支配層・八咫烏の最重要の松工作拠点の伊勢神宮と支援する伊勢神宮崇敬会 | 輝くあなたを取り戻して

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「伊勢神宮は支配層・八咫烏にとって最も重要な松利権の工作拠点。江戸時代には、徳川幕府が推奨したお伊勢参りによって多くの人々が参拝する神社となりました。大勢の人々が集まる場所は表裏の金儲けの仕組にも通じます。伊勢神宮を支援団体が伊勢神宮崇敬会であり、初代会長は八咫烏の役割を担っていました。」

 

静岡県浜松の地から愛知県の渥美半島を通って三重県の伊勢神宮まで神御衣(絹織物)を運ぶ儀式としての「赤引糸の旅」は、渥美半島を通る中央構造線を封印する役目でもあります。それは伊勢・志摩を中心とする光の土地を封じることでもあります。裏に生贄・松取りの闇が潜む古来の神事は、現代においては観光に変わっています。

 

古くからの神社・寺院では、祭として多くの人々を集めることで、支配層の表裏の金儲けに繋がってきました。それが今では、観光名所を置いて観光客という人々を集めて、子どもや女性をさらう松利権の拠点になっているのです。ある意味、支配層の金儲けのためのトラップや罠が置かれていることになります。多くの人々はこの闇の仕掛けに気づく時に来ています。

 

こうした支配層の松利権の闇・観光の闇を解除・統合するために祈りを通して光を降ろしていく必要があります。《支配層の闇のトラップ「お伊勢参り」に繋がる「赤い羽根共同募金」》には、全国各地から伊勢神宮に参拝する「お伊勢参り」について書いています。江戸時代、支配層・八咫烏の徳川幕府は、全国各地から伊勢神宮に参拝することを推奨してきました。

 

それは、多くの参拝者を伊勢神宮に集めることで裏の金儲けの松利権を拡大させることでもあります。これまでにも伊勢神宮や摂社、伊勢市などについて調査とワークを行ってきました。今回、今まで行っていなかった伊勢神宮関連とフェリーや鉄道会社を中心にワークを行うことにしました。伊勢神宮についての情報はwikiに記載されています。

 

『伊勢神宮は、三重県伊勢市にある神社。正式名称は「神宮」である。古来、最高の特別格の宮とされ、現在は神社本庁の本宗(ほんそう。全ての神社の上に立つ神社)であり、「日本国民の総氏神」とされる。律令国家体制における神祇体系のうちで最高位を占め、平安時代には二十二社の中のさらに上七社の1社となった。古代においては宇佐神宮、近代においては石清水八幡宮と共に二所宗廟として扱われた。

 

また、神階が授与されたことのない神社の一つ。明治時代から太平洋戦争前までの近代社格制度においては、全ての神社の上に位置する神社として社格の対象外とされた。[概要]伊勢神宮には天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ・天照大御神)を祀る皇大神宮と、衣食住の守り神である豊受大御神を祀る豊受大神宮の二つの正宮があり、一般に皇大神宮は内宮(ないくう)、豊受大神宮は外宮(げくう)と呼ばれる。

 

広義には、別宮、摂社、末社、所管社を含めた合計125の社宮を「神宮」と総称する。この場合、所在地は三重県内の4市2郡に分布する。他の多くの神社は仏教建築の影響を受け、瓦屋根や朱塗りの建物に変わっていったが、伊勢神宮は神明造という古代の建築様式を受け継いでいる。これは弥生時代の高床倉庫が起源で、神へのお供え物をする特別な建物だったといわれている。

 

また、式年遷宮が20年に一度行われる。この他、近世以前には、仏教用語を用いない「忌詞」の制度や、僧尼の立ち入りを制限する「僧尼遥拝所」が存在し、神宮寺も早期に廃止されるなど、伊勢神宮では仏法禁忌が比較的維持され、祭儀が一定程度古儀のまま継承された。伊勢神宮は皇室の氏神である天照大御神を祀るため、歴史的に皇室・朝廷の権威との結びつきが強い。

 

神宮の神体である八咫鏡は、宮中三殿の賢所に祀られる御鏡と一体不可分の関係とされ、神宮祭祀と宮中祭祀は一体性をもって行われてきた。また、南北朝時代に途絶するまで、未婚の皇女が宮中から派遣され、神宮に奉仕する斎宮の制度が設けられていた。現代でも天皇・皇后が参拝するほか、神宮の神嘗祭に際しては毎年天皇から勅使が派遣され。

 

神宮の祭主を元皇族の女性が務めるなど、天皇と神宮の繋がりは深い。また、伊勢神宮は公的性格が強く、古代には国家全体の神として天皇による公的祭祀が行われ、個々人が私的な幣帛を奉る行為は禁止されていた。このため、創建以来一貫して、朝廷、幕府、明治政府といった歴史上の政府により、国家的な管理・維持が行なわれてきた。

 

第二次世界大戦後に、伊勢神宮は国家の管理から離れ、法的には一宗教法人となったが、現代においても内閣総理大臣および農林水産大臣などが年始に参拝することが慣例となっている。中世以降は、このような天皇の祖神としての性格や公的な性格に加え、「国家の総鎮守」として庶民を含むあらゆる階層から信仰を集め膨大な数の参拝者を生むようになった。

 

とりわけ江戸時代には短期間で数百万人が参拝する「お蔭参り」が生じるなど、伊勢神宮は日本の信仰の中心地となった。[祭神]主祭神は以下の2柱。皇大神宮:内宮 天照坐皇大御神 - 一般には天照大御神として知られる。豊受大神宮:外宮 豊受大御神[役員]祭主:黒田清子(第125代天皇明仁第1皇女子、第126代天皇(徳仁) 妹) 大宮司:久邇朝尊(旧皇族久邇宮子孫、第126代天皇(徳仁) 再従兄弟)』。

 

伊勢神宮の内宮、外宮などの神社そのものについては、過去に光を降ろしてきました。2014年4月の巡礼の旅で伊勢神宮の外宮・内宮を訪れた《三重 伊勢神宮 ~巡礼の旅(64)~》が最初でした。二見興玉神社、朝熊山金剛證寺、天の岩戸、伊雑宮、瀧原宮などにも光を降ろしました。

 

神社に居た闇のエネルギー体を光に統合し、封印されていた黒龍・白龍などの龍や龍の玉、縄文の女神などの光のエネルギー体が解放されました。印象に残っているのは、五十鈴川の源流である「天の岩戸(恵利原の水穴)」に足を運んで行ったワーク《三重 天の岩戸 ~巡礼の旅(66)~》です。

 

伊勢の山の中にある天の岩戸で光を降ろすと、封印されていた本来の倭姫である美しい縄文の女神を解放されました。伴侶を通じて「待っていました」と伝えられて、帰る時に手を振って見送ってくれていたのを覚えています。最後のワークは2017年7月の遠隔ワークの《三重 伊勢神宮外宮の森に戻った倭姫の原型となる女神 ~巡礼の旅(487)~》です。

 

その際は、多賀宮を示唆する夢を見て、天の岩戸で解放された倭姫の原型となる女神の居場所を開く必要がありました。女神の居場所は、伊勢神宮外宮の後方にある高倉山で高倉山古墳が封じていました。光を降ろすと輝く姿の女神が現れ、完全に封印が解かれて自由を取戻したのです。

 

伊勢神宮の祭主・黒田清子と大宮司・久邇朝尊(くにあさたか)については、《伊勢市の地下経済の松利権に深く関わる商工会議所・観光協会と光を封印する闇の役割の伊勢神宮》などで光を降ろす祈りのワークを行っていました。伊勢神宮のネット情報を収集する過程で気になったのが「伊勢神宮崇敬会」です。

 

伊勢神宮崇敬会の概要は公式サイトに記載されています。『本会は、第59回神宮式年遷宮(昭和28年)の募財のために戦後設立された「伊勢神宮式年遷宮奉賛会」を母体として、昭和28年12月、「財団法人伊勢神宮奉賛会」の名称で設立しました。平常時における神宮奉賛活動を行なうことを主眼とします。

 

総裁に神宮祭主の北白川房子様を戴き、会長には佐藤尚武氏を選んで、各都道府県に地方本部を置き、事務局は神宮崇敬者参宿所(現在の「神宮会館」)に置かれました。 その後、第60回伊勢神宮式年遷宮奉賛会の設立に伴い、同40年9月、名称を「財団法人伊勢神宮崇敬会」と改めて今日に至っております。

 

設立当時の主な事業は、神宮奉護に関する事業の実行、神徳宣揚講演会の開催、地方組織の強化と会員の募集、参宮の奨励、新穀感謝祭の斎行と農事関係その他功労者の顕彰、神宮崇敬者参宿所(神宮会館)の経営、公共団体等各種事業に対する奨励援助を行い、現在も引き継がれています。

 

平成25年4月1日、公益法人制度改革に伴い「一般財団法人伊勢神宮崇敬会」に移行し、引き続き「お伊勢さまと皆様の懸け橋」として全国の皆様に親しまれる崇敬会を目指して、神宮崇敬の裾野の拡充に努めています。施設としては昭和30年に神宮相撲場、同38年に神宮弓道場、同39年に神宮会館大講堂、同48年に第60回神宮式年遷宮の付帯事業としての遷宮記念館(現在の神宮会館西館)が建設されました。

 

また平成4年には第61回神宮式年遷宮を機に、神宮会館本館が完成しました。昭和28年の設立以来、奉賛会員を募りその活動を行なってきましたが、組織的基盤が極めて弱く、十分に力を発揮するに至らなかったのが実情でした。そこで、現下の神宮をとり巻く厳しい社会情勢に対応すべく、崇敬者との更なる連繋を図り、より強固な神宮奉賛の組織を築くため、平成7年4月から年会費制による「会員制度」(登録会員制)を施いて、その拡充に努めています』。

 

今から約16年前、私が初めて伊勢神宮を参拝した際に、伊勢神宮崇敬会が運営する神宮会館を利用させていただきました。伊勢神宮崇敬会は、伊勢神宮の氏子や後援団体的な組織だと感じます。公式サイトには、伊勢神宮崇敬会の歴代会長の氏名が記されています。『佐藤尚武(昭和28年~昭和46年) 中野種一郎(昭和47年~昭和49年) 

 

松下幸之助(昭和49年~昭和58年) 弘世現(昭和58年~平成8年) 細川護貞(平成8年~平成10年) 東園基文(平成10年~平成18年) 豊田章一郎(平成18年~平成29年) 松下正幸(平成29年~)』。伊勢神宮崇敬会の初代会長・佐藤尚武(昭和28年~昭和46年)と現会長・松下正幸(平成29年~)をワーク対象に選びました。

 

伊勢神宮崇敬会の現会長・松下正幸の経歴はwikiに記載されています。『松下正幸(1945年-)は、大阪府出身の実業家。パナソニック(旧・松下電器産業)特別顧問、PHP研究所代表取締役会長、公益財団法人松下幸之助記念志財団理事長、関西経済連合会副会長、伊勢神宮崇敬会会長、元関西経済同友会代表幹事。慶應義塾評議員。

 

第二次世界大戦終結後すぐの松下電器産業がGHQから睨まれた時期、創業者・松下幸之助の娘・幸子と結婚し婿養子となった松下正治の長男として生まれる』。《参政党の代表・神谷宗幣の龍馬プロジェクトの中核・林英臣政経塾と繋がる日本DSの生みの親・松下幸之助》のワークで松下正幸に光を降ろすと「時代が古い。汚い闇に成り切れない」と伝えられました。

 

伊勢神宮崇敬会の初代会長・佐藤尚武の経歴はwikiに記載されています。『佐藤尚武(1882年-1971年)は、大阪府出身の外交官、政治家。林内閣外務大臣、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦当時の駐ソビエト連邦大使、戦後には参議院議長等を歴任した。[経歴]旧弘前藩士で当時大阪府警部であった田中坤六の次男として大阪府に生まれる。

 

同じく弘前藩士で外交官の佐藤愛麿(後に在米特命全権大使)の養子となる。旧制正則中学校(現・正則高等学校)卒。1904年(明治37年)、東京高等商業学校(現・一橋大学)全科卒。同専攻部領事科へ入学。後年、向井に駐米大使を打診したが飛行機嫌いであるとして固辞されている。1905年(明治38年)、外交官及び領事官試験に合格し外務省入省。

 

在ロシア公使館外交官補(のち三等書記官)、ハルビン領事(のち総領事)、在スイス公使館一等書記官、在フランス大使館参事官、在ポーランド公使を歴任した。ロシア革命が勃発した当時はハルビン総領事の職にあり、1917年12月にボリシェヴィキ勢力がハルビンの制圧を図った際には、他のハルビン駐在連合国領事らと領事団を結成して当時の中華民国政府(北京政府)に介入を要請した。

 

そして、中国軍によってハルビンのボリシェヴィキ関係者は排除された。このあとハルビンでは陸軍を中心としてグリゴリー・セミョーノフやドミートリー・ホルヴァート(ロシア語版)といった反革命勢力の人物を擁立する動きがあった。日本は1918年8月からシベリア出兵に踏み切るが、佐藤は外務省関係に多かった「出兵に熱心な者」の一人と評されている』。

 

伊勢神宮崇敬会の初代会長・佐藤尚武の御魂が上がるよう意図して光を降ろすと「八咫烏」と伝えられました。佐藤尚武は、官僚時代にロシア・中国・満州の地に深く関係していたので、八咫烏の鶴派の工作員だったと感じます。日本の支配層・八咫烏にとって最重要の神社としての伊勢神宮における隠された闇の役割が終わることを願っています。

 

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