死ぬってどういうことなんだろう?
「死ぬ」という言葉を聞くと、
多くの人は
「怖い」「縁起でもない」
と感じるかもしれません。
でも、命あるものは、
生まれた瞬間から
死に向かって生きています。
人間も、
動物も、
植物も。
すべての命に共通するゴール,
それが「死」です。
それなのに、私たちは
「死」について深く考える機会を
ほとんど持ちません。
むしろ、漠然と恐れて
避けてしまうことの方が
多いのではないでしょうか。
14歳、夜の闇を走った理由
私が初めて「死」というものを
強く意識したのは
中学2年生の頃でした。
自分がこの世から消えてしまう
とはどういうことなのだろう。
考え始めると、
不思議で、
怖くて、
じっとしていられない衝動にかられ、
夜中に布団から抜け出し、
意味もなく夜道を走ったこともありました。
その頃の私は、まだ
ごく身近な人の死を
体験したことがなかったのです。
初めて経験した同級生の死
中学3年生の時。
仲の良かった同級生の男の子が、
自然災害で亡くなりました。
一年以上交換ノートを続けていた友人でした。
(※交換ノートって昔流行っていたんですよね…)
眠っているような顔をしていました…。
周りの友人たちはみんな泣いていました。
でも私は一粒の涙も出ませんでした。
数日後のお葬式でも涙は出ませんでした。
友達は驚いていました。
なぜなら、
普段の私は泣き虫だったから。
なぜだったのか、
今でもよくわかりません。
ただ、
彼が亡くなってからの数ヶ月間、
「幽霊になって出てくるのでは…」
なんだかそこにいるように感じて、
怖くて、夜一人でお風呂に入ることすら
できなくなってしまったのです。
あの頃の私にとって、
死とは、
ただただ恐ろしいものだったのです。
大好きな祖父との別れが教えてくれたこと
その8か月後、
大好きだった祖父が亡くなりました。
今度は違いました。
悲しくて悲しくて、
何をしていても涙があふれました。
道を歩いている時も泣いていました。
入学したばかりの高校も、
10日以上休んでしまいました。
不思議なことに、
そのときは、
幽霊でもいいから、
じいちゃんに会いたい
と願っていました。
このとき初めて、
死は恐怖ではなく、
私のすぐ隣にある
「身近なもの」になった気がします。

さらにその翌年。
仲の良かった同級生が
突然バイク事故で亡くなりました。
水泳で将来を期待され、
夢に向かって頑張っていた彼。
国体や県大会にインターハイ、
遠征などで学校を休むことが多く、
私はよくノートを貸していました。
「これからやりたいことがたくさんあっただろうな。」
「彼には明るい未来があったのに…」
「やり残したことがあって悔しいだろうな」
そう思うと、切なくて涙が止まりませんでした。
学校の廊下から見えるプール。
彼がいつも泳いでいた5コースに
花束が浮いていました。
人はなぜ死を怖がるのか
私は思うのです。
死ぬのが怖いと思っている人は、
やりたいことがまだある人です。
生きていれば、
もっと楽しいことがあるはず。
もっと良い人生が待っているはず、
と思っている。
それが理不尽に奪われてしまうのが怖いのです。
未来が楽しみだからこそ、長生きしたくなる…。
反対に、
「いつ死んでもいい」
と思っている人は、
人生でやるべきことをやり切った人、
そして、未来がなくなっても
失うものが何もないと感じている人です。
もう悔いはないのでしょうね。
一方、人生に絶望し、
この先もう良いことなんて起こらない。
と思いつめてしまう人もいます。
大失恋。
受験の失敗。
リストラ。
倒産。
大きな挫折の渦中では、
すべてが終わったかのように
感じられるのも無理はありません。
そうなったとき、
人はどうしても視野が狭くなってしまい、
「これからもずっと悪い状態が続くんだ」
と脳内で勘違いを起こしてしまうことがあります。
でも
未来は誰にもわかりません。
時が経ち、振り返ってみれば、
あの時は人生が終わったと思ったけれど、
そうでもなかった。
と思える日が来ることも少なくありません。
けれど世の中には、
残念ながら、
末期の病気で治る見込みがなく、
耐え難い苦痛の中で生きなければならない、
という過酷な現実を生きている人々もいます。
以前、テレビのドキュメンタリー番組
『ザ・ノンフィクション』で放送された
『私のママが決めたこと』という映像を見ました。
全身に転移したがんによる耐え難い痛みのなか、
44歳で余命宣告を受け、
日本では認められていない
「安楽死(尊厳死)」をスイスで受けることを
決断した女性・マユミさんと、
その決断に向き合ったご家族の記録です。
夫と2人の娘さんが悩み抜き、
葛藤しながらも、
最後は彼女の意思を尊重する姿。
そして、同じように
スイスでの安楽死を選ばれた
別の女性の映像を見つめながら、
私は深く考えさせられました。
他にも安楽死を求めて
スイスに渡った人が
たくさんいらっしゃるようです。
【安楽タヒを求めて】「1リットルの涙」の病、脊髄小脳変性症と生きた30年
その姿に触れるたび、
「生きる」とは何か、
「幸せ」とは何か
を考えさせられます。
死については、
簡単に語れるものではありません。
それぞれに事情があり、
それぞれに人生があります。
だからこそ、
死を考えることは、
生を考えることでもある
のだと思います。
そして、
人が本当に怖いのは、
自分の死ではない
のかもしれません。
愛する人の死です。
子ども。
親。
配偶者。
友人。
家族同然のペットたち。
失いたくない存在がいるから、
私たちは死を恐れます。
子供を虐待して殺してしまう親がたくさんいます。
大学病院の小児病棟で
そんなニュースを見ていた
入院患者の母親が
「そんなにいらない命ならうちの子にちょうだいよ!」
と泣き叫んでいた姿が、
今も脳裏に焼き付いています。
死を前にすると価値観は変わる
健康で物事が思い通りに進んでいる時、
私たちはつい刺激的な幸せを手に入れることに
一生懸命になります。
もっと成功したい。
もっといい家に住みたい。
もっと贅沢な暮らしがした。
もっとお金もちになりたい。
もちろんそれも大切です。
けれど、
いざ「死」を目前にしたり、
身近に感じたりした瞬間、
それまでの価値観が
ガラガラと音を立ててひっくり返るほどの、
大きな氣付きを得ることがあります。
健康でいられること。
人の優しさや手の温もり。
家族との時間。
自然の美しさ。
大切な人との思い出。
誰かの役に立てた喜び。
日々のやりがいや、自分自身の成長。
当たり前だと思っていたものこそ、
かけがえのない宝物だった
と気づくのです。
今日という一日を大切に
どんな死に方をするのかは、
どんな人生を歩んできたか
と同義です。
だから、
死を考えることは、
生き方を考えることでもあります。
日々の幸福の土台となるのは、
やはり
「精神的な健康」と
「肉体的な健康」。
この土台を大切にしながら、
「いつか」ではなく
「今」を生きること。
今この瞬間を味わい、
目一杯楽しむこと。
今日という一日を、
愛おしく、大切に過ごすこと。
それが、
死を見つめた先に見えてくる
答えなのかもしれません。
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