高校を卒業して、自動車整備の専門学校に行くこととなった。当然俺の高校からは、俺1人・・長崎県佐世保で生まれ育ち、隣の県、佐賀県の専門学校に行く・・誰も俺の過去を知ってる奴がいない・・今迄やってきた悪の数々を誰も知らないということは、何だか生まれ変わったような期待と、不安があった。高校生の時、警察に捕まって、家庭裁判所に行き、裁判官が「本来ならば、少年院送致となるが、まだ高校在学中という事もあり、少年の将来の事を考えれば、まだ更正の余地がある、したがって保護観察処分とする」って言われた時、「少年院?上等じゃねーか!」と悪びれたけど、やはりお袋の涙を見た時には反省した・・専門学校入学の時「もう、問題を起こすんじゃないよ、保護観察中だから・・何かやったらすぐ少年院行きだからね」ってお袋に言われた時は、真面目になろうって真剣に思った。・・しかし・・その専門学校は、各高校の悪い奴らばかりが集まったような学校だった・・本当に一触即発という言葉がぴったりの状態だった。その中に俺の人生を決められたというか、方向性を教えてくれた(今考えれば)原口 秀晴という奴がいた。俺より2歳年上で、びっくりした事は、競輪競技の日本新記録を出したことのある人物だったということだ。

その原口がクラスのリーダー格でとりあえず問題なく過ごした・・俺も、俺以上に異常な人間を見たのも原口が初めてだった・・。俺と原口が目立っていたのかどうかは分からないが、何故か席順は一番前で原口と隣同士・・授業中何度となく原口とつかみ合いの喧嘩・・そのおかげで授業は中断、先生は「君達・・喧嘩は・・外でやってくれ・・」というしまつ・・挙句の果てには欠席扱い・・しかし喧嘩しても何故か一緒に昼飯を食いに行き、ビールを飲んで午後の授業を受ける・・ある日原口が変な音のするスカイラインに乗ってきた。彼がチューニングしたスカイライン・・俺の車と競争する事となりゼロヨンみたいなことをやった・・タイヤスモークを上げながら原口のスカイラインは、俺の視界から消えていった・・ショックだった・・その日からチューニングに目覚め、毎日毎日エンジンをいじっていた・・いかにパワーを出すか?二人で色々考えて油にまみれながら日々を過ごした。車のドライビングの仕方も原口に教えてもらい峠を走ったりして、気分は街道レーサー気分だった。相変わらず親とは会話が無かったが、車に没頭していたせいか、少しずつではあるが俺は笑うようになった。




つづく・・かも・・