手紙 | WILD WILD WEST

WILD WILD WEST

2002年、アラフォーでアメリカ人の男性と結婚。ポテトで有名なアイダホ州の田舎で暮らす主婦の ちょっと野生な日々。。。

姉ちゃん、

 

姉ちゃんがあちらに行って、三カ月になりました。

父ちゃんと母ちゃんと、楽しくやってる?

姉ちゃんが母ちゃんよりバアサンになってたから、変な感じはしない?

私もそっちに行ったら、きっと変な感じだと思うよ。

 

突然いなくなって、今でも信じられないよ。

今でも姉ちゃんのことを思うと、オイオイ泣いてしまう。

 

大人になってから、腹を割って話をしたことが無かったよね。

お互いに短気だから、すぐ腹を立てるしさ。言いたいことの半分も言ってなかったんじゃないかな・・・?

 

9月に私がアメリカに戻る前、姉ちゃんが怪我をしたって、ひー(弟)から連絡が来て、ミー(二番目の姉)が姉ちゃんと電話で話した後、私に代わるか?って聞いたら、「よか・・・」って言ったらしいね。

もし、私と代わってたら、私が心配するから・・、私がアメリカに帰らないって言ってしまうんじゃないか・・って、思ったのかな?

 

アメリカに戻る日の朝、ミーの家を出る前に姉ちゃんに電話したけど、出なかったから、成田から電話しようと思ってたけど、忘れてしまって・・・。

 

ごめんね、最後に話をしたかったよね。

けど、姉ちゃんはその頃はとても苦しかったのかな?

話もできない状態だったかもしれないね。

 

鹿児島空港に見送りに来てくれたのが、最後だったね。

もう少しゆっくりと話をすれば良かったね。

今度はいつ会えるかな?と思ってたけど、こんなに急にいなくなるなんて、思いもしなかったよ。

空港でお昼を食べた時に、姉ちゃんが普段あまり食べないであろうカツカレーを注文したから、不思議に思ったんだよ。

 

入院中、ご飯はちゃんと食べてた?

姉ちゃんは少食だったし、痛みと苦しみであまり食べられなかったんじゃない?お腹すいてなかった?

父ちゃんも最後の日は、「腹が減った・・」って言ってたし。

ヘルパーさんと看護師さんはいたけど、家族は誰も姉ちゃんの傍にいなかったから、寂しかったでしょう?

けど、最後の最後の瞬間、ひーが来てくれたこと、分かってたよね?

 

そして、サンフランシスコ空港に着いた途端、ミーから姉ちゃんが逝ってしまったって、ラインが入ったんだよ。

けど、実は、到着前に逝ってしまってたんだよね。

 

もう、どうしていいか分からなかったよ。

サンフランシスコ空港内を歩きながら涙が出て来て、他人から見たらおばさんが一人で泣いてて、変・・って思われてたかもね。

 

ゆり(姪)がアイダホに来ることになってたから、一週間こっちにいさせてもらって、お見送りとかミーとひーに任せてしまったけど・・・。

 

一週間後にまた日本に帰って、姉ちゃんが10年住んでいた家(借家)の片づけをしたんだよ。

 

姉ちゃんは、中学校を卒業した後、患ってた病気のため、その後の人生の大半を病院で過ごしたね。

姉ちゃんとひーが入院した日、平日だったから私もミーも学校に行ってて、帰って来たらもういなくなってたね。

近所のおばさんたちから、「マミちゃんもひーちゃんも泣きながら行ったよ。」って聞いた。

 

病院暮らしも30年以上になって、その後、ヘルパーさんやボランティアの人の助けを借りて、ずっと希望してた一人暮らしを始めたんだよね。

今まで一人でっていうか、家事とかしたこと無かったから、最初は大変だったでしょ。御飯の作り方も分からないし。

けど、私が子供の頃は、姉ちゃんはホントに大人ってかんじで、忙しかった母ちゃんの代わりに、姉ちゃんからしつけをしてもらったって感じてるよ。姉ちゃんは、真面目で几帳面だったし。

 

姉ちゃんは、姉弟の中で一番きれいで・・・というか、ホントにに美人だったよね。姉ちゃんのアルバムの若い時の写真を見たら、「すごいキレイ!」って思ったよ。

同じ親から生まれたとは思えないくらい。

 

うん、キレイで、頭も良くて・・・。姉ちゃんの同級生でさ、地元の小さな中学からラ・サール中学に入学して医者になった人がいたじゃん。あの人が、「マミさんには、敵わなかった・・」って言ってたらしいよ。

 

それと、ミーから聞いたけど、試験前とかに全然勉強をしないし、宿題をちゃっちゃっと片づけて、あまり勉強をしてるのを見なかったって。

それで、ある日姉ちゃんに「試験勉強をしなくていいの?」って聞いたら、「授業を聞いてたら分かるから、わざわざ勉強をする必要はない」って言ったらしいね。ひぇ~~!だよ。

同じ姉妹でもこんなに違うんだよね。私なんか必死で勉強して、あの成績だったしさ。

姉ちゃんが元気だったら、しれーっとして、医者か弁護士になって、ブイブイいわせてたかもね。

なんか、勿体ないっていうか、残念と言うか・・・。

今の時代だったら、大学まで行けてたかもね。

あの頃は、高校に行くのも無理・・って決めつけられてたよね。

けど、通信教育で高校も卒業して、更に何か資格の勉強もしてたよね。

英会話も習ってたし、じゃがみつ(夫)とも英語で話してたよね。

 

子供の頃から器用で、洋裁も編み物も上手で、姉ちゃんが母ちゃんの為に編んだマフラーとカーディガン、私が未だに使ってるよ。

入院中には、リハビリのために、ちぎり絵、文化刺しゅう、切り絵、和紙でアクセサリーを作ったり、レザークラフトもやったり。そして、それが、また上手だったしさ。

 

けど、病気はどんどんと進行して行って、ここ数年、何もできなくなったね。

本当に歯がゆい思いだったことだろうね。

 

でね、姉ちゃんちを片付ける時、最初は荷物の多さに愕然として、泣きそうになったんだよ。私も約一か月の日本滞在の予定だったしさ。終わらないんじゃないかって、心配した。

けど、ひーや叔母さん、従兄弟妹にいっぱい助けてもらって、家の引き渡しまで無事に済んだよ。

私の友達も手伝いするって言ってくれたんだよ。

 

二度目に帰って来た日の夜、いつものようにひーが鹿児島空港まで迎えに来てくれて、その後、姉ちゃんちに泊ったでしょ。

実を言うと、姉ちゃんのお骨と一緒だったからかな、寂しいな・・・って、あまり感じなかった。旅の疲れもあったかもしれないけど。

 

その後、ほぼ一日おきに姉ちゃんちまで行って、荷物をまとめて、家(実家)に運んで、それをまた片づけて・・・って作業をしてたでしょ。

最初は、済ませることに必死で頭がいっぱいだったんだけど、日にちが経つに連れて、どんどんと姉ちゃんの物が家から無くなって行って、主人のいなくなった空っぽの車いすを見た時、

「あー、姉ちゃんはホントにいなくなってしまったんだ・・・・」

って、今更ながら思えて、そしたら、涙がだーーーって出て来て、暫く一人でその場に立ち尽くして泣いてしまった。

突然、現実が押し寄せて来た・・って感じだった。

それからかな、夜になると(昼間は忙しかったから)、一人でわんわん泣いてた。

 

姉ちゃん、ホントに几帳面だったね。

書類なんかも種別にまとめてあったし、少ない年金から箪笥貯金もしてたね。

アルバムも整理してあって、見てたら、色んなこと思いだしたよ。

そして、ほら、こんな古~い写真も出て来て。

 

父ちゃんと母ちゃんの結婚式

 

で、姉ちゃんが生まれて、

背後におむつ(笑)

これなんか、姪のユリの赤ちゃん時代におでこが同じ。

それとね、叔母さんのアルバムにもこんなのが、

もう、どんだけ昭和なんだっ!てな写真だよね(笑)

戦後かっ!?ってな感じ。

 

アルバムを見てたら、姉ちゃんはイギリスとフランス、それに北海道にも旅行に行ったんだったよね。思い出したよ。

北海道土産の花瓶、こっちに持って来て飾ってるよ。

 

私も姉ちゃんと山形屋(鹿児島の老舗デパート)に行ったり、映画に行ったり、美容院に連れて行ったり、ドライブに行ったり、コンサートに行ったりしたよね。

で、姉ちゃんから洋服を買ってもらったり、ご飯をご馳走してもらったりしたね。

私は行かなかったけど、沖縄や東京ディズニーランドにも行ったんだったよね。

 

ご飯と言えば、姉ちゃんちに泊まった時は、私がご飯を作ったね。

姉ちゃんが肺がんの手術をして退院後(筋ジスの上、肺がんまでしなくてもいいのに)、姉ちゃんちで年越しをした時、年越しそばを作ったら、「美味しい」って食べてくれて嬉しかったよ。

その夜は、ホントに久しぶりにゆっくりと紅白も観れたんだったよね。

父ちゃんは、一人で年越しでかわいそうだったけど。

 

去年、帰った時、姉ちゃんの誕生日に「タコスが食べたい」ってリクエストがあったけど、地元じゃ材料がそろわなくて、タコサラダ擬きになってしまったけど、今年、こっちから材料を持って行って、タコスを作ってあげられてよかった。

 

父ちゃんの法事の後、姉ちゃんの還暦祝いも ささやかだったけど、姉弟4人でできてよかったよね。

長生きして良かったね。(筋ジスで60歳まで生きられるのは、長生きの方です)

まさか、その後すぐに、姉ちゃんが逝ってしまうなんて思いもしなかった。

姉ちゃんだって、思ってなかったでしょう?

 

もう姉ちゃんちでご飯を食べることも、泊まることも出来なくなってしまった。

姉ちゃんちへ行く道もドライブすることもなくなってしまった。

寂しいね・・・。

 

父ちゃんがいなくなって空き家になってしまった家も、ひーと姉ちゃんが交互に行ってくれて、風を入れてくれてたから、空き家にしては今でもきれいだよ。

不自由な身体で、家まで通うのも大変だったでしょう。

ありがとう。

 

6人家族が、5人になって、姉弟4人になってしまって、そして、3人になってしまった。

兄弟がいなくなるって、こんなに悲しいとは想定外だったけど、3人で、ますます力を合わせて仲良くして行くから、姉ちゃん、父ちゃん母ちゃんと見守っててね。

 

ありがとう。