The Carletonian: Carleton College (Nov. 12, 1982)

Tork Talks: A Carl's evolution from man to Monkee and back again

トークが語る:あるカールトン大生が人からモンキーになり、また人に戻る

by Sam Delson

 

116年間の歴史の中でカールトンを卒業していった凡そ2万人の男女の中には知事や大使、大物実業家もいます。しかし、恐らく最も有名であろう、このカールトン大生は政界にも経済界にも決して足を向けませんでした。彼は卒業しておらず、礼拝堂への出席率が悪い事もあり、二度退学処分になっています。彼はカールトンを母校と呼ぶ事を拒否し、「僕が通っていた学校っていうだけだよ」と言います。

 
彼は自分が住んでいる場所すら大学に知られたくないのです。「大学はもう僕を見つけられないのさ」と笑います。大学から寄付を求められるのを嫌って、住所を秘密にしているのです。
 
しかし、カールトンでの目立った成績はないものの、ピーター・H・トーケルソンにはここで楽しく過ごした思い出があります。昔の教授たちや同級生たちと今でも連絡を取っていて、大学は多くの社交術を身につけた場所である事は覚えているのです。
 

ほんの15年前、彼はアメリカで最も裕福で有名な人物の一人でした。ピーター・トークとして知られるトーケルソンは、TVの為に作られたロック・グループであり、1966年から1969年にかけてアメリカのどのミュージシャンよりもレコードを売り上げたモンキーズのギタリスト&シンガーでした。モンキーズはその3年間、レコードの売り上げチャートでもニールセンの視聴率でもトップを取っていました。彼らの番組は今でも全国の地方局で放送されています。

 
現在のトークはポピュラー・カルチャーの追記事項やトリビア・クイズの答えとして辛うじて知られているだけですが、カールトンの学生は彼を忘れてはいません。1979年11月、The Gang of at Least Three and Not Over Sixteen Hundred(3人以上1600人以下のギャング)と名乗るグループが初代学長の肖像画を誘拐し、大ホールにトークの名前を付ける事などを要求しました。5ヶ月に及ぶ交渉の結果、肖像画は無事に戻り、引き換えにセイルズ・ヒル学生センターの遊技場に「ピーター・トーク・メモリアル・ピンボール・エリア」と名付けた額が飾られ、記念式典が行われました(訳注:その後、2006年頃までその名称が使われたようです。現在は改装されて、カフェになっています)。
 

彼が大学と接触していない為、トークがここで過ごした詳細については謎に包まれています。彼に関する謝った情報や逸話は数多く存在します。しかし今年の夏、謎に包まれたその男をフォーク・シティー(グリニッジ・ビレッジの老舗ライブハウス)のショーの合間に追い詰めると、その誤りを正す事に快く応じてくれました。

 

トークは1959年の秋、17才の新入生としてコネチカットからカールトン大学へやってきました。SATの言語学で799点を取った彼はカールトンに大きな希望を抱いていました(訳注:SATは大学進学用の標準テスト。この時代は言語と数学の2種類のみで、それぞれ800満点ずつ計1600満点)。初年度は一般教養課程でしたが、彼はそういった授業をほとんど受けませんでした。

 

彼は初年度に修辞学(訳注:弁論法など)を専攻していましたが、途中で変更し、今振り返ると「人生最大の間違いの一つだった、、、代わりにシェイクスピアを専攻して落第したんだ」と語っています。1年後、トークとカールトンは双方の合意により袂を分かちます。1960年から1961年にかけて、彼はコネチカット州ウィリマンティックにあるアメリカン・スレッドの工場で働きました。

 

しかし、初年度の失敗にもめげず、彼はカールトンに戻ると決めます。「自分でお金を貯めて、戻ってきたんだ。なんでかは分からない。神様が与えてくれた分別が僕にあって、最初に気づければ良かったのにと思うよ」。

 

彼は更に4期在学し、英語を専攻して1962年に3年生の秋学期を終えましたが、「成績が芳しくなく、礼拝堂にも行かない」為、再び退学処分になりました。

 

カールトンで過ごした彼の6期は学業的には大失敗でしたが、その他の理由から彼は大学に良い思い出があるそうです。「ものすごく楽しかったよ。カールトンは当時からかなりリベラルな大学に見られていたんだ」と思い返していました。

 
カールトンは今までにない自由をトークに提供したのかもしれませんが、50年代後半から60年代前半の大学の雰囲気は現代の基準からするとかなり抑圧的なものでした。礼拝が義務づけられ、アルコールは禁止、そして男女はキャンパスを挟んで反対側の寮に住んでいました。
 

それにもかかわらず、トークはカールトンでの生活が開放感をもたらす体験だと気づいたそうです。ここで初めてアルコールを覚えた事を思い返し、女の子を追いかけてばかりいたと話します。

 

「僕の地元の町には女の子がいなかった、でもカールトンにはいた。彼女たちはキャンパスの反対側の閉ざされた寮に住んでいて、会えるのは年に2回か3回だけだったけどね」。

 

彼は校内のレスリングの試合や、演劇のグループに参加した事、金曜の朝に彼がやっていたラジオ番組 "Dawn Patrol" の事などを覚えています。彼はまたいくつかのフォーク・グループで歌っていました。彼がピーター・バスキン:'63年卒業(訳注:ピアニスト。モントリオール国際コンクールで優勝、ハンター大学の名誉教授)、ビル・ウィンゲート:'65年卒業(訳注:カールトン卒業後、ハーバードのMBAを取得し、劇場経営や、舞台や映画のプロデュースに携わる)と組んだトリオもその内のひとつです。最近カールトンを訪れたバスキンによると、ピーターは新しいフレーズを作曲すると、聞かせようとしてバスキンの部屋へ午前3時によく乱入してきたそうです。

 

ここでの最終学期の間に、トークは教育心理学に熱中していました。「僕の課題はその本の1章だけだったんだけど、僕は1冊丸々読んでしまって、他の課題を全部飛ばしちゃったんだ。僕は本当にとっちらかっていて、求められている事が全然出来てなかったんだよね」と当時を振り返ります。
 
カールトンを2回目(そして最後)に落第した後、トークは1963年初めにグリニッジ・ビレッジへ向かい、ライブハウスで「お捻りを入れてもらうカゴを回して」歌い始めました。すぐにフェニックス・シンガーズというフォーク・グループに加わり、彼らと6ヶ月間の全国ツアーにも出ました。スティーブン・スティルスとはビレッジのウエスト・サード・ストリートで初めて出会いました。1961年にボブ・ディランが歌い始めたクラブ、フォーク・シティーの前でした。
 
「皆にビレッジに来たやつで、僕に似ているのがいるって言われてたんだ」とトークは回想します。「やっと彼と出くわした時、『君だね、僕に似てるって言うのは』と言ったら、彼に『誰に似てるんだって?』と言われたよ」。
 
初対面の状況にもよらず、二人は良い友人になりました。1965年9月に「バラエティー」誌と「ハリウッド・リポーターズ」誌が「ヤバいオーディション」と銘打ち、「17才から21才のイカレた男子4名」を新しいロック・グループのTVシリーズ用に募集する広告を掲載した時、それに気づいてオーディションを受けたのがスティルスでした。彼はラヴィン・スプーンフルのジョン・セバスチャン、スリー・ドッグ・ナイトのダニー・ハットン、その他430名の候補者と同様にオーディションに落ちましたが、家に戻ると自分とよく似た友人にオーディションを勧めました。トークはその時23歳で応募要領の年令制限を超えていましたが、何はともあれ受けてみる事にしました。
 
伝え聞く所によると、トークが面接の為に部屋へ入ると、プロデューサーのボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーがゴルフ・ボールでジャグリングをしていたそうです。若きミュージシャンは何も言葉を発しませんでしたが、その様子がハーポ・マルクスを連想させ、彼は合格しました。ディック・クラークは自身の著作 "The First 25 years of Rock and Roll" の中で別の角度から語っています。クラークによると、レイフェルソンとシュナイダーはトークの事をリンゴ・スターの容姿とジョージ・ハリスンの性格を持っていると考えていて、すなわち1人でビートルズ2人分を拝借できるという訳です。

 

しかし、トークの合格とスティルスの不合格について最もよく知られる理由はもっと単純なものでした。「僕の歯並びがスティルスより良かったからだって言ってたよ」と、トークは当時を振り返り、「僕の歯並びがいいのは当然さ、それだけお金をかけたからね」と付け加えました。彼は更に数秒間、自分の奥歯について熟考した後、「返金を要求しようかと思うんだ。僕の親知らずを返せってね」と続けました。
 
ともかく、ミュージシャンのマイク・ネスミスとピーター・トーク、俳優のミッキー・ドレンツとデイビー・ジョーンズの組み合わせはたちまち大ヒットとなりました。モンキーズの1枚目のシングル "Last Train to Clarksville" はNBCでのTV放送が始まる6週間前の1966年8月に発売されました。この曲はすぐにチャート1位になり、200万枚を売り上げました。2枚目のシングル "I'm A Believer" は4つの大陸の8つの国でナンバー・ワンになり、世界中で1千万枚売り上げました。彼らのアルバムはどれもすぐにゴールド・ディスクになりました。
 

しかし、彼らの人気は批評家の評価とは一致しませんでした。「ニューヨーク・タイムズ」紙のレナータ・アドラーは「モンキーズは、現代の音楽グループで最も才能に欠ける部類に入るが、それを自覚している彼らはビートルズと全く似ていないという点において最も興味深い」と書き記しています。

 

モンキーズがレコード上で楽器を演奏していないという噂は1967年、ネスミスによって肯定されました。モンキーズはレコード会社に圧力をかけて、3枚目のアルバムから自分たちで演奏させてもらう事に成功しましたが、ロック評論家から評価を得る事は叶いませんでした。

 

それにも関わらず、彼らは自分たちの力とお金を不遇なミュージシャンを手助けする事に使いました。伝説的なギタリスト、ジミ・ヘンドリックスはモンキーズの1967年のツアーに招かれるまでこの国では無名でした。この組み合わせは、これまで考えられた中で最も奇抜なコンサートの組み合わせの一つでしたが、大惨事以外の何物でもありませんでした。モンキーズの観客の大部分を占めていた10代前半の少女たちはヘンドリックスにブーイングを浴びせ、彼はほんの2、3回の公演で降板してしまいました。評論家が、ヘンドリックスはDAR(訳注:アメリカ革命の娘たち、米国独立戦争当時の精神を継承しようとする女性団体)によるボイコットの犠牲になったという話をでっち上げましたが、真実は単にモンキーズのファンがヘンドリックスを嫌ったというだけでした。「ジミは僕の友達だったけど、あのツアーは不味いアイデアだったかな。上手く行かないって、分かってたはずなんだけどね」と、トークは指摘しました。

 

モンキーズはまた、「イージー・ライダー」の資金源ともなりました、1960年代のカウンターカルチャーから生まれた最も重要な映画です。1968年に、モンキーズはジャック・ニコルソン脚本のサイケデリックな長編映画「ヘッド」を製作しました。「ヘッド」は商業的にも評価的にも完全な失敗でした。「ニューヨーク・タイムズ」でアドラーは「いかなる特徴もない彼らのパフォーマンスはささやかで、むしろ勇敢でさえある。彼らは頑張っているが、決して良くはない。とは言え、この映画はポット(訳注:マリファナ)と広告という2つの形式を組み合わせている点ではある種の魅力があると言える」と断言しています。

 

トークは最初にグループを脱退したモンキーとなりました、1968年に「ヘッド」が公開されてすぐの事でした。「僕は自分自身の音楽的な自我を彼らから切り離したかったんだ。けれど、残念ながらそれは実現しなかった」と語ります。その後、ピーター・トーク&リリースあるいはリリースというバンドを結成しますが、パッとせず、カリフォルニアで吟遊詩人になりました。

 

彼は西海岸で3年ほど複数の学校で教師を務めました。しかし、教師の資格要件が厳しくなり、この仕事を続けるには大学の学位が必要になった時に退職しました。ですが、彼には教職を離れる個人的な理由もありました。「僕がショービジネスを離れたのは問題ある性格をした人物から逃れる為だったんだけど、同じような人物が教育現場にもいるって分かったんだ。そこで考えた、『だったらもっと稼げる方がいいじゃん』てね」。

 
それ以降、音楽だけが彼の仕事になりました。彼はピーター・トーク&ザ・ニュー・モンクス ー「宗教的なものさ。分かるでしょ?」ー というエレキ・バンドをやっています。また、フォーク・ミュージシャンとしてソロ・ライブも数多くこなしています。彼はフォーク・ミュージックに惹かれていますが、ロックの方が儲かるのです。

 

今年の夏にフォーク・シティーで行われたトークの2つの公演は彼が才能あるマルチ・ミュージシャンである事を明らかにしました。彼は5つの楽器を演奏し、その夜はピアノ、バンジョー、ギターを扱う技術をどれも余裕たっぷりに披露しました。彼のステージでの存在感は暖かく、人を惹きつけるもので、選曲は幅広いものでした。それぞれの公演には必ずモンキーズの曲が1曲入っていましたが、その他は自身や彼の兄弟が書いた物からブルーグラスのスタンダード、バッハのピアノ・ソナタ、最近のお気に入りまで、チャック・ベリーからグレイテフル・デッドまでと様々でした。

 
モンキーズの曲を演奏した時は、再解釈されていて、15年前にヒットしたバブルガム・ポップとは思えない出来でした。第2部の冒頭に演奏した "Pleasant Valley Sunday" はソロ・ピアノで奏でられ、トークの細く甲高いテナーで歌われました。
 

唯一の大きな弱点は彼の声でした。常にか細く、音域が狭くて、何度か高音が完全にかすれていました。けれど、魂は確かにそこにありました。

 
トークは1時間の公演で16曲を演奏し、4回アンコールに登場しました。彼がモンキーズのために書いた数少ない曲のうちの一つ、 "Peter Percival Patterson's Pet Pig Porky" を演奏すると80人程の観客は熱狂しましたが、バッハ平均律クラヴィーア曲集の前奏曲ハ短調が最後に演奏されている間に落ち着きました。
 
この歳月はピーター・トークにとって良いことばかりではなかったようですが、40才になった彼は満足しているようです。そして、モンキーズの再結成の可能性について聞かれると、彼は決まってこう答えるのです。「何か新しい要素があって、ちゃんとした小銭が入る可能性があると思えば、僕はやるだろうね。でも、芸術性/真正性と金銭的考慮が両立しないなら、忘れてくれ」。