くイレギュラーが少ないため、特に手が止まるようなことはありませんでした。
会社では複数の自社サーバを複数のデータセンターに置いて運用していました。元々は会社設立時に私が設計・手配したものです。
かつては私が管理していたところ、長期療養をきっかけに引き継ぐ形で入社した社員が、間もなく退職すると聞かされました。
優秀な能力を持っていた彼の退職は痛手ではありましたが、何の因果か復帰のタイミングで私の座る椅子が空きました。
私は彼から業務を引き継ぎ、久々となる職場復帰を果たしました。
医師にも許可をもらい、今度こそ自己判断ではない本当の職場復帰です。
前述の通り、父の死後 様々な手配・手続きをこなしたことで自信を持ち、母を支えなければという使命感もあったためやる気に満ちていたことが医師にも伝わったのでしょう。
双極性障害の躁の面が出ていたようにも思いますが、この時期は他者との会話もとてもハキハキしていたように思います。
収入も、金額は以前と比べるわけにはいきませんが安定しました。
母が少しでも楽に暮らせるよう、二世帯分の水道光熱費と家に関する出費を負担すると申し出ました。
この申し出そのものより、私の成長・復活について母は大いに喜んでくれ、一緒に父の遺影に報告しました。
なお10年近く残っていたはずの改築ローンは、契約者である父の死後支払いの一切が免除となりました。まさかローンが消えるとは予想していなかったため驚きました。
これも後押しとなり、家計に関する計画書を作ってみると、現状の収入でも一応少しずつですが預金を増やしつつ今まで通りの生活ができる計算になりました。
しばらく仕事を続けるうちに体も慣れ、母も次第に元気を取り戻し、すべては順調に思えました。
がんばり過ぎてまたしても不調に
サーバ管理業務をこなしつつ、開発現場の抱える問題を危惧した私は改善計画を立ち上げました。
私が長らく不在にしていた間、開発環境や開発手法がびっくりするほど成長していなかったのです。
改善計画について実演しながらプレゼンすると、社員からは「そんなことができるんですか!」と驚きの声が上がりました。
しかしそれらは現在主流の開発スタイルであり、この業界では既に広く浸透していた内容です。
わかる方のために書くと、クラウドの活用、Gitとブランチモデル、CI/CDの自動化、オブジェクト指向、各種フレームワーク等です。
要するにこれら無しで、PHPベタ書きでFTPとレンタルサーバを使う、旧態依然とした開発を未だに続けていたわけです。
しかし考えてみれば、確かに現場にいると目の前の仕事に精一杯になり、なかなか外の世界に目を向けられなくなるものです。先導する立場にある者がいなかったことも大きな要因でしょう。
私は精力的に調査、検証、プレゼンを繰り返し、改善計画を「絵に描いた餅」で終わらせないよう、根気よく浸透に尽力しました。
その結果 開発効率は目に見えて向上し、新しい開発スタイルで大きな新商品も開発されました。
私のこの様な働きにより、最初は障害を過剰に気遣ってくれた役員たちも、「なんだ、大丈夫じゃないか」と思ったようです。
次第に任される仕事が量・質共に増え、その中には過労の原因にもなった開発案件も多くなってきました。
公私ともに自信を付け、仕事中は双極性障害のこともほとんど忘れるようになっていた私は、多くの案件を引き受けました。
そしてある朝、キャパを超えていたことに気付きました。
起床して準備しいつも通り駅に向かいますが、やる気と自信に満ちていたこれまでと精神状態がまったく異なります。
電車に乗車すると、不快な気分が急激に大きくなりました。これは満員電車の不快によるものではありませんでした。
「憂鬱で何もやる気が起きない。何もできる気がしない。このまま通勤したくない」
気分が鬱々としていることに加え、胸が妙にハラハラする緊張感があり、なんとも落ち着かない気分でした。
それは小学生の頃、大勢が集まった学芸会の寸劇で、袖の陰でドキドキソワソワしながら出番を待っていた、あの緊張感に近いものでした。
この憂鬱な気分と謎のハラハラ感を、最初は「一時的なものだ」と思っていましたが、以後毎日続きました。
いざ出社して皆と話していると気分的にはそうでもないのですが、仕事の進みは悪く、入院時のように時間の流れが遅く感じました。
こうして日増しにストレスが少しずつ積もっていきました。神経性と思われる腸炎も発症し、トイレが巣のような状態になりました。
やがて療養休暇を取ることが多くなり、最終的にまたしても全く出社できなくなりました。
無念のリタイア、しかしループ脱出に向け決意
これで一体何度目のリタイアになるのでしょうか。とても情けなく、憂鬱な気分になります。
しかしこのまま繰り返していては一生進展が無いと考え、会社側にこれまでにない提案をしました。
- 長期休暇入りではなく、在宅勤務への勤務形態変更としたい
- 主にサーバ管理業務を自宅で行う(この業務だけは問題がなかったため)
- 他の業務も行うが自宅でできるものに限り、体調と相談して最低限にする
- 給与について多くは求めない
これまで、自社で在宅勤務という形態を採用した事例はありません。
在宅勤務者は出勤の事実がないため、当時は会計士や社労士、労務士?からダメ出しが入りました。
しかし何度かの話し合いの結果、収入激減を条件に実現できることになりました。
※新型コロナウィルス騒動以降、このようなワークスタイルはテレワークとして浸透しましたが、当時はまだ在宅勤務は一般的ではありませんでした。
これまでの個人事業の経験から「自宅でなら仕事はできる」ことが立証されているため、これなら以後休暇を取る必要もなく長期的に仕事を続けられます。
収入はずいぶん減りますが、仕事ができなくなり収入が無くなることに比べれば大した問題ではないと思いました。
社員たちとはSlackやSkype、オンライン会議で連絡が取れますし、会社で業務に用いていたツール類はすべて自宅環境にもあります。
社内LANへのアクセスが必要な場合に備え、事務所PCにリモートデスクトップ接続できるようにもしておきました。
これらにより、出社している時とほとんど変わらず業務をこなせるようになりました。
体調が悪ければ休めば良く、場所と時間の強制がないことで無理なく自分(と障害)のペースに合わせて仕事を続けられるようになりました。
収入については、半分程度になりました。創業当時の最大収入に比べると1/3程度です。
しかし特別扱いをしてもらっている手前、ここに文句をつけるわけにもいきません。
そんな折、社長から耳寄りな情報を得ることができました。
障害者用の年金制度と等級認定
今考えればこの時点まで知らなかったことが恥ずかしいのですが、
障害厚生年金
の存在を教わったのです。
障害の認定が必要ですが、受給できることになれば収入の大きな助けになります。
私はさっそく障害厚生年金について調査を開始しました。
そして、以下のことがわかりました。
- 精神障害の場合、2級と3級がある
- 主に医師の診断書により等級が決まる
- 多くは3級となる
- 3級の受給額は2級に比べずいぶん少ない
- 年金の受給は2ヶ月に1度、2ヶ月分が支給される
より具体的な調査を続けるうち、以下のこともわかってきました。
- 素人が自力で2級の認定を目指すのは困難
- より確実な認定を受けるため、社労士による代行サービスがある
- かかりつけ医院のケースワーカーにも相談できる(代行はない)
ということで、まずは通院先のケースワーカーに相談してみました。
ケースワーカーによれば、現在の自分は「3級の認定は間違いないが、2級は厳しい」とのことでした。
次に社労士(代行サービス)に相談したところ「十分2級でいける内容」と言われました。
自力で2級と認定されるのがなぜ難しいか、どのように進めれば良いかについて詳しく聞かせていただき、大変心強く思いました。
同時に、ケースワーカーの話だけを聞いて自分で手続きしないで良かった…と思いました。
代行料金については前金無しの「成功報酬」となっていました。
また、「過去最大5年まで遡り、貰い損ねていた遡及額を請求できる」という話も魅力的でした。
こちらも通った場合は「結構な額の」成功報酬を支払うことになっていますが、元々受け取れると思っていなかったものですから、少しでも手元に残ればありがたいことです。
以後、社労士とのやり取りが長く根気強く続けられます。
必要な書類や情報が多く、揃えるのは大変でした。古い書類を漁ったり、医師の診断書をもらったり、市役所へ行ったり、会社で書類を探してもらい送ってもらう等、かなり時間がかかりました。
最大の問題となったのは
最初の記事で書いた、悪名高いK医院です。思えばこの医院に通いさえしなければ薬害によりジャンキーになることもなく、その後の人生も今のように転落していなかったでしょう。なんだったら薬害として訴訟を起こしても良かったのではとすら思います。
正直もう関わりたくありませんでしたが、今回はそうもいきません。この障害で最初にかかった医師の診断書と、初診日を証明する書類が必要だったためです。
久々に病院へ出向いていみると、「カルテが残っていないから診断書を出せない」と、サラリと言われました。
事情を聞いてみると、医院のルールにより、患者のカルテは法的に定められた最低年数しか保持していませんでした。
ちなみに社労士やこの後訪れるJ医院の医師によれば、普通、精神科は通常より長めにカルテを残すものだと聞かされました。
代わりに、初診日はわからないが、最後に受診した日ならデータベースに残っているからわかると言われました。
それに意味があるのかはわかりませんが、ひとまずそこを初診日の代わりとすることができるかも知れず、証明を出してもらうことにしました。
…が、数十分待たされた後に「最後の受診日を今日に上書きしてしまったので記録が消えました」と、これもサラリと言われました。
いやいやちょっと。ていうかオイ。
終始悪びれることもなく高圧的で、面倒そうな対応でした。データ上書きミスについても、最後まで謝罪はありませんでした。
これにはさすがに私もキレましたが看護師の態度は変わらず、得るものはありませんでした。
医師やケースワーカーが相談に乗ってくれることもありませんでした。「面倒なので門前払い」という態度がありありと見て取れました。
やはり業界でも悪名高いだけあり、最低の医院でした。
次に、社労士の指示により、私は2番目にかかり入院もしたJ医院を訪ねました。
担当だった医師は退職していましたが、こちらの医院にはカルテが残っており、すんなりと診断書をいただけました。
K医院のおかげで不明となってしまった初診日の「変わりとなる日」の証明も得られました。
資料を送付し社労士にチェックしてもらうやり取りを何度か繰り返し、ついに代理提出をしてもらいました。
しばらくして、日本年金機構より「国民年金・厚生年金保険年金証書」が届きました。
等級:3級13号
結果は3級の認定でした。良かったのは、遡及請求分の支払いが認められたことです。収入が半減した現在、これは大きいことです。
自力で進めていたら、間違いなくこの結果で了承していたことでしょう。
しかし社労士は「2級は取れる内容ですので、不服申立てを行います。よくあることです」と言ってくれました。
不服申立ての結果、精神障害者2級の認定
またいくつかの段取りと書類整備を経て、社労士は不服申立てを進めてくれました。
確か、医師の診断書も再度書いてもらったと思います。
内心、一度出た認定がそうそう覆ることもないだろうと思っていました。
しばらくして、今度は「支給額変更通知書」と「年金支払通知書」が届きました。
等級:2級16号
本当に、精神障害者2級と認定されました。社労士がマジシャンに思えた瞬間です。
「支給額変更通知書」には「3級と認定されていたが2級に繰り上がったので差額が支払われる」という内容が記されていました。
これで半減した給与に障害厚生年金を足すと、最後に出社していた頃に近い収入になりました。
遡及分については社労士に結構な額をお支払いしましたが、それでも手元にある程度残すことができました。
この制度を教えてくれた社長、親身になってくださったJ医院の医師、多くの助言をくださったケースワーカー、そして頼りになる社労士に、心から感謝しています。
K医院には二度と近寄りません。あの女性看護師の理不尽で傲慢な態度が忘れられません。
障害者手帳の取得
日本年金機構で手続きした障害厚生年金とは別に、市役所で取得できる障神障害者保健福祉手帳を持っていると、様々な恩恵を受けられます。
順序としては障害厚生年金の手続きを先にすることで、障害者手帳はスムーズに取得できるとのことでした。
障害厚生年金の証書を持って市役所に赴き、手続きを行いました。
受け取りは当日だったか後日だったか記憶が定かではありませんが、問題なく取得できました。
障害者手帳の方も「障害等級 2級」と記載されています。
障害者手帳のメリットで代表的なものは、税額控除です。「所得税」と「住民税」が控除され、概ね年に4万円~を節約できます。
もう一つが、手帳と共に発行された「精神障害者医療費受給者証」です。
自治体により異なるかも知れませんが、健康保険が適用される医療について、医療費の自己負担分が無料になります。
まさかと疑っていましたが、精神障害に関わらない医療費、例えば歯科治療等が実際に無料になりました。県内なら利用OKと記載されています。これはありがたい制度です。
これで収入を増やしつつ、支出を抑えることもできました。
三度目の結婚、妻への感謝
実は上記の手続きを始める少し前より、私生活に大きな変化がありました。
自宅勤務になったことで一緒にいる時間が多くなった彼女と、三度目の結婚を果たしたのです。
父の死後 数カ月後の成人というタイミングであったため、私達はせめて喪明けを待とうと決めていました。
前々回の記事で、成人するまでは結婚を許さないと言われていた彼女のご両親に正式に申し入れ、快諾されました。
最初の結婚では障害(K医院のおかげで最もひどい時期)により関係が冷え切ってしまいました。
二度目の結婚では相手の性格をよく知らないうちに半ばノリで結婚し、妻の不貞発覚により修羅場を迎えました。
今回は十分にお互いを知る時間があり、互いに信頼し支え合える関係になっています。
この記事を書いている時点でもうすぐ4回目の結婚記念日を迎えますが、今も仲良し夫婦です。
結婚後は、妻の実家とも良好な関係を築いています。
義父、義母、義弟、それぞれと合う話題があるため、顔を合わせるといつも談笑します。
妻のおかげで、過去2度の結婚生活では得られなかった、楽しく安心できる家庭を得ることができました。
妻は本当によく笑います。とても楽しそうに、見ているだけでこちらの気分も明るくなるような笑顔です。
これがどれほど心の支えとなったことか。
父の死にも立ち会ってくれ、結婚が可能になるまで共に待ってくれた妻には感謝が絶えません。
二度目の妊娠、「今度こそは」
障害厚生年金の手続きをしている最中、妻の妊娠が発覚しました。二度目の妊娠です。
光はこの世に産まれてくることができませんでしたが、今度こそ…。
初回もそうでしたが、妻は大変苦しそうでした。私はよく背中や腰をさすってやりました。
家事もほとんどできなくなり、炊事と洗濯は私が行いました。掃除は…たまにしていました。
皆さんそうなのかはわかりませんが、妻は妊娠すると食べられるものが非常に限定されました。
初回の妊娠時は、寿司しか受け付けませんでした。
今回は地元で有名な「とある袋入りラーメン」なら食べられることがわかりました。
調理とは無縁だった私ですが、さすがに妻のため最低限のことは覚えました。チャーハンもまともに作れない腕前ですが。
通院したのは、母が私を産んだ病院でした。
何度も検査に足を運び、院内でセミナーのようなものがあると、妻の体調と相談して一緒に参加しました。
性別については、光のときと同様に二人共「女の子だと思う」と直感が一致していました。
途中で性別を教えてもらいましたが、的中していました。ただ姿勢が微妙で断定できないとのことでした。
いよいよお腹が大きくなると、中で何かが動いているのがはっきり見て取れました。
中から押している小さな手足に触れることもできました。
産まれるときのこと、産まれてからのことをネットや書籍で調べ、色々と相談しました。
そして凡そ予定通りの時期に、妻は入院することになりました。大晦日の前日でした。
妻は個室に入ることができました。私は必要になりそうなものをたんまり持ち込みました。
大変に痛がるため、妻に言われた通り、私はずっと腰を「グーで」押したり撫でたりしました。
ふと、トイレに立った妻が妙に長い間帰ってこないことに気付きました。
大丈夫かと声をかけに行くと、中で「うぅぅぅ~、うぅぅぅ~」と唸っています。
確かイキんではいけないのではなかったか!?
トイレのドア越しに「おーい、イキんじゃだめだと思うぞ、ナース呼ぶか?」と声をかけました。
中からは「うぅぅぅ~、うぅぅぅ~」と弱々しい声が返ってきます。
「アカン」
私はすぐにナースコールし、「トイレに籠もり、イキんでいるような声が聞こえます」と告げました。
すごいスピードで看護師(助産師?)がやってきました。そしてトイレのドアを開け、中で妻と何か話していました。
出てくると、こう告げられました。
「お産が始まりますので以前教えた通りにお願いします」
慌ただしく準備が始まり、私はひとまず母と義母に連絡しました。
そして合同予行演習した通り、分娩室のある大きな部屋へ向かいました。
靴を脱ぐ際にも決まりがありました。慌てていましたが必死に思い出しました。
病院側スタッフのミスで待ちぼうけ
我々夫婦は、入院時の書類に「立ち会い出産を希望」すると記入しました。
私は当然妻の入っていった分娩室に一緒に行くものだと思っていました。
予行演習でもそうだったように記憶しています。
しかし電話後に分娩室へ向かうと既に誰もおらず、二つある分娩室のどちらかわからず、入るタイミングがわからなかった私は、分娩室の前をうろうろしていました。勝手に入って別の人だったら(非常に)まずいですし。
すると奥の分娩室から助産師らしき初老のおばさんが大慌てで出てきて、私に「◯◯さん?ちょっと待って!そこで待って!」と言い、「あの…」と質問するこちらをガン無視して手前の分娩室にまた大慌てで入っていきました。
ちょっと待てと言われたからには待つしかありませんが、手前の分娩室から明らかに妻とわかる声が聞こえてきます。怒っている感じもします。苦しそうでもあります。
そこから10分ほど放置されました。
この間、分娩室では何やら問題が発生し、
「男性医師を呼んでいるからがんばって待って」
「あれ?◯◯さんって立会い出産でしたよね?旦那さんは?」
というやり取りがあったそうです。後に妻に聞きました。
さきほどのおばさんが慌てて出てきて、「すいません◯◯さん、中に入ってください!」と言われました。
今までの時間は何だったのか…。待っている間に産まれてしまったらどう責任を取るんでしょうか。
妻曰く、この「待っている」時間中、女性医師はずっと何かを押さえていました。おそらく赤ちゃんの頭だったのではないかとのことです。
その理由は後にわかりました。
新たな命の誕生、念願のパパに
分娩室に入ると、女性医師が妻の足の間に立ち、何やらがんばっているようでした。
私は妻に「大丈夫か、ジュース飲むか?」と聞きましたが、妻は返答している余裕がないようでした。
口元にジュースを近づけると、プイと顔をそらしました。私はなるべく妻に声をかけるようにしました。
この時間はおそらく長くても10分程度と思いますが、非常に長く感じられました。
しばらくすると、普段担当してくれている男性医師がスタスタと入室しました。年末でお休み中だったものと思われます。
私は、男性医師が手に持っているものに目が行きました。
「どう見てもハサミ」
何も告げられず、迷いのない動きで男性医師が妻の足の間にハサミを差し入れました。
妻は変わらず苦しんでいるままで、変化はありません。
女性医師に代わるとすぐ、「赤ちゃん見えましたよ!」と声をかけられました。
妻は必死にイキんでいました。「もう少しですよ、がんばりましょう」と声掛けがあり、ラストスパートに差し掛かったことが伺い知れました。
ハサミ挿入から急に事態が進んだことで、出口がキツくて赤ちゃんが出られなかったため男性医師が切開しに現れたことを理解しました。
しばらくすると、女性医師が赤ちゃんらしきものを抱いて、無言で隣の部屋へ去って行きました。
何が起きているのかわかりませんでしたが、そう言えば
「泣き声が聞こえない…」
これはもしかして「あのパターン」なのか?
私は嫌な想像をかきけすように、妻に声をかけ続けました。
そしてしばらくすると…
「んゃあぁぁぁ んゃあぁぁぁ」
隣の部屋から赤ちゃんの鳴き声が聞こえました。私はハッとして振り返りました。
女性医師が泣いている赤ちゃんを連れて私達の元へ戻り、「女の子です。元気ですよ」と言ってくれました。
その言葉に心底安心しつつ、胸が高鳴って言葉に詰まりました。
人生の転落を何度も経験し、将来に絶望した私に、今 子供ができた!
新しい家族の誕生に私は心底喜び、幸福感に溢れ、涙が溢れ出ました。
泣きながら情けない声で、妻に「よくやったな、本当にがんばったな」「おれらの子供が産まれたぞ」と声をかけました。
妻はしばらくそれどころではない感じでしたが、産まれたばかりの小さな命を見ると嬉しそうに笑い、愛おしそうに見つめていました。
その後私はすぐに分娩室を出て、受付前の椅子で待機していた母と妻の家族の元へ向かいました。
「今産まれました、女の子です」
と、ボロボロ涙を流しながら伝えました。わぁっと歓声が上がり、皆立ち上がって拍手してくれました。
分娩室に戻ると娘はキャスター付きの台の上に寝かされていました。四方に透明な壁がある水槽状のケースの中に収められています。
未だによくわかりませんが帽子のようなものを被り、へその緒はまだあったと思います。
ほどなくして母が入ってきて、産まれたばかりの孫と対面しました。母は涙を流し、妻に労いの言葉をかけました。
妻の家族も入ってきて、わぁ、小さいなー、かわいいねーと大喜びしていました。
このとき、皆に「パパに似ている」と言われたのが大変うれしく、また妻には少々申し訳ない気持ちになりました。
しかし、はっきり言って幼い頃の私に激似でした。
3人家族での生活が始まる
その後、別の病室に移されました。個室ではなく、1つの部屋をカーテンで仕切った狭い相部屋でした。
生活音がしていましたので隣に誰かがいるのはわかりましたが接触はありませんでした。
希望は個室でしたが空きがなかったため、一晩だけこの部屋で過ごすことになりました。
妻の家族が帰宅し、母もしばらく留まった後帰宅しました。
私と妻、娘の三人家族で静かな時を過ごしました。
私は年末に必ず発生する仕事のトラブルに対処するため、度々車に戻って仕事をしていたこともあり、疲れて30分ほど寝ていたようです。
面会時間が20時までのため、私は後ろ髪を引かれつつ帰宅しました。
帰宅後、父が微笑みかける仏壇に、手を合わせて報告しました。
大の子供好きで有名だった父に、やっと「孫娘ができたよ」と伝えることができ、嬉しさと、間に合わなかった悔しさで涙が出ました。
父は生前、「孫ができたら何でも買ってやる」と母に話していたそうです。孫を溺愛する姿が容易に思い浮かべられます。
そんな父に孫を抱かせてやることができず本当に残念です。しかし、きっと向こうで喜んで自慢しているだろうな、と思っています。
翌朝病院を訪れると、もう部屋の引っ越しは始まっていました。
今までの部屋からは想像できない、ホテルのように広くきれいな個室でした。大きな窓があり、カーテンを開ければ外の風景を見ることもできます。
妻が寝るベッドの横には、生まれたばかりの娘が例のキャスター付きベッドで寝ています。
大晦日ということもあり、この日は宿泊の申請を出していました。
年越しは家族一緒に、笑ってはいけない某番組を見ようと決めていたのでした。
こうして、家族3人で過ごす最初の夜を平和に過ごしました。
元旦、私はベッドにもなるソファの展開作業に苦しんだ後、家族と共に眠りにつきました。
家族と今、そしてこれから
ここまで、長い長い私の15年以上に渡る転落と浮上の人生について書き連ねてきました。
こうしてブログを書いている今、娘は2歳半を過ぎたところです。元気いっぱいで、おしゃべりもできるようになってきました。
私も妻もまさしく溺愛しており、愛情いっぱいの環境ですくすく育っています。背はあまり伸びていませんが…。
娘の額にはかなり目立つ大きなV字型の赤っぽいアザがありますが、これは小さいうちに手術すれば消えるそうです。
※産婦人科では「自然に治る」と言われていましたが治らず、皮膚科では「産婦人科ではよくそう言われるけど、治らないことが多いから小さいうちに対処を」ということでした。また1歳頃までなら手術できたが、今だともう少し大きくなってからの方が良いとも言われました。
家族関係は良好です。妻は変わらずよく笑い、落ち込みそうになる私を支えてくれています。保育園でママ友ができ、交流を楽しんでいます。
私の収入に加え妻のパート収入もあるため生活に余裕もできました。
父の死後に鬱状態となり、一時期人生の時計が止まってしまった母は、今では父に代わって犬を大変かわいがり、友人と買い物や食事に出かけたりと新しい人生を歩んでいます。
毎晩父の仏壇に手を合わせに行った後に、3人で母のいる部屋を訪れます。母は、孫と触れ合えるこの時間をとても楽しみにしています。犬も大喜びします。
落ちに落ちた私の人生でしたが、現在は家族のおかげで幸せに過ごせています。
障害については完治はしていませんし、しそうにありませんが、良い病院と医師、そして薬に出会えたことで、鬱症状はかなり抑えられ、副作用もあまり強く出ない状態です。
躁症状の方はあまり抑制できていません。躁が強く出た後はさすがに反動で鬱症状も出ます。
一生この障害と付き合っていくしかないと、既に覚悟を決めています。
これで人生の再スタートを切ることができたように思えますが、人生そう甘くはありません。
この続きは次回の記事でお話したいと思います。