The Monkees Tale: Revised Edition (1989)
Epilogue
by Eric Lefcowitz
1985年が終わる頃、デビッド・ジョーンズはイギリス版ミュージカル「ゴッドスペル」でジーザスを演じ、ピーター・トークはギターの講師をしながら、ソロ・ライブをしていた。ミッキー・ドレンツはイギリスのTV業界に手を出し、マイケル・ネスミスはメジャー映画のプロデュースをしていた。
そして取るに足らない事ではあるが、年が1986年に変わった。1986年が「ザ・モンキーズ」放送開始20周年であると気づいた少数の熱狂的なモンキーズ・ファンを除けば、大して意味のない事だった。
恐らく、キリの良い数字が持つ奇妙な力について説明できるのは数秘術(訳注:数字から運命をひもとく)だけだろう。ロバート・ケネディー暗殺の記念日だった年には大して話題にならなかったのに、翌年には雑誌の表紙を飾っていたりするのだ。モンキーズの場合もそうだった。
20周年という節目の意義は、モンキーズの利益受益者であり、舞台裏を全般的に支えてきた人物、バート・シュナイダーにとっては見過ごせないものであった。シュナイダーは何年も前からアメリカでモンキーズのリバイバルを起こそうとしていて、本格的なブームを作るにはケーブルTVでTVショーを再放送する必要があると気付いていた。複数のケーブル・チャンネルとの交渉を経て、シュナイダーは24時間ミュージック・ビデオを放送するMTVと契約を結んだ。
神がかりのような判断としか言えないが、シュナイダーはMTVを説得し、通常放送の形をやめさせて、「ザ・モンキーズ」を22時間30分ぶっ通しで放送させた。1986年2月23日のマラソン番組「プリーザント・バレー・サンデー」である。数日後、視聴率が発表されると、このマラソン放送はMTV史上最高の視聴者数を記録した。モンキーズ復活の始まりだった。
それは様々な意味で見事な采配だった。まず、MTVを選択したのは自然の成り行きだった。モンキーズのオリジナルのTVシリーズのみならず、ネスミスの「ポップクリップ」(訳注:マイクが制作したミュージック・ビデオのみを放送する初のTV番組)はMTVを予見させるものだったのだから。当時は斬新とされていた「ザ・モンキーズ」の視覚的な表現は今のMTVの視聴者にとっては当たり前になっていた。彼らは本能的に理解だけではなく、10代の若者ならではの反応を示した。文字通り、信じたのだ。
二つ目は全く新しい世代のファンである。彼らの多くは両親から60年代へのノスタルジーを植え付けられて育っていた、そんな世代がモンキーズを「発見」したのだ。何年も前から、「ペイズリー柄」が復活しかけていたが、80年代風にアレンジされた劣化版だったのは明らかで、流行は過ぎ去り、不発のままだった。この再ブームは60年代の危険な側面(ドラッグや体制への市民の反抗)を排除する一方で、友好的な側面(サイケデリックなスタイルや音楽)を強調した。1986年に最も注目を集めた新しい音楽グループが、60年代のスタイルと80年代の感性を見事に融合させたバングルズだったのは偶然ではないだろう。
プロジェクトとしてのモンキーズに再び、奇跡が訪れた。1966年、モンキーズはビートルズという本物のブームに対する、見事に商品化された、必然的な返答として「登場」した。そして1986年、彼らはタイムカプセルで、ノスタルジーに溢れ、プログラム化されていない、デジタル化以前の楽しみを待ち望む文化へと「帰還」した。皮肉な事に20年がたって、やっとモンキーズの楽しさが届いたのだ。
シュナイダーは1988年のインタビューで語っている。「まだファンになっていない人たちがそこら中にいた。しかし、ファンの準備ができていても、メディアに出なければ何も起きない」。
「また上手くいくのは当然だった。番組は面白いし、歌もいい。そしてメンバーは才能豊かだ。質の高いものは今その場の文化を超越する力がある。もちろん、僕には親の欲目があるけどね」。
モンキーズ・プロジェクトの市場価値に時代は関係ない、と認識していた企業側の人間はシュナイダーだけではなかった。MTV本社の一つの下の階で、ツアー・プロモーターのデビッド・フィショフはモンキーズをステージに復帰させようと目論んでいた。以前、スポーツ選手のエージェントをしていたフィショフが80年代半ばにタートルズの「ハッピー・トゥゲザー」ツアーを企画したのは、映画「再会の時」(訳注:1983年公開。60年代に青春を過ごした大人たちの物語)のセンチメンタルに着目したのがきっかけだった。
モンキーズならタートルズ・ツアーの成功を簡単になぞれると閃いたフィショフはピーター・トークを探し出した。初めは懸念を示していたトークも、1985年末に「ハッピー・トゥゲザー」ツアーの楽屋を訪ねた際にそのアイデアを受け入れた。フィショフとトークは共に大西洋を横断し、ジョーンズとドレンツを説得して仲間入りを呼びかけた。モンキーズから距離を取る事なくキャリアを積んできたジョーンズは、当初は参加を渋っていたドレンツよりも積極的だった。
最終的に受け入れたドレンツだが、気が進まない理由がそれなりにあったのだろう。まず第一に、元モンキーズのメンバーという烙印を超える地位をやっとのことで手に入れたドレンツは、再びのその烙印に付きまとわれる事を恐れたのかもしれない。第二に、彼はお金を必要としていなかった。また、彼とジョーンズの間には個人的かつ深刻な確執が起きていて、二人は何年も口をきいていなかった。
とはいえ、3人のモンキーズでは本当の再結成とは言えない。欠けたモンキー、マイケル・ネスミスは記念ツアーに参加しそうには見えなかったが、世間の認識とは異なり、参加を検討していた。「ツアーが始まる前に、ピーターから電話があって、参加してくれないかと言われたんだ」とネスミスは1988年に語っている。「彼には、参加してみたいし楽しそうだと答えたんだが、あまり時間が取れない事も伝えた。良くも悪くも、時間がかかる事業に関わってしまっていたから、こういう事に時間を割く余裕もなかったんだ。彼の反応は好意的で、ミッキーとデイビーも同様だった」。
「ツアー開始が近づくにつれて、人気が出そうだと分かってくると公演日が増えていった。最初は4日とか5日だったのが200日を超えたんだ。僕は映画『スクエア・ダンス』を撮影している最中で、次の映画『テープヘッズ』の準備も始めていた。僕が6ヶ月から8ヶ月も仕事を休むなんて不可能だった」。
3人のモンキーズを味方につけたフィショフはツアーに乗り出す為の最後のステップを踏んだ。コロンビア・ピクチャーズから1986年1年を通しのモンキーズの名前とギター・ロゴを使用する許可を取り付けたのだ。そう、20年たっても(そしてどうやら永遠に)メンバーたちはプロモーション目的で「モンキーズ」という言葉を使う許可を得るために、企業(この場合はコロンビア・ピクチャーズの親会社であるコカ・コーラ)に異議を唱える必要があったのだ。驚く事にフィショフはわずか$3500(訳注:当時のレート1ドル129円で、451,500円)でその権利を獲得した。
その間、全てが順調で本格的なモンキーズ・ブーム再来の機が熟しているように見えた。1986年初めにトークとジョーンズがオーストラリアでツアーを行っていた頃、MTVではモンキーズのマラソン放送の驚異的な視聴率を受けて、「ザ・モンキーズ」のTVシリーズを毎日2話(後に3話)放送するようになっていた。
ツアーが予定され、TVシリーズが全国規模で復活する中、唯一の不確定要素として残っていたのが、音楽だった。当然、これは新しい問題などではなかった。幸運にも、モンキーズの音楽的遺産はライノ・レコードという有能な手に委ねられていた。カリフォルニア州サンタモニカを拠点とする再発盤の専門レーベルは先見の明を持ち、アリスタ・レコード(当時、コルジェムス・レーベルを所有していた)から全カタログの権利を取得していた。ライノはモンキーズの全9枚のアルバムを1枚ずつ再発し始めた。
しかし、新たに再結成されたモンキーズは古い楽曲だけに頼る訳にはいかない、と考えたアリスタ・レコードの上層部は "Then & Now . . . The Best Of The Monkees" と名付けた新しいベスト・アルバムの制作を始めていた。ジョーンズの賛同なしに(ジョーンズはこの計画への参加を拒んだ)、トークとドレンツは共に録音スタジオへ戻り、プロデューサーのマイケル・ロイド(70年代にドレンツと共演)と3曲録音した。
ジョーンズが反対する理由は色々とあった。「僕はアリスタが僕たちのプロジェクトに割り込んで便乗してくるのに腹を立てていた」と彼は後にインタビュアーのケン・シャープに語っている。「彼らはモンキーズの今後なんてどうでも良くて、ただ昔のレコードを売りたいだけなんだ。ミッキーとピーターはアリスタのやり方に乗せられてしまったんだと思う」。
不思議な事に、そしてかなり皮肉な事に、ジョーンズが唱える異議の一つはトークとドレンツが音楽制作における主導権を手放したというものだった。要するに、彼らは自分たちにオリジナルのモンキーズに課せられたのと同じ役割、事前に録音された音楽にボーカルをのせるだけ、を許してしまっていたのだ。ジョーンズはもっと良質な作品を見つけてやっていけると主張した。「僕たちはもう40才を過ぎた立派な大人だ」とシャープに語った。「毛布にくるまって親指をくわえている場合じゃない。僕たちは色々試していかなくちゃ」。
ジョーンズの主張には当たっていた部分と当たらなかった部分があった。トークとドレンツが録音した3曲はせいぜいが玉石混交だった。一番良かったのは、明るい曲調のシングル "That Was Then, This Is Now" だ。少なくともその象徴的なタイトルだけでも価値がある。元々モスキートスが録音した軽快なポップソングは最終的にモンキーズにとって18年振りのトップ20シングルとなった。
2曲目 "Anytime, Anyplace, Anywhere" の特筆すべき点はモンキーズの2人とこの曲を共著したソングライター、ボビー・ハートが再びタッグを組んだ事だろう。新録3曲目は "Shades of Grey" のマン/ワイルが書いた反ドラッグ・ソングの "Kicks" だが、最初に歌ったポール・リヴィア&ザ・レイダーズよりもはるかに劣る出来だった(そう言えば、"Steppin' Stone" を最初にレコーディングしたのもレイダーズだった)。
この3曲をベスト・アルバムに収録するのは妥当だったのかどうか(ジョーンズは激しく反対した)、それはともかく、"Then and Now . . . The Best Of The Monkees" はプラチナ・アルバム(訳注:米国のプラチナ認定は100万枚)を獲得した。
音楽の問題は、またしても、グループ内での意見の対立を招いた。利益が誠実さを後回しにしてしまったかもしれないが、その事で殴り合いをしている余裕はなかった。やるべきツアーがそこにあるのだ。5月半ば、ドレンツ、トーク、ジョーンズはニューヨーク州キャッツキル山地にある保養地キアメシャ湖に集まり、ジョーンズの指導による振り付けや、間近に迫った100都市を回る記念ツアーのリハーサルを行った。3人のショーは5月24日、キアメシャ湖のほとりにあるコンコード・ホテルで行われた公開リハーサルとして初披露された。
ツアーの公式な日程はニュージャージー州アトランティック・シティーにあるトロピカーナ・ホテルで5月30日から始まる予定だった。だが、記念祭が始まる前の5月28日、マンハッタンのハード・ロック・カフェで行われる記者会見で、3人は大勢のカメラとまばゆいフラッシュの下にその身をさらす必要があった。20年前のすべすべの顔立ちではないものの、3人のモンキーズはかつての若々しく、時には子供っぽいユーモアを失っていない事を証明してみせた。再結成の理由を聞かれれば、声を揃えて「お金のため!」と答えた。
当然ながら記者会見だけではなく、その後のツアーでも最も頻繁に聞かれた質問は「なぜネスミスは再結成を拒んだのか?」だった。グループの答えは、まさにふさわしくも不在のモンキーによってもたらされた。彼は不在の代わりに自身の等身大レプリカを送ってきたのだ。伝えられたところによると、ネスミスは記者会見に出席して、既に決まっていた自身の仕事について説明したいと考えていたが、そうする事ができない状況になった時に用意していた自分そっくりの人形を代わりに送ったという。その結果として生じた悪ふざけやジョークは、マイケル・ネスミス抜きの記念ツアーは果たしてアリなのか?という問題の核心を巧みに逸らした。
2日後、その議論は無意味なものとなった。ネスミス抜きのモンキーズはアトランティック・シティーでツアー開幕を飾り、完全な再結成かどうかなど吹き飛ばすような観客の熱狂に迎えられたのだ。「マイケル・ネスミスが今回の再結成ツアーへの参加を見送った事は、観客にもコンサート自体にも大した影響がなかったようだ」と「ヴァラエティー」誌は書いている。「残りのメンバーたち、ミッキー・ドレンツ、デイビー・ジョーンズ、ピーター・トークは彼がいなくとも申し分なく、コンサート全体としても活気があり、概ね良いテンポだった」。
実際、3人のモンキーズは時が経っても観客を熱狂させるたぐいまれな才能が衰えていない事を証明してみせた。コンサートは衣装替えやお決まりのギャグ、8人編成のバック・バンドから成るラスベガス風の洗練されたレビューだった。モンキーズの主なヒット曲は網羅されていたが、秀逸だったのはドレンツによる "She"、"Goin' Down"、"Randy Scouse Git"、"No Time" だろう。コンサートの感動的なハイライトは3人の歌唱による "Shades of Grey" だった。その物憂げな歌詞はトークの調子外れで平坦な歌声さえも上手く隠していた。
興味深いのは、会場全体を覆う郷愁の気配を察するには若すぎる観客の割合がかなり高かった、という点だ。「アメリカン・デモグラフィック」誌(訳注:人口動態と消費者トレンドに特化した専門誌)によると、音楽市場調査で1986年のツアー観客の半数以上が18才未満だったそうだ。その多くが母親と共に来場しており、家族で楽しめる家庭的な良い雰囲気を作り出していたのだ。ロック・コンサートでは実に珍しい事である。
これはコンサート・プロモーターにとっては喜ばしいニュースであり、モンキーズの20周年記念ツアーがその夏一番の人気チケットになると気付かせた。モンキーズ・ブームが猛烈な勢いで戻ってきたのだ。会場はどこも満員御礼となり、それだけではなくコンサート来場者はグッズ売り場でも惜しみなく金を使った。一方、ツアー日程は次々と追加され、終わりは見えなかった。業界全体がその話題で盛り上がり、ビジネスは活況を呈していた。
モンキーズ自身も、この驚くような反響の説明が付かずに困惑していた。この件に関して最も遠い距離にあり、それ故の客観的な視点を持てたメンバーですら戸惑っていた。「どうしてこれほどの魅力があるのか、20年前と変わらず、僕にとっては謎のままだ」と1988年にネスミスが語っている。「それを気に入ってくれる人たちがそこから何かを得ている訳で、TV画面の僕たち4人が出している何かが、僕には全く分からない次元で効果を発揮していたんだろう」。
「しかし、それは20年前、世間に認知されるよりもずっと前から、僕には全く分からない次元で機能していたんだ。効果があるのは理解していた、理由は分からなかった。今でも分からない。興味深い質問だとは思うが、それに対する面白い答えは持ち合わせていない」。
6月22日、ツアー開始から3週間後、ネスミスは自ら足を運び、もっと近くから様子を見てみようと決意した。変装して、ファンの中に座り、テキサス州アーリントンのアーリントン・スタジアムでかつてのバンド仲間たちの公演を鑑賞したのだ。不思議な感じがしたのではないかという質問に対して、ネスミスはこう答えている。「いくつか頭をよぎった思いがある。だが、不快とか奇妙とかイヤな感じは一つもなかった。最初に思い浮かんだのは、ミッキーがすごく良かった事と、彼をドラムの後ろに置いておくのは悪手だって事だ。彼は常に前面に出るべきだね」。
「2つめは彼らが今やっているようなバンドと一緒に演奏できる時代に僕たちも居られたら良かったのに、と思った。そうすれば、僕たちの負担がかなり減って、最終的に彼らが作り上げたようなライブを僕たちもできただろう。3つめは、客席でファンと一緒に見る事で気付いたんだが、そこで交わされる愛情の大きさが途方もなかった。実に貴重な体験だった。ファンからの感謝の気持ちが伝わってきたし、彼らもファンに心からの感謝を返していた。すごく良い、活気に溢れた、一流のコンサートの贈り物だった。僕はあの音楽をあまり気にかけてなかったけど、そもそも気にかけた事はなかった。だけど、重要なのはそこじゃなかっただろう?重要なのはその瞬間だったんだ」。
楽屋裏で、ネスミスはドレンツ、トーク、ジョーンズと10年以上振りに再会を果たした。ネスミスがどこかのコンサートに参加する事は決まったものの、全てのメンバーがその可能性に手放しで喜んだ訳ではなかった。「そんなにいいアイデアだとは思わなかった」と、後にジョーンズが「クリーム」誌で語っている。「僕たちにはちゃんと決まったショーがある。僕たち3人で、ツアーは売り切れだ。後から誰かが来て脚光を浴びる必要なんてないじゃないか」。
最終的にジョーンズが自身の感情を抑え、運命は決まった。9月7日、TVショー初放送から20周年の5日前、ロサンゼルスのグリーク・シアターでついにモンキーズの4人がステージで再結成を果たした。ポップス音楽史上最も短いと言えるこの再結成で、ネスミスはアンコールに登場し、熱狂的な歓声の中、"Listen To The Band" と "Pleasant Valley Sunday" を披露した。
短い時間ではあったものの、ステージの上での感情の高ぶりは舞台裏でも起きていた。モンキーズの4人は彼らの生みの親、バート・シュナイダーとボブ・レイフェルソンとも再会していたのだ。その後のインタビューで、ネスミスはカメオ出演は楽しかったが、同時に緊張であがりそうだったと吐露している。ドレンツは後にこの出来事を「最高の瞬間だった、本当に信じられない位」と表した。
ジョーンズだけが怒りを滲ませたまま、ネスミスの出演を全面的に支持する事を拒んでいた。「マイクがまた復帰したいなら、当然ジムで少しは体を鍛えてもらわないと。彼は20才年を取ったし、かなり太ったからね」と、後のインタビューで冗談めかした。しかし、問い詰められると、「ステージに彼がいてくれたのは嬉しかった」とも認めた。
モンキーズ・ブームの復活は歴史的にも熱狂的にもグリーク・シアターでそのピークを迎えたが、モンキー・ビジネスは終わりそうもなかった。MTVはこのブームからできる限り利益を搾り取ろうと、TVショーの22時間半のマラソン放送の再放送や、グループの歴史を振り返る "I Was A Teenage Monkee" と題した30分のドキュメンタリー・シリーズを制作した。このシリーズは後にケーブル・チャンネルのニコロデオンで定番となり、100局近くの地方局でも放送された。コロンビアはTVショーと映画「ヘッド」のビデオ・カセットの販売を始めた。
このような驚きの展開から生じた副産物の中で最も顕著な例はモンキーズのレコードがビルボード・チャートに返り咲いた事だろう。アリスタの "Then And Now" 以外に、ライノが再発した6枚のオリジナル・アルバム、"The Monkees"、"More Of The Monkees"、"Headquarters"、"Pisces, Aquarius, Capricorn & Jones Ltd."、"The Birds, The Bees & The Monkees"、そしてドレンツとジョーンズが最後に残した "Changes"(発売時の1970年にはチャート入りしなかった)までが意外にもチャート入りしたのだ。
それは歴史的快挙だった。モンキーズ・ファンの圧倒的な反響に対抗しうるのは、1987年に再発されたビートルズのオリジナル・アルバムのCDのみであった。
当然ながら、モンキーズの再結成による経済的成功は新たなレコーディングの可能性を広げた。貪欲なアリスタがライセンスの延長を拒否するまでに、ライノ・レコードはモンキーズのレコードを70万枚売上げたが、その後は古い音源の「新たな」発売に意欲を見せる。
そして世に出たのが、"Missing Links" と "Live (1967)" の2枚のアルバムだ。前者は初めて正式に発売される未発表曲集(1966年から69年のスタジオ録音)で、特に人気のある "Apples, Peaches, Bananas and Pears" と "All Of Your Toys"(あのカーシュナーとの争いで消えた「幻」のシングル)も収録されている。モンキーズの音楽の愛好家にとって、"Missing Links" はまさしく「あったらいいな」の宝庫であり、RCAスタジオの編集室で没になった作品をのぞき見できる魅力に溢れていた。"Live (1967)" はモンキーズは自分たちで楽器の演奏ができないという根強い噂をきっちりと払拭しただけでも、保管資料として完璧だった。
実際に記録としては、ライノが発売した2枚のアルバムの内、"Live (1967)" の方が魅力的であった。アルバムのミキシングを担当したビル・イングロットはこう推測する。「発売するつもりで録音したんじゃないと思う。ツアー最後の3公演なので、後付けで決まったように思える」。
当初の意図がどうであれ、このアルバムは人気絶頂のモンキーズの姿をありのままに捉えていて、ダイナミックな "Steppin' Stone" など、彼らのヒット曲のエネルギッシュなバージョンを次々と収録している。イングロットによれば、ボブ・レイフェルソン(バート・シュナイダーと共にこのアルバムのプロデューサーとして名を連ねている)はスタジオで重ね録りをして音をキレイにしたかったそうだが、幸いにも彼の提案は却下された。「僕は音質が悪くても本物の音にこだわりたかった。ライブでの彼らの雰囲気を伝えたかったんだ」と語るイングロットはライノとアリスタから1980年代に再発された全てのモンキーズの作品をリマスターしている。
当然ながら、売り物は昔の音源だけではなかった。モンキーズに関する新しい本が次々と登場し、デイビー・ジョーンズの "They Made A Monee Out of Me"(ドーム・プレス発行)も満を持して出版された。自費出版されたジョーンズの著作は究極の暴露本であった。内容の大部分はどぎついほどの魅力に溢れているが、少女たちとの際どい思い出のような退廃的な時期などはジョーンズの熱心なファンですら恥ずかしく思う事だろう。そんな中でも特に興味深いのは「愛と平和」の使者、ピーター・トークが可愛いデイビーを殴って病院送りにしたという驚きの事実だ(デイビーは数針縫うケガを負った)。言うまでもなく、"They Made A Monkee Out of Me" は読むべき一冊だ。
同様にセンセーショナルだったのはグレン・ベーカーが主に逸話でまとめた "Monkeemania"(セント・マーティン・プレス発行)である。この本にはグループ結成当初のモンキーズの個人的な行動、例えばトークの乱交パーティーなどについて多くの暴露が書かれている。もっと包括的かつ、敬意を払って書かれたのがエド・ライリー、マギー・マクマナス、ビル・チャドウィック共著の "The Monkees: A Manufactured Image"(ピエリアン・プレス発行)である。モンキーズの歴史を日付に沿って記録した "The Monkees: A Manufactured Image" はTVシリーズのニールセン視聴率に至るまで、事実と数字に細心の注意を払っている。
歴史に名を残す事がどうやら確定したモンキーズ(あるいはドレンツ、トーク&ジョーンズ)はお金を受け取って逃げ出す事もできたはずだ。3人のモンキーズにとって1986年は経済的にも個人的にもおとぎ話のような成功を手にした年だった。チケット完売のこの記念ツアー(伝えられるところによると、1800万ドルの収益があった)は当初9月中旬のラスベガスの連続公演で締めくくる予定だったが、実際は12月初旬まで続き、ペンシルベニア州ベツレヘムで幕を閉じた。
モンキーズのリバイバル・ブームは頂点を迎えた時点で終わるべきだったという意見もある。しかし、3人組には1987年の計画があった。映画に、ツアーに、レコーディング、そして何よりお金を稼ぐ事だった。
どこかで聞いた事が?その通り。1986年がモンキーマニアの絶頂期(1966年、67年)と似ているとしたら、1987年は衰退期(1968年、69年)を連想させた。またしても、プロジェクトの自然発生的な人気と美点は次第に大量生産で利益を上げようとする、より意図的なものへと取って代わられていった。グループの調和は崩れて、個人的な敵意とエゴの衝突が生まれた。皮肉な姿勢を優先する余り、創造的な衝突と健全な判断力が犠牲になった。そして、最も重要だったのは大きな人気の波がより小規模で熱狂的なファンの集団へと縮小した事だった。もちろん、モンキーズ・ブームの後には訴訟の嵐が待っているのだろう。
もしも歴史は繰り返される運命なのだとすれば、その兆候は1987年に入って僅か数週間で明らかになった。プロモーターのデビッド・フィショフ(当時、モンキーズ3人のマネージャーも兼任していた)は(どうやらメンバーには内緒で)MTVのスーパーボウル・テールゲート・パーティー(訳注:スーパーボウル直前のイベント)でのモンキーズのライブ演奏を予定していた。しかし、ジョーンズは家族のいるイングランドへ戻っており、これは不可能になった。MTVが大々的に宣伝したにも関わらず、モンキーズはドタキャンせざるを得ず、代わりにタートルズが出演した。
MTVの上層部はこれに激怒したらしい。半年後、彼らはモンキーズの新しいシングル "Heart and Soul"(ライノ・レコード)のビデオでもって報復してきた。ビル・フィッシュマンとプリチャー・ユーイングが監督したこのミュージック・ビデオはモンキーズのTVシリーズのユーモアを上手く生かしたオマージュとなっていた。純粋な娯楽性の観点から見て、MTVの通常番組をはるかに超えていて、であれば、当然ヒットするだろうと思われた。
しかし、MTVは与える事もできれば、奪う事もできた。そしてまさに、彼らはそうした。モンキーズ・ファンによるビデオ・リクエストの電話が殺到したにも関わらず、MTVは "Heart and Soul" の放送を拒否した。MTVのリクエストを集計するテレマーケティング会社の資料を見れば、モンキーズのビデオ・リクエストがトップクラスだったのは疑いようもない事実だった。
こうした証拠を前にしても、MTVはモンキーズがスーパーボウルのイベントをドタキャンした事と彼らが突然排除された事については因果関係がないと主張した。「当時、私たちは非常に困惑していました」とMTV社長、リー・マスターズは「ロサンゼルス・タイムズ」紙の取材に答えている。「もし誰かがモンキーズの関係者に『お前たちに騙された。だからお前たちのビデオを流さない事で報復してやる』とでも言ったのなら、それは私たちの過失でしょう、しかし、私たちは恨んでいません。実際、モンキーズのリバイバルを作ったのは本当にワクワクしましたが、もう彼らは私たちに合わないと感じたのでビデオを流していないだけです。彼らはもう飽きられているんです。あのブームは目新しさだけで、私たちにとってはもう終わっているんです」。
ライノの共同社長、ハロルド・ブロンソンは「ビルボード」誌面での論争に返す形で、言葉巧みに問いかけた。「MTVでモンキーズを見ていた人々が1年後にはMTVを見ていないからもうモンキーズを放送する必要がない、なんて事をMTVは本気で思っているのだろうか?」
返答はなかった。MTVでのプロモーションがない事から、"Heart and Soul" のチャートは伸び悩んだ。また、ライノから出た新しいアルバム "Pool It!" もヒットシングルがない為、あっという間に忘れ去られる運命にあった。アルバムそのものにも問題があった。差し迫ったツアーに間に合わせる為、わずか数週間で急遽制作された "Pool It!"はあらゆる面で期待はずれだった。
アルバムの統括プロデューサー、ハロルド・ブロンソンですら "Pool It!" は自身の期待を下回っていたと認めた。「モンキーズの昔のレコードを現代風にアップデートして、現代的にしたかった」とブロンソンは語る。「だが、彼らの曲は20年前と同じ位の良さはなかったと思う。正直言って、ほとんどのヒット曲は20年前と同様の良さがない。彼らのモンキーズらしい個性が充分に感じられなかった」。
モンキーズらしさの欠如には明確な理由があった。3人のモンキーズは互いの曲で歌うのを嫌がったのだ。その結果、当たり障りも特徴もないポップ・ミュージックばかりのまとまりがないアルバムになってしまった。いつものように、ドレンツの歌う曲が聞きどころだった。印象的な "Heart and Soul"、物憂げな "Midnight"、そしてトミー・ジェームスの "Don't Bring Me Down" はトークやジョーンズの提供楽曲を軽く超えていた("She's Movin' In With Rico" のひどさはモンキーズ史上最悪の部類だろう)。アルバムのプロデューサー、ロジャー・ベチリアン(スクイーズ、リーナ・ラヴィッチ、デイブ・エドモンズ)も印象に残らないアレンジや覇気のない録音の品質について責任の一端を担うべきだろう。
"Pool It!" が現代文化に対するモンキーズの「新たな水しぶき(新たな注目)」だったとしたら、彼らが飛び込んだのはプールの浅瀬だった。予想通り、アルバムは大失敗だった。売上枚数は20万枚。ここで、厄介な疑問が生じる。"Then And Now" を購入した残りの80万人はどうしたのだろうか?
もう一つ、モンキーズの87年ツアーに見られる気がかりな傾向があった。集客人数の減少である。3人のモンキーズが作り上げたショーが素晴らしかっただけに、それは寂しい兆候だった。インタビュアーのケン・シャープの取材にドレンツがこう答えてる。「僕たちはずっとやりたかった事をやる事にしたんだ。より芝居がかったもので、それこそがモンキーズの本質なんだ。モンキーズはグループじゃない、従来の意味でのバンドとは違う。モンキーズは演目であり、歌うマルクス兄弟みたいなものなんだ」。
マルクス兄弟の映画「オペラは踊る」とまではいかないものの、新しいツアーは統一感のない "Pool It!" を補うものとなっていた。1986年の記念ツアーのような、単なるヒット曲メドレーではなく、モンキーズは映像、小道具、衣装替え(衣装デザインはトークの伴侶、ジェニファー・マクラウドが担当)、お約束のギャグ、TVショーを再現したセットなど、様々な要素を組み合わせた大掛かりなステージを作り上げた。幸いなことに、1986年の前座(劣化版のハーマンズ・ハーミッツやグラス・ルーツ、感傷的すぎるゲイリー・パケットなど)はなくなり、パロディー・ソングの第一人者ウィアード・アル・ヤンコビックが起用された。
更に驚くべきは楽曲が惜しみなく投入された事だ。ツアー中、"Head" から "Porpoise Song" 以外の全ての曲を演奏していた公演もある。知名度の低い曲では、"Through The Looking Glass"、"Zor and Zam" や "I'll Be Back Upon My Feet" もあった。全ての曲を知っている訳ではない若いファンにとっては戸惑うような選曲だったのは確かだが、長年のモンキーズ・ファンにとっては思い出を辿る素晴らしい2時間になった事だろう。
斬新な試みにも関わらず、ツアーが続くにつれ、しばしば観客が半分ほどの会場で演奏しながら、3人のモンキーズは気力を失っていった。ドレンツは「サンフランシスコ・クロニクル」紙に疲労を隠さず語っている。「20才の頃は大抵の事は気にならないものさ。でも、最近は移動だけで疲れ切っちゃうんだ」。
1987年のツアーが完全に終了し、モンキーズは自らへの問いかけを無視できなくなっていた。1986年以降、各々が100万ドルを稼ぎ出したという事実以外に何を得たのか?確かに、彼らは150万人以上のファンを動員するツアーを2度も成功させた。しかし、その先には何がある?ノスタルジーを売り物にする、白黒で曖昧な世界から彼らは逃げ出せるのだろうか?
1988年にその答えが出た。ブロードウェイでの舞台、長編映画、クリスマス・アルバムはついに実現しなかった。新たなモンキーズのレコーディングは "Pool It!" の期待外れの結果から一縷の望みもなくなった。デビッド・フィショフ、彼らの元マネージャーが未払いの手数料を求めて、彼らを提訴していた。短期間のオーストラリア・ツアーを行っても、グループの仲間意識が危険なほど危うくなっているという噂があふれた。
とりわけ不満を抱いていたのはジョーンズで、「16」マガジン(モンキーマニアの複雑性を理解する為に必読な文芸誌)に他の二人のモンキーズへの愚痴をぶちまけた。「彼らは自分たちの事を真剣に考えすぎてるんだと思う。ピーターなんて、自分のやりたい事をしながらモンキーズのショーを続けるのは無理だと最初から思ってたんだ。ファンからの関心の高さを彼らがちゃんと分かってるとは思えない」
しかし、ジョーンズが本当に辛辣だったのはドレンツに対してだった。「僕たちはスクリーンの外や個人的には仲が良かった訳じゃないけど、仕事では上手くいった。『サンシャイン・ボーイズ』って知ってるだろう?あれを僕とドレンツでやったら最高に合うと思うんだよね。僕たちお互いに大嫌いだから。仕事上は上手くやれるんだ、でも個人的には共通点が何もない」。
よくある事だが、熱狂の落ち着きと共にゴシップが盛んになってきた。ジョーンズはモンキーズのツアーでの自叙伝の販売を中止に追い込まれたと暴露したのだ。彼はまた、"That Ws Then, This Is Now" という曲から一切収入を得ていないので、この曲の演奏中は決してステージに上がらなかったと説明している(衣装替えの為、という説明は説得力がなかった)。
ジョーンズへ向けられた批判もあった。モンキーズとの訴訟でフィショフが提出した書類の中にはMTVとのしくじりを招いたのはジョーンズが原因だったとする主張が含まれていた。「ニューヨーク・ポスト」紙にフィショフが語っている。「MTVがデイビーにゲストVJとして出演を依頼した時、彼は5000ドルという法外な金額を要求しました。大物アーチストでさえ喜んで無料で出演するのにです。しかも、やっとゲストVJを引き受けたと思ったら、酔っ払った状態で現れたんです」。
フィショフの証言は続く。「実のところ、モンキーズはずっと仲が悪かったんです。60年代当時も不仲で、その後も連絡すら取っていませんでした。1985年に再結成してからも、些細な事で言い争いや喧嘩をして、お互いの邪魔ばかりしていました」。
そうしたわだかまりがあるとしても、3人のモンキーズが良くも悪くもお互いを必要としている事をバート・シュナイダーは微塵も疑っていなかった。「彼らはパフォーマーとして互いに良い影響を与え合う関係なんだ」と語るシュナイダー。「彼らは互いに刺激し合う。実際の所、彼らは単独でやるより一緒にやった方が良さが出るんだ。でなければ、彼らはソロ・パフォーマーとして成功していたはずだ」。
モンキーズのブームが沈静化すると、ドレンツ、トーク、ジョーンズは各々の活動に戻っていった。モンキーズのカムバックは、少なくとも、彼らが夢の一部を実現する手助けにはなった。
ジョーンズはドーム・プレスから自叙伝 "They Made A Monkee Out Of Me" を出版した。本のプロモーション活動の為、書店でのサイン会も大々的に行った。また、自身が最も得意とする分野に立ち戻り、TVドラマ "My Two Dads" や「俺がハマーだ!」にゲスト出演した。最後に、ジョーンズはカンザスシティーのスターライト劇場での「オリバー!」でフェイギン役を演じる事で原点に行き着いた。彼は今、イングランドとペンシルベニアの新しい家を行き来しながら過ごしている。
ドレンツにとって、モンキーズのツアーは再び表舞台に立つチャンスをもたらすものだった。「もう演技はしない」と公言していたものの、TVドラマ「探偵マイク・ハマー」にゲスト出演した事で、目立ちたがりの性分は治らないとモンキーズのミッキーが証明してしまった。ドレンツは自身の会社ハーモニー・ピクチャーズがあるロサンゼルスとイングランドの自宅を行き来する生活をしている。
一方、トークはと言うと、もうギターの講師をする必要はないだろう。本人が望むのなら話は別だが。サンフランシスコへの拠点の移動(戦略的に正しい)は彼のオーガニック志向を満たすはずであるが、彼の移り気な性格がそこで満足できるかは時がたてば分かるだろう。
マイケル・ネスミスでさえ、その復活ブームの恩恵を受けたようだった。グリーク・シアターに姿を現した事によって、モンキーズ・ファンの評判を取り戻し、尚且つメディアが彼に植え付けた誤ったイメージを払拭させた。数多くの楽曲の著作権を持つネスミスにとって、このリバイバルは経済的な損失にもならなかった。彼が手がけたモンキーズの昔の曲 "Mary, Mary" ですらラップ・グループの Run-D.M.C.が奇抜なアレンジにしてチャート入りさせていた。ライノ・レコードが彼のモンキーズ以降の作品を収録した2枚組セットを発売させる事になり、ネスミスのソロ作品への関心も高まった。
ネスミスはモンキーズの将来的な計画の可能性を切り捨ててはいなかった。「もし3人にその気があるなら、年に4,5日位のライブをやるのは楽しいんじゃないかと思う。充分な余裕を持って知らせてくれたら、そういう時間を確保する事もできる」と語るネスミス。「モンキーズの曲を演奏するのは楽しいだろうし、ステージに立つのも楽しいだろう。ファンと会うのも楽しいだろうし、モンキーズの一員になるのも楽しいだろう(笑)。ただ、その予定がなさそうなんだよね」。
しかし、モンキーズが受け継いだものには、各々の功績以上に重い側面、アイデンティティーの危機が存在した。グループとしての将来的な計画がどうあれ、モンキーズのメンバーがその名前の権利を所有する事はあり得ないのだ。「非常に残念な事だ」と、ジョーンズが「サンフランシスコ・クロニクル」紙に、1987年のツアーをする際にモンキーズの名前を使う為に使用料を支払った事実について語っている。「僕たちはその名前を使う権利を獲得していると思う。、、、僕たちと共に育った人々の心の中に僕たちの居場所があるのだから」。
コカ・コーラ社のような多国籍企業にはそのような郷愁が入り込む隙はほとんどないようだ。因みに同社は現在、コロンビア・ピクチャーズの親会社である。ニュー・モンキーズの事例を見てみよう。この恥知らずで出来損ないの企画は元BBSプロダクションズのプロデューサー、スティーブ・ブラウナーの発案である。コロンビアを後ろ盾に、モンキーズ・ブームをマニュアル通りに再現しようとしたのだ。新たな4人を主演とした「音楽シチュエーション・コメディー」シリーズのキャスティングの為、再び公開オーディションが行われる事になった(今回は3,000人が参加し、その中にはネスミスの息子、ジェイソン・ネスミスもいた)。
では何故、ディーノ・コヴァス、ジャレッド・チャンドラー、マーティー・ロス、ラリー・サルティスは次世代のミッキー、デイビー、ピーター、マイクになれなかったのか?答えは明らかだ。爪弾きにされて激怒した、熱心なモンキーズ・ファンにとって比較する対象など存在しないのだ。予想通り、そして幸いな事にニュー・モンキーズは短命に終わった。彼らの失敗に終わったアルバムやTVシリーズは今や、ショービジネスの歴史における最初のポスト・ポストモダニズム(訳注:伝統を否定し合理性を追求したモダニズムと、それを批判し多様な価値観を重視したポストモダニズムを再構築しようとする思想)的な企画として記載される、取るに足らない脚注でしかない
しかしながら、ニュー・モンキーズが企画会議の段階を乗り越えたという事実は、コロンビアの上層部がモンキーズのオリジナル・メンバーたちを使い捨ての取るに足らない存在と見なしている事を露呈させた。傲慢さと強欲さは新たな次元に達していた。シュナイダー曰く、「映画会社はもはや映画会社ではなくなっている。大きな組織の単なる一部門に成り下がり、ショービジネスではなく、別の分野にエネルギーを注いでいる異なる種類の人々によって運営されているんだ」。
「これはモンキーズの状況に特に当てはまる。モンキーズほどその行く末が常に他者の手に委ねられていたものは存在しない。コカ・コーラのような巨大なレベルに達してしまうと、彼ら(モンキーズ)のような存在は見過ごされてしまう。蘭の花に必要な細やかな気遣いなんてしてもらえないんだ」。
直近の報道では、シュナイダーはレイフェルソンと共にアリスタ・レコードとコロンビア・ピクチャーズ双方と激しい対立を続けていた。モンキーズの最ブームにおける運営が杜撰だったと主張し、1,000万ドルの賠償を求めて訴訟を起こしている。その一方、コロンビアは(シュナイダーとレイフェルソンと一緒に)アリスタが契約を延長する為に印税報告書を改ざんしたとして、アリスタを提訴している。この事態がどう収束するのか、誰にも分からない。
一つだけ確かな事は、モンキーズの行く末、彼らの名前、彼らの遺したものが、それらを何よりも大切に思っている人々の手に委ねられる未来はないと言う事だ。その結果、モンキーズという存在は、最も熱心であるがそれゆえに中立的思考に乏しいファンを除けば、ほぼ全ての人々に誤解され続けるのだろう。
そう思うと心中穏やかではいられない。マイケル・ネスミスにとっては特に。「モンキーズのTVシリーズを支えた制作チームこそがその心と魂、核だった」とネスミスは主張する。「ボブ・レイフェルソンが魂だったら、バート・シュナイダーが心だった。じゃあ、僕たちは何だ?ただの雇われ人か?」
「いや、そうじゃない。僕たちにも心と魂があった。僕たちはそこにそれぞれの個性を注いだ。そして、彼ら、ボブとバートの事だ、は僕たちの個性が彼らの構想にこれほどの影響を与える事になるとは本当の意味では理解していなかったと思う。今は理解している。今ならはっきりと彼らは理解している。そして、彼らは認めている。そこに個性の力が存在したと認めているんだ」。
「だが、そこにはある種のわだかまりもあっただろう。それは彼らにとって『我が子』でもあったのだから。それは対立を生むような緊張感を作り出した。そして、その緊張感のある場所ほぼ全てで対立を生み出した。彼らの正体は一体何なのか?構想の為に集められた4人の個性の力なのか?4人の個性にもたらされた構想の力なのか?」
残念ながら、ネスミスはモンキーズ自身もその答えを知る事はないだろうと思っている。「僕たち全員が死んで、全てが終わり、それが歴史の一部となって、何もかもが落ち着き、ただの遺物になった時、何らかの見方が出てくるだろう」。
それまで、モンキーズに関する新たな章は書かれるのを待つのだ。これは、傷一つなく、決して古びる事のないパブリック・イメージが、TV番組、映画、写真、レコードというタイムカプセルの中に残る4人の人間の物語であり、機械的複製時代における芸術を完璧に凝縮したものである。
そして、デビッド・ジョーンズ、マイケル・ドレンツ、ピーター・トーク、マイケル・ネスミスが日々暮らしていく日常があり、それらは彼らが生み出すイメージと極まれにしか混じり合わない。物語における彼らの役割は捉えどころがなく、公私にわたる人生が絡み合っている。彼らはモンキーズなのか、はたまた論争を引き起こしながらも根強い人気のある大衆文化の実験に絡め取られた実在の人物なのか?
進化は続き、問いの答えは出ない。
モンキーズの誕生から1985年までをたどった考察本 The Monkees Taleの改訂版のエピローグです。1989年までの出来事が追加されています。
2024年までの出来事を追記した加筆修正版はこちらから。
Monkee Business: The Revolutionary-Made-For-TV Band: Revised 2024
https://www.amazon.co.jp/Monkee-Business-Revolutionary-Made-TV-ebook/dp/B0CX9NXD67?ref_=ast_author_dp&th=1&psc=1
訳註:バート・シュナイダーとボブ・レイフェルソンが起こした訴訟の結果について
バートとボブは勝訴し、1993年6月1日付けでモンキーズの名前・音楽・映像の権利が二人に譲渡されました。ソニー(コロンビア・ピクチャーズの親会社)に残ったのは放映権とエミー賞のトロフィーだけです。ロサンゼルスのソニー・ピクチャーズ・スタジオ・ツアーに行ったファンから、映画の小道具やオスカー像と一緒にモンキーズのエミー賞のトロフィーも展示されていたという情報もありましたが、今も展示されているかは不明です。
「ライノ・レコード・ストーリー:リベンジ・オブ・ミュージック・ナード」(ハロルド・ブロンソン著)によると、ライノはバートとボブにその権利を400万ドルで買い取ってほしいと持ち掛けられたそうです。しかし、ライノ単独で払える額ではなかったため、ハロルド・ブロンソンはマイクに共同購入を提案しました。ライノが音楽をとり、パシフィック・アーツが映像をとる形です。けれど、他のメンバーがモンキーズの使用許可を求めに自分の所に来るような形にしたくないというマイクの意向から、この案は却下されました。最終的に、ライノは北米での権利のみを所有し、ワーナー・ミュージック・インターナショナルに他の地域での権利を渡す条件で金額の1/3を負担してもらうことになりました。こうして、1994年1月に正式な契約が交わされたとのことです。