※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【肯定的に表現をすること】


勤務先でブレスト(ブレインストーミング)がありました。

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4~5名の小グループで会議室にこもり、
テーマを設定して、そのテーマに関連して
”思い付くもの” を各人が紙に書きだし
その内容について皆で議論するというかたちですすんでゆきました。

その際の 「進行」 が実に印象に残っています。

その会合では進め方の前提として、
・紙に書かれた内容を実現するとどんな世の中になるか自分の考えを述べる
・書かれた内容についての批判はしない、否定的にならない
・肯定的な表現を使って 会話を続ける
という条件が付加されていました。

なので参加者は、
「言葉の表現を選び」
「否定的な表現を一切使わない」
という前提の発言を皆するので、
会話がとても面白くかんじました

そんなかたちでブレストが進んでゆくのでした

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この ”肯定的な表現で会話を組み立てる” というのが
はじめはなかなか違和感があったのですが
続けていると実に新鮮な感じでした。


普段は
肯定的な言葉を選んで会話をするということ
それは なかなかないものです

というのは、
考えてみると普段の生活の中には
とても多くの
”否定的な表現”
が はびこっているからです


その現実に気付かされ、
しつけや指導と称して べからずの話が世の中多いこと
の現実に唖然としたのでした

なぜ否定的批判的な表現が多いのか
そんなことを考えてみてもいいのかな、、、
それよりも
”肯定的な表現をして能動的な気持ち”を持つ方が
いい結果がでるのではないか
と思ったりしたのでした

”肯定的に表現をすること”
とても大事なことじゃないかな
と思うのでした。

”環境” という言葉

実に使うのが難しい言葉、用語だと考えています


というのは

何らかの修飾する言葉と組合せてはじめて、意味として明確になるからです


例を挙げると対象としている修飾語と組み合わせて

・生活環境

・教育環境

・労働環境

・都市環境、、、


協議では パソコンの個人環境、とか 利用する状態を整えることを称したりします


とくに近年、生態学(エコロジー)を由来とすることを暗黙の前提として

”環境”という言葉が使われること

増えたように想うのです

しかし その用語の使われている前後の文脈から読み解くと、

”環境”という用語を使っていながらなにを言いたいのかよくわからない場合も見受けられます


要は ”環境” という言葉の前後に

その情報を伝える側が軸足を置いている案件を組み合わせてて示さないと

受け手に正しく理解していただけない 用語だと想うのです


それが ”環境”



わたしは ”樹木"が生き生きとする ”生育環境” を 整えたい

それを由来とする 生態系 の維持された ”自然環境” の回復が期待され

地球環境 の回復につながると信じるからです

※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【表面のみで早合点すること】


他人を観るとき、
顔つきとか態度とか表面的なものに目を奪われ、
それによってのみ人を判断する人がいる。

それによって、
「良い」と判断が下された人はいいですが、
「駄目」と思われてしまった人は、
そうした烙印[らくいん]を取り除くのにかなりの苦労がしいられます。


ケアレスな思い込みが、
仲間を自分では気付かないうちに
傷つけているのである。


こうした間違いを犯しているときには、
たいてい我々は、
いくつかのステレオタイプ(定型、固定観念)のなかにいれてしまっています。

・臆病者
・怠け者
・おっちょこちょい
・慌て者
・ごますりタイプ
・日よりみ主義
・熱心党
・勤勉家
などいくらでもあります。


こうして、
ある自分のタイプに分類してその枠の中でしかその人を見ようとしなくなります。
つまり、レッテルを張ってしまうのです。


そうなると、
「レッテル」を基準に観るため、
人間の個性も複雑さも忘れ去られ
碁盤の上の一つの石のように扱ったりします。

思い込みというのは恐ろしいもので
他人に対して一度もってしまった印象というのは、
まず変化することはありません。


以前 団体の競技スポーツに携わっていて経験したのですが、
「この選手は駄目だ」
と指導者が思い込むと、
そのプレーヤーは使ってもらえず、
二度と浮かび上がってきません。
いつのまにかチームの中で埋没してしまうか、
やめていってしまうか のどちらかです。


チームや組織で活動をしていると
様々な人たちとかかわり合いを持ちます。
そのとき他人に対しての印象、それが直接であれ 間接的であれ
一度自分に刷り込まれたものは なかなか変化することはありません


特に悪い印象が刷り込まれた場合、それはなかなか変化することが無く
無意識で相手を傷つけてしまうこともあったりします

そういったことを認識しておく必要があると思います

※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※



【お役所仕事】

我が国では
”お役所仕事”
ということが よく問題にされます

お役所仕事というのは、
・仕事がスロー
・義務的
・杓子定規
・形式主義
・融通性の欠如
・創造性の無さ
などさまざまな意味で使われます

それと同時に、
お役所には ”縦割り行政”
という問題があり、
何かやるにしても、
一つの部局とそのとなりの部局がまったく関係がなく、
同時に平行してやってみたり、
二つか三つの部局が協力してやればいいのにやらないで、その結果
それぞれが別々にやることが、
非難の対象になったりします。
つまり、横のつながりが欠落しているのです
これも ”お役所仕事”として”非難の対象”になります


これらの原因には、組織の細分化があげられます

細分化された組織では
”自分達のテリトリーと利益を優先”し、
”自分達を中心とした考え方”
にどうしても偏ってしまう。
そのため
”自分たちを中心とした排他的な感覚”
が生まれてきます。
その結果、
自分達の不利になるようなことに対しては、
「われわれの組織の仕事ではない」
というお役所的な対応をして、
自分達を守ろうとします


一方で、(お役所とか関係なく)もし
細分化されたそれぞれのグループが
健全な形で運営がされるとしたら、そのグループが
”自主的に活動すること”
は、尊重しなくてはいけません。
というのは、
そうした
”自主的な活動”を維持できる雰囲気の中から、
誰かから強制されるのではなく、
”自分の意志で物事に取り組むのだ”
という意欲が湧いてきて、
それが全ての原動力につながるからです。

しかしその内容が”独りよがり”ではいけません。
全体の一部として機能をはたすためには、
”話し合いのパイプ”
を通しておいて、
全体からはずれないように、
”情報の交流”
がなくてはいけない。

それが実現できなければ、
いくら取り組んでも
そのグループが独りよがりであれば、
組織全体から観ると
単なる無駄にすぎないからです


※ かつて ”チームリーダー” で感じたこと の樹憶 ※


【自己を客観的に観る】
「主観」と「客観」
この両者をバランスよくもつことが大切かな
と時折感じます


ヒトは他人のやっていることについては、
「あなたのそんなやり方じゃ駄目だ」
「こんなやり方はするな」
「こんなことしても意味がない」
などと言ったりするものです

外から見ると異なった視点で
その対象となるものごと の
よくないところ を見つけやすいからです


そういう他人にたいして意見を述べる場合 それは
「主観」と「客観」
の視点を駆使して見解を述べていると思います


しかしその対象が
「自分自身」である場合は
それがうまくできない、機能しない
ということがほとんどだと思います
「自身が対象であると、助言をすることができない」
のです

その場合は おおかたが
”そういう経験を積んでいない”
”機会があったとしても 主観が強い”
というのがうまく行かない理由だと思います

とくに
「自分自身にたいして 客観的に観る」
ということは
なかなか難しくできない でしょう

何らかの 案件をおこなわなくてはいけなくなって、
仲間や上司も部下もいない、という状況になったら、
”全て自分で物事をこなさねばいけない”でしょう
そういうときが 訪れるときがあるとおもいます

特にその案件が自分や個人のためでなく
”他人の為のもの”
”不特定多数を対象としたこと”
であるときは
”事を進めるときの過程が適切であるか”
ということや
”出来上がった成果が案件にとって適切がどうか”
という分析や評価が必要となります

そんなことにもし一人で取り組まないといけない時は、
「はたして自分のやっているやり方は 正しいのだろうか?」
というような自問自答から
はじめてみる しかありません。

何かに取り組んで援助者がいないとき、結局は
”自分自身で判断をして事を運ばないといけない”
のです

その際は、
「自身のやっていることを距離を置いて見つめてみる」
「自己を他人が観ているように観て批判してみる」
ということから 試してみるのです

これは
「自分自身を客観的に見る」
ということです


自己を客観的に観るのはなかなか難しいものですが、
そんな癖をつけておくことは必要かと思います


そして目指すところとしては、
「”主観”と”客観”のバランス」
それがとれたかたちになることかな
と思うのであります