吉良上野介とリチャード3世 | 東海雜記

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主に読書日記

年末は第九と忠臣蔵と紅白歌合戦。
というのが私の子供のころの日本の定番でありました。

それくらいメジャーな忠臣蔵。そして吉良上野介。
この人、忠臣蔵がメジャーなばかりにかなり損してます。芝居、講談、すなわち虚構のイメージが強すぎ、歴史上の吉良義央(上野介)とは乖離しております。
フィクションが現実を凌駕している、それだけ忠臣蔵は偉大なのでしょう。

20年位前からは一般でも講談の上野介と区別し、史上の吉良義央をきちんと評価しようというものも多くなりました。また小説などでもそのようなものが増えてきました。
(小説では小林信彦さんの『表裏忠臣蔵』、漫画では杉浦日向子さんの「本朝大義考 吉良供養 検証・當夜之吉良邸」がおすすめ)

洋の東西を問わず、このような例があるようです。
「三国志演義」の曹操。『リチャード3世』のリチャード。

リチャード3世。プランタジネット朝(ヨーク家)の最後のイングランド王。あのシェークスピアの戯曲で描かれたことが彼の悲劇でした。
忠臣蔵の吉良上野はケチな悪党ですが、シェークスピアのリチャード3世は圧倒的な存在感を持つ悪党として描かれています。その魅力に古今の名優も魅了され、さまざまな役者がリチャードを演じてきました。
ローレンス・オリビエの映画版など、ある種のエロスを感じるほど。せむしでびっこ、悪に醜くゆがんだ顔。にもかかわらず、彼が口説けば女性も男性もころりとだまされてしまいます。

史実のリチャードはなかなか有能であったようです。イギリスの推理小説家ジョセフィン・ティン『時の娘』(早川ミステリ文庫)で描いて以来、名誉回復も盛んになりまして、「リチャード3世協会」というのまであります。またリチャードのファン「リカーディアン」という人々までいます。

歴史小説などのフィクションは歴史に親しみ、その入り口となるに大きな役割を果たしていることは事実ですが、歴史、歴史観が固定されてしまう作品があるのも事実。
傑作であればあるだけ、人々はその呪縛にとらわれてしまっています。

宮本武蔵といえば吉川英治の、坂本竜馬といえば司馬遼太郎の作品イメージが定着してしまっています(勝海舟なら子母澤寛)。
しかしながら源義経、豊臣秀吉などは小説でもさまざまに描かれ、評価も多面的。
つまりは武蔵、竜馬などに吉川さんや司馬さんの作品を凌駕するもの(少なくとも匹敵するもの)がないのが原因でしょう。
(くれぐれも誤解しないでください。私は司馬さんを批判しているのではありません

いつの日かそのような作品が描かれることを夢見つつ、本日はこれでお暇いたします。