BAM Magazine No. 181 (May 4, 1984)

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"Hey, Hey It's The Monkees"
The Madcap '60s TV Band - Then and Now
by Eric Lefkowitz
 
テレビとロックンロールという不吉な組合わせは過去にいくつかの奇妙な子孫を残してきた。骨盤を持たないエルビスを見せたり、タイニー・ティムやソニー・ボノをスターに押し上げたり、パートリッジ・ファミリー、サイケなバスを運転する中年の母親が率いるロック・バンドを我々に提供できるのはテレビ以外にあるだろうか?
 
モンキーズは全く異なる種類のバンドだった。他のTV番組とは異なり、彼らはおかしくて、反抗的で、いかしてた。「僕たちは沢山のルールを破った」と番組のディレクター、ボブ・レイフェルソンは言う。「人々がこの番組の事を思い返す時、何かが違っていたと気づく。それは感覚を刺激されたからなんだ」。
 
「あれは『パパは何でも知っている』じゃなくて、『子どもは何でも知っている』だったのさ」と言うのはレイフェルソンと共に「ザ・モンキーズ」を共同プロデュースしたバート・シュナイダー。「みんながモンキーズを知っているように感じたんだ」。
 

4人のモンキーズ、デイビー・ジョーンズ、ミッキー・ドレンツ、ピーター・トークそしてマイケル・ネスミスの、物語には彼らのTV番組の内容のように予測不可能な紆余曲折やモンキー・ビジネス(悪ふざけ)が山ほどある。十代前半のビートルズ・ファンの熱狂を受け継いだモンキーズは瞬く間にスターの座に上りつめた。

 
しかしながら、彼らがロック界における初めての試験管ベビーであったという事実は、いとも簡単に彼らを批評家の冷笑と業界の妬みの標的にしてしまった。モンキーズは2度のエミー賞受賞、5枚のゴールド・アルバム、6枚のトップ10シングルと長編映画1本という文句なしの成功を収めたにも関わらず、10代の子ども向けの人工的なポップスター、プレハブ・フォー(訳注:出来合いの4人組)とみなされた。混乱の3年間の後、彼らは自ら消滅した。。
 

第一幕 モンキー・ビジネスほど素晴らしいビジネスはない(1965-1969)

 
ヤバいオーディション!
新しいTVシリーズの役者として
フォークとロックのミュージシャン、シンガーを求む
募集は17才から21才のイカれた男子4名
 
この広告は、アメリカ版ビートルズを探していた2人の有能なプロデューサー、ボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーからなるレイバート・プロダクションが発案したものだった。楽しい事が大好きな、長髪のミュージシャン4人を題材とした30分のコメディーシリーズに出演する本物のロック・バンドを見つけられなかったため(ラヴィン・スプーンフルも候補にあがっていた)、二人は「バラエティ」誌に広告を出して、アマチュアを募集する事にしたのだ。
 
437人の応募者が集まり、中にはスティーブン・スティルス(歯並びを理由に落選)、ポール・ウィリアムス、ダニー・ハットン(スリー・ドッグ・ナイト)等もいた。最終的に残ったのは2人の俳優、デイビー・ジョーンズとミッキー・ドレンツそして2人のミュージシャン、ピーター・トークとマイク・ネスミスという程よい形になった。こうして彼らはモンキーズとなった。
 

リハーサルは商業作品の監督ではないジム・フローリー(代表作「マペット・ムービー」、「弾丸特急ジェット・バス」)の下、始められた。しかしながら、スケジュールが厳しすぎたため、4人が自分たちの音楽に取り組むのに十分な時間は取れなかった。「彼らがあんなに短期間で結束力のあるグループになるとは想像していなかった」と、シュナイダーは直近のインタビューで語っている。

 
そして、ドン・カーシュナー、別名「黄金の耳を持つ男」の登場だ。ポップス界の神童、カーシュナーは業界屈指のブリル・ビルディングの作曲家陣を擁するアルドン・ミュージック社を持ち、キャロル・キング、ジェリー・ゴフィン、バリー・マン、シンシア・ワイル、ジェフ・バリーといったアーチストたちの曲を際限なく提供することができた。
 
カーシュナーの支配下で、モンキーズはベルトコンベアーのように運ばれてきた録音済みの曲に声を吹き込むだけだった。カーシュナーから "Monkees Theme" の作曲を依頼された凄腕の作曲チーム、ボイス&ハートはグループのファースト・シングル "Last Train to Clarksville" の作曲も手掛けた。
 
"Clarksville" はモンキーズ自身のレーベル、コルジェムスから番組開始のほぼ1ヶ月前に発売された。3週間後には400万枚を売上げ、舞台は整った。
 
1966年9月12日の月曜夜7時30分、「ザ・モンキーズ」がNBCで放送された。この番組の型破りで不躾なスタイルはすぐに批評家たちに受け入れられた。タイム誌は「明るくて奇抜で気取らない」と評し、ニューズウィーク誌は「TV界に新鮮な風を吹き込む作品」と賞賛した。ご多分に漏れず、リチャード・レスターの画期的な映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」と比較する向きが多かった。しかし、モンキーズの監督ジム・フローリーは最近のインタビューでこう語っている。「僕たちはマルクス・ブラザースからの影響が大きかったが、レスターとビートルズのスタイルは英国の "the Goon Show"(訳注:1950年代にBBCで放送されていたラジオ・コメディー)に近いものだった」。
 
当初の評価は不安定だったものの、あらゆる兆候が大ヒットを示していた。"The Monkees"、グループのファースト・アルバムはチャート1位に躍り出て、15週連続でその座を維持した(最近になってメンズ・アット・ワークのデビュー・アルバムがその記録をついに塗り替えた)。熱狂が収まる前に、モンキーズはさらなるキラー・シングルを放った。ニール・ダイアモンドの "I'm A Believer" とボイス&ハートによる "(I'm Not Your) Stepping Stone" である。このシングルは瞬く間に世界的な大ヒットとなり、英国、オーストラリア、その他西欧諸国(番組は37ヶ国で放送された)でチャート1位を獲得した。
 
モンキーズ・ブームが到来した。ウールの帽子からランチボックスまであらゆる物が商品化された。ベビーブーム世代、10代前半の子どもたちは熱狂し、デイビー、ミッキー、ピーター、マイクに関するものなら何でも飛びついた。アイドル雑誌には「ピーター・トークとの危険な火遊び」のようなゴシップ記事が掲載された。
 
しかし、本物の論争はすぐそこまで来ていた。並外れたエゴで悪名高かったカーシュナーはモンキーズの成功の功績を自分のものにしようとしていた。その一方、グループはマスコミから録音済みの歌をうたう機械仕掛けの操り人形と揶揄されていた。シュナイダーは当時を振り返って、こう語る。「マスコミの標的になったのがカーシュナーではなく自分たちだったので、彼らはムカついてた」。
 
カーシュナーがグループの同意なしに3枚目のシングル "A Little Bit Me, A Little Bit You" を発売した事で、一気に緊張が高まった。モンキーズはシングルの回収とレコーディングに関する音楽的な主導権を要求した。シュナイダーはグループを支持し、カーシュナーは直ちに解雇された(が、アーチーズの "Sugar Sugar" ですぐに復活した)。
 
カーシュナーの抑圧から解放されたモンキーズは3枚目のアルバム "Headquarters" で音楽的貢献を果たした。その後のツアーも好評を博し、中でもジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスが前座を務めた逸話は特筆に値する。 "Pleasant Valley Sunday" や "Daydream Believer" といったヒット曲はグループの成熟した才能を見せつけ、 新たな賞賛を集めた。
 
しかしながら、プレッシャーが彼らの大きな負担となっていった。2シーズン56話の放送後、グループはTVシリーズの打ち切りを決めた。「僕たちは欲の塊ではなかった」とレイフェルソンは語る。「僕たちは最初に立証しようとした事を達成できた。メンバーたちは元々バブルガムなタイプではなかったから、バブルガムでいる事にうんざりしていたんだ」。
 
最後の作品として、グループはレイフェルソン監督がジャック・ニコルソンと共同脚本を手がけた映画「ヘッド」の製作を決定した。フランク・ザッパからキャロル・ドーダまであらゆる顔ぶれが出演するこの映画は、今では一種のカルト映画として位置づけられている。「これは神話の全てを白日の下にさらした」とレイフェルソンが解き明かす。「彼らを作り上げ、操っていた真実が明らかになった。皆が裸になったんだ」。映画は興行的には失敗したが、レイフェルソンとシュナイダーはBBSプロダクションを設立し、後に「イージー・ライダー」、「ラスト・ショー」、「ファイブ・イージー・ピーセス」(レイフェルソン監督)、「ハーツ・アンド・マインズ ベトナム戦争の真実」(シュナイダーがアカデミー賞を受賞)等の作品を手掛けた。
 
TVスペシャル「33 1/3 レボリューションズ・パー・モンキー」の撮影後、ピーター・トークが1968年末にグループを脱退した。残ったメンバーはレコーディングやツアーの活動を続けたのち、1969年に解散した。
 
 
第二幕 解き放たれて ― モンキーズの先へ(1970-1984)
 
DAVID JONES
 
モンキーズの中でデイビー・ジョーンズの人気はずば抜けていた。あまりのファンの多さに、彼の私生活はしばしば支障をきたすほどであった。モンキーマニアの絶頂期には20ヶ月もの間、結婚の事実を伏せていた位だ。だが、ジョーンズは常に多くのファンに寛容な姿勢を崩さなかった。
 
「モンキーズの名声に縛られてはいない」とジョーンズは語る。「声をかけてくれる人に対して責任を負うのが僕の役目だと思っている。小さい子どもたちに『モンキーズの人だよね?』と言われて、『うるさい、モンキーズの話はしたくない』なんて言えないだろ?」
 
もちろん、身長5フィート3インチのジョーンズがファンを見下ろすような事はあり得なかった。多様な才能を持つ38才のジョーンズは常にその小柄な体格を有利に活用してきた。15才で渡米し、ブロードウェイで「オリバー」のアートフル・ドジャー役(トニー賞にノミネート)を演じる以前は故郷の英国で騎手をしていた。最近また馬を始め、妻のアニタと2才の娘と共に暮らすサセックスの牧場で1985年のグランド・ナショナル(訳注:毎年4月にリヴァプール近郊のエイントリー競馬場で行われる障害競走)に向けてトレーニングをしている。
 
今でもジョーンズはスケジュールが空けば、舞台やTVに出演している。最近は自叙伝の執筆もしており、題名は "They Made A Monkee Out Of Me” に決まっている。1984年暮れに出版予定のその本はマンチェスターの学校時代からモンキーズ、そしてソロ活動に至るまでのジョーンズの足跡を辿るものになる。「犯罪者保護のため、名前は変えてあるんだ」とおどける。
 
恐らく、モンキーズ関連のプロジェクトに最も係わってきたメンバーはジョーンズだろう。1975年から76年に彼はミッキー・ドレンツ、トミー・ボイス、ボビー・ハートと共に再結成的な形でアメリカの遊園地を公演して回った。また、1981年から82年に日本で大規模なモンキーズのリバイバル・ブームが起きた時には日本各地で公演を行った。
 
PETER TORK
 
モンキーズ以降のピーター・トークの人生はTV番組で演じたハーポ・マルクスのような能天気なキャラクターとは実に対照的だ。トークはここ数年間、アルコール依存症との闘い、ハシシ所持による逮捕、経済的な問題、離婚など数々の苦難に直面してきた。
 
「僕にとってのどん底は1980年の6月だった」とトークは吐露する。「その後、何とか禁酒する事ができて、マリファナとコカインも翌年の1月を最後にやめた。それ以来、比較的安定したペースで順調に仕事ができてるよ」。
 
現在、トークはニューヨークを拠点とするバンド、ピーター・トーク・プロジェクトを率いて、モンキーズの往年のヒット曲とオリジナルのロックンロールのレパートリーを織り交ぜて演奏している。今までのところ、東海岸及び中西部でのツアーは大盛況である。だが、トークは今のバンドを聞きに来る観客に対して現実的な見方を失っていない。「お客さんたちが来るのは、僕がモンキーズだったからなんだ。みんな、モンキーズの曲を聞きに来るのさ」。
 
今ではモンキーズは彼の音楽活動にとっての足がかりとなっているが、長い間、トークは自身のイメージと過去の両方に悩まされてきた。理想主義者の元フォーク・ミュージシャンであるトークにとって、モンキーズ時代は苦難の連続だった。1966年12月の時点で既に「ルック」誌で「くだらないゲームだ。でも、契約したから付き合うしかない」と語っている。
 
ネスミスと共に、トークはカーシュナーへの反乱を主導した。「僕抜きでレコードが作られていくのは屈辱的だった。仲間はずれにされて、ないがしろにされて、自尊心を傷つけられた」と直近のインタビューで語る。「最悪だったのは誰も分かってくれなかった事だ。僕が大声で叫んでわめいても、彼らは首をかしげるばかりで。全く理解してくれなかった」。
 
トークとネスミスの音楽的主導権を巡る争いはモンキーズ内の団結を図る助けにはならなかった。「緊張感はいつもあったし、嫉妬心もあった」と言ってから、彼は急いで付け足した。「彼らの事は心から尊敬している。彼らはそれぞれが類いまれなる才能の持ち主だからね」。
 
現在、39才のトークは3番目の妻と2人の娘(訳注:娘1人と息子1人の間違い)とロサンゼルス郊外のベニスに住んでいる。一方、彼のバンドはニューヨークでレコード契約を模索中である。今のところ、彼は自身のバンドに満足し、上手くいくと思っているようだ。「富と名声、夢にも思わないような大成功が僕たちにとっての最低条件さ」。
 
MICHEAL DOLENZ
 
ミッキー・ドレンツは4つの年代にまたがってTV業界で活動してきた。50年代、わずか10才でTVシリーズ「サーカス・ボーイ」に出演し、ビンボという名の象を追いかけていた。
 
それから凡そ30年後、38才になったドレンツはロンドンのセントラルTVで監督とプロデュースを行っている。彼の説明によると、最新作の「ルナ」は「『ハッピー・デイズ』と『スター・ウォーズ』を掛け合わせたような作品」とのこと。
 
ジョーンズ同様、ドレンツもモンキーズに対する批判には少しも動じなかった。「特に気にならなかった、僕はミュージシャンじゃなかったからね。僕はミュージシャン役を演じる俳優だった。僕たち最初はTV番組で、それからロック・グループになったんだ。僕は音楽業界がどういうものか全く分かってなかった」。
 
モンキーズの数多のヒット曲で彼の独特な歌声を聞く事ができるが、ドレンツはソロ活動の道は選ばなかった。「僕にはそういう気持ちがなかったんだ。長年、演技の仕事をしてきたからね。その頃から監督やプロデュースの仕事を考え始めた」。
 
しかし、アメリカでは監督する機会に恵まれなかったため、ドレンツは「弱虫クルッパー」や「ドボチョン一家の幽霊旅行」などの子供向けアニメの声優をして時間をしのいだ。1976年、ドレンツはハリー・二ルソンの舞台「ザ・ポイント」でデイビー・ジョーンズと共演するため、英国へ渡った。これが彼の最後の舞台出演となった。
 
ドレンツはそのまま英国に留まり、TV番組の監督業に専念することにした。近年では、BBCの子供向け番組「メタル・ミッキー」の監督を務めるほか、映画「バグジー・マローン」の舞台版演出も手掛けた。
 
ドレンツが故郷のロサンゼルスへ戻る可能性は低いようだ。「アメリカの業界に魅力を感じないんだ。特にTV業界は全然面白くないと思う」と語る。
 
彼が英国人に惹かれる理由は何だろうか?彼は「色々あるよ」と答えた。「最初は妻がイングランド人だった事で色々助けられた。最初の妻もイングランド人だったから、僕は英国人に親近感があるんだろうね」。
 
MICHAEL NESMITH
 
マイケル・ネスミスは過去にこだわるよりも未来について語るのを好むようだ。「マイクは自分がモンキーズの一員だった事を忘れたいと思っているのだろう」と語るのは、モンキーズの元音楽監督で現在はEMIレコードに所属するレスター・シルである。「だが、もちろんそんな事は不可能だ」。
 
ソングライターのボビー・ハートはこれに異議を唱える。「マイクは隠そうとしてるんじゃなくて、もっとこう、クリエイティブな事、監督や作曲、プロデュースで知られたいと思ってるんだ」。
 
1981年のリン・ハーシュバーグとのインタビュー(BAMマガジン No. 110)でネスミスは次のように認めていた。「僕たちは完璧にビデオ・グループだった。僕たちが実際に演奏する事ができたのは、テレビ現象の副産物のようなものだった。僕が驚いたのは、それが一般的には誤解されていたという事だ。つまり、最も頻繁に聞かれる質問の1つが、まさにそのジレンマを的確に表現しているんだが、「モンキーズはいつ解散したのか?」というものだ。それはつまり、彼らがモンキーズをロックンロール・バンドのようなものだと認識している事を表す。ロックンロール・バンドなんかではなかったのに。まるでマーカス・ウェルビー(訳注:医療ドラマ「ドクター・マーカス」の主人公)にいつ医者を辞めたのか?と聞くようなものだ」。
 
現在41才のネスミスはモンキーズ以降、主流にとらわれない多様な活動で高い評価を築き上げてきた。1975年にカーメルでレコード製作(現在は廃止)とビデオ製作を行うパシフィック・アーツを設立した。そこで彼は自身初のビデオディスク「エレファント・パーツ」を製作する。作品は絶賛され、1981年にグラミー賞初の最優秀ビデオ賞を受賞した。
 
今年初め、彼はボブ・レイフェルソンと共同(ネスミスがプロデュース、レイフェルソンが監督)でライオネル・リッチーのヒット曲 "All Night Long" のミュージック・ビデオを製作した。現在は、NBCで放送予定の初のTVスペシャル「マイケル・ネスミスのテレビジョン・パーツ」の製作中である。また、ネスミスは映画製作にも乗り出している。1983年公開の最初の作品「タイムライダー」は興行的には失敗だったが、新作の「レポマン」はより良い結果を出すかもしれない。
 
現在の活動の関心事と比べると、ネスミスにとって音楽は二の次になっているようだ。だが、ビデオ業界の立役者となるまでは、ネスミスはカントリー風味のロックのソロ・アルバムを10枚以上発売していた。一般の認知はそれほどではなかったが、批評家からは高く評価されていた。(ネスミスのソロとしての最大のヒット曲は、当時若き無名のボーカリストだったリンダ・ロンシュタットとストーン・ポニーズによる "Different Drum"である。)
 
当然、モンキーズの中ではネスミスがグループ内での音楽的リーダーだと広く認知されていた。しかし、象徴的なウールの帽子と皮肉っぽいテキサス流のユーモアの影には、妥協を許さず、とことんまでこだわる表現者が隠れていた。「彼は最も独立心の強い人間だったと言える」と語るレイフェルソン。「彼は売れた事を喜んでいたが、それを冷静に受け止め、『得るものが少なくても、自分のやり方でやりたい』と言っていた」。
 
ネスミスがモンキーズに関するインタビューを避ける理由について、ミッキー・ドレンツはこう言っている。「多分、あの時期の彼はミュージシャンとしてもソングライターとしても、すごく不満を抱えていて、経営陣のスクリーン・ジェムズやRCAビクターに強制されていたからじゃないかな。それが今でも影響を与えているのかも。今の彼には全く必要がないんだ。あの頃の話なんて要らないんだよ」。
 
終幕:
 
今日、モンキーズは地方局での放送、ファンクラブ、コンベンションやコレクターといった魔法のような存在を通して生き続けている。数年前には日本と英国で大規模なリバイバル・ブームもあった。「ザ・モンキーズ」を全国規模のケーブルTVで放送するというバート・シュナイダーの計画が実現すれば、アメリカでもリバイバル・ブームが起きるかもしれない。
 
モンキーズの再結成はあるのか?ドレンツによるとその可能性は「かなり低い。最後にピーターとデイビーと僕とで何か一緒にやろうってなった時、マイクは断った。マイクが再結成する事に賛成するとは思えないんだよね」。