国後島中心に50箇所の缶詰工場が存在した北方領土 | 輝くあなたを取り戻して

輝くあなたを取り戻して

輝くことを忘れてしまったあなたが、もう一度、光を取り戻すための一助となれば幸いです。

「陸軍糧秣廠から裏の缶詰工場に繋がりました。北方領土には国後島中心に50箇所の缶詰工場がありました。表はカニ缶で、裏は松の缶詰だと感じます。アドレノクロムの前段階の松製品の缶詰が北方領土で製造されていたと見ています。」

2022年6月、《北方領土の住人の4割がウクライナ人であることが意味するもの》など、一連のウクライナと北方領土の関係のブログ記事を書くために「北方領土の歴史」についてネットで調べていました。

すると、ロイターグラフィックスの《北方領土問題》の記事を見つけました。そこには、『4島を合わせた面積は5003平方キロ。択捉島と国後島で93%を占める。ロシア人の人口は1万6828人(2015年1月)で、漁業や資産加工業、缶詰製造業などが主要産業』と記されていました。

「缶詰製造業」が気になりました。表の「缶詰工場」の裏には、「松の缶詰工場」があったと感じていました。缶詰工場について、私が一番最初に注目したのが、2022年7月に、ブログ記事を書いた時でした。

食人の闇の缶詰工場を暗示する広島県の宇品陸軍糧秣支廠跡が発祥の地となるカルビー》に詳細内容はにありますが、ポテトチップスで有名な「カルビー」の発祥地が、現在の広島市南区の「旧宇品陸軍糧秣支廠(うじなりくぐんりょうまつししょう)跡地」でした。

カルビーの創業者・松尾孝が、1945年12月に、宇品にあった旧宇品陸軍糧秣支廠跡地を買い取り事務所としたのがカルビーの始まりです。「宇品陸軍糧秣支廠」は、大日本帝国陸軍の糧秣の保管・補給・製造施設です。

「糧秣支廠(りょうまつししょう)」の「糧」は兵士の食糧、「秣」は軍馬の飼料、「廠」は工場や役所を意味します。ここで行われていた業務は、兵食ならびに飼料の調達・配給・貯蓄でした。

それに加えて牛肉缶詰や搗精(精米)作業、つまり製造も行われ、更に精米や缶詰の試験・検査の技術的な研究も行われていました。宇品陸軍糧秣支廠には「缶詰工場」が存在していました。表の牛肉缶詰の裏で松製品である遺体由来の松の缶詰の製造が行われていたと推察しています。

支配層が松取りによって金儲けを行うためには、販売することが出来る松製品が必要です。現在の松製品の代表が支配層の工作員の間で売買される、若返りの効能があり高級麻薬と謳われる「アドレノクロム」です。

「アドレノクロム」は、小さな茶褐色のアンプル瓶に入った高価な液体製品ですが、廉価版の錠剤や丸薬もあると推定しています。この「アドレノクロム」に代表される松製品の販売網を拡大することも重要です。

システム収納センターの設立と重なるアムウェイの日本上陸から浮かぶ松システムの構築》にあるアムウェイが松システムと関係していると見ていました。米国発祥のネットワークビジネスが販売網を構築してきたと感じます。

日本アムウェイは、消費者庁によって2022年10月14日から半年間の業務停止命令がされました。2021年にアムウェイ入会への勧誘であることを隠して誘い出した人へ会員登録勧誘した容疑で特定商取引法違反(社名や目的の事前不告知勧誘行為)における初の逮捕者を出しました。

4種の違反を犯したということでの半年間の業務停止命令ということですが、実態は、水面下で「Q」の手が入ったと見ています。「アドレノクロム」に移行する前段階の松製品が「松の缶詰」です。「缶詰」の歴史を調べると面白いことが分かります。

缶詰の発明のきっかけは、フランスの皇帝「ナポレオン・ボナパルト」でした。ナポレオンは、フランス革命後の混乱を収拾し、様々な戦いを経て軍事独裁政権を樹立しました。幾つかのヒプノセラピーで戦争が松取り(松果体収穫)であると分かっています。

多くの戦争を行って来たナポレオンの裏の目的は、支配層のための松取りでした。支配層の金儲けのために、保存できて売買できる松製品をつくるために「缶詰」が生み出されたと見ています。

北方領土の缶詰工場は、北海道の缶詰工場の歴史と連動しています。《北海道のタルタリアを隠した石狩など5つの缶詰工場》に記しましたが、日本で本格的な缶詰の生産が始まったのは、1877年(明治10年)10月10日、北海道石狩市での石狩缶詰所の創業です。

明治10年の石狩罐詰所(サケ・マス)を皮切りに、美々鹿肉罐詰所(鹿)、厚岸(カキ、鹿)、別海(サケ・マス)、択捉島(えとろふとう/サケ・マス)・紗那(しゃな/サケ・マス)と、各地に5つの缶詰工場を建設しています。

「北方領土(国後島・歯舞諸島)×缶詰工場」でネット検索していくと、2016年10月31日の北海道新聞の記事《缶詰工場 島支えた主要産業に 国後島中心に50カ所 日清戦争機に需要拡大》に行き着きました。

『北方領土と根室管内には戦前、数多くの缶詰工場が集積し、地域経済や暮らしを支えていた。当時の繁栄を今に伝える写真とともに紹介する。「女工女工と見下げるな 女工の詰めたる缶詰は 横浜検査で合格し アラ女工さんの手柄は外国までも」 

戦前の北方領土・国後島や根室半島のカニ缶詰工場で、東北や道内からの出稼ぎの女性が、働きながら生活や故郷への思いを歌詞に織り込んだ「女工節」。カニ缶詰はアメリカやイギリスに輸出され・・』と記されています。

日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて日本と清国(中国)の間で行われた戦争です。日清戦争などの戦争は松取り工作ですので、日清戦争機に缶詰生産が増大したのは理解できます。

当時、戦争によって亡くなった人の遺体を旧日本軍が護送船団などの船で運んで人肉や内臓を缶詰にしていたと見ています。また、北方四島・暮らしのアルバムの《泊村東沸にあった缶詰工場(昭和9年)》にも情報がありました。

『国後島東沸 缶詰工場は、植内に2つ、東沸から古釜布に9つあり、1工場当たり50~60人の工員が働いていました。当時、女工さんの白い頭巾と前掛け、かすりのモンペ姿は働く女性の憧れでした』。

缶詰工場で働く「女工」は、世界遺産の富岡製紙所などの繊維産業の工場の「女工」と重なります。これまでのヒプノセラピーやワークから繊維産業に携わる「女工」は労働力でもあり、松取りの犠牲になる対象でもあったと感じています。

国後島を中心に北方領土には、50箇所の缶詰工場が存在していた歴史があります。北方領土で裏の松の缶詰を製造する理由は、北方領土の自然のエネルギーを封印するためです。地底の光・シリウスの光である、いわゆる「タルタリア」を隠すために松取りの闇が置かれたのです。

松の缶詰工場が多数あるということは、裏の仕事を担う工作員も存在していることになります。家畜をさばくように遺体を部位ごとに切り分ける作業などが必要になります。この現場作業としてウクライナ人の工作員を動員したと推察しています。

富山県黒部市から歯舞群島への移住が暗示する表の昆布と裏の松》にありますが、旧加賀藩の富山県黒部市から多くの工作員も北方領土に移住しています。松システムの中核である旧加賀藩の工作員が動員されたのです。

北方領土の裏の缶詰工場の工作拠点は、現在の「根室市」にあったと見ています。根室市は、北方領土問題の起源であり、北方領土返還運動の工作活動の中心地です。北方領土問題、重要な松製品製造の拠点である北方領土の真実を隠すための工作活動です。

支配層は、日本国民の目を逸らすための巧妙な工作手法を使っています。しかし、2022年10月29日のハロウィンの夜、156人が犠牲になったとされる韓国の首都・ソウルで起きた「梨泰院群衆事故(イテウォンぐんしゅうじこ)」で「根室」のリークが行われています。

2人の日本人犠牲者の内の1人、冨川芽生(26)の父親の冨川歩は、根室市議会議員なのです。冨川歩は替え玉だと見ています。「梨泰院群衆事故」については、別途、詳細記事を書く予定にしています。北方領土の缶詰工場は閉鎖したことになっています。

いずれにしても、北方領土に関しては、まだまだ隠された闇が存在します。現在、裏の缶詰工場の役割を担っているものは何か、ということです。北方領土問題が現存している今、まだ、裏の缶詰工場の役割を担う施設が隠されています。

知床観光船事故が起きた「知床半島」も重要な工作拠点だと感じています。隠された闇の真実を表に出すためには、多くの人たちが事件事故などの真相を追究することが重要です。支配層の隠された闇の仕組が終わることを願っています。

【関連記事】
北方領土返還運動から垣間見える隠された利権の闇が覆う根室の地
国後島のロシア人工作員のドミトリー・ソコフが関与する北方領土問題という工作
北方領土問題を仕組んだウクライナ人のフルシチョフとユダヤ・八咫烏の勢力