More Of The Monkees Super Deluxe Edition liner notes (2017)

Only True in Fairy Tales: The Story Of More Of The Monkees

おとぎ話の中だけのこと:More Of The Monkees の物語

by Andrew Sandoval

 

モンキーズのレコードの圧倒的な成功はグループを描くただのTVシリーズから本格的な音楽ユニットへと路線を変更する転換点だった。「モンキーズの最初のシングルとアルバムの両方がチャート1位になった後、誰が見ても彼らのとてつもない才能を客観的に捕えるのが難しくなった」と、1966年後半にこのロックン・ロールのおとぎ話を現実にした人物、ドン・カーシュナーは書き記した。

 
カーシュナーの莫大な売り上げと業界の賞賛の陰には、その作品に声と顔を与えた4人の俳優/ミュージシャン、すなわちマイケル・ネスミス、ミッキー・ドレンツ、デイビー・ジョーンズ、ピーター・トークと、そのTVシリーズのために彼らを見い出した二人の人物、ボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーがいた。しかし、モンキーズの主なヒット曲を作曲・プロデュースした二人の人物、トミー・ボイス&ボビー・ハートなくして、この新しい音楽ブームを制御する事は不可能だった。しかし、この段階ではモンキーズはドン・カーシュナーのサクセス・ストーリーであり、その事が高い木々の上の不興を買った。
 

当初、モンキーズのレコードはヒットが期待されたTVシリーズとのタイアップを意図したものであった。しかし、レコードの売上が番組の視聴率を上回るやいなや、彼らのレコード販売は富と権力を巡る戦いの場となった。「"Last Train To Clarksville" はとにかくレコードが売れた」とマイケル・ネスミスが振り返る。「その背景には大々的なプロモーションがあって、それでAクラスのポップ・レコードになった。(お偉いさんたちは)急に気づいたんだ、『思った以上のものが手に入った。もっと音楽に注意を払わなくては。このメディア(テレビとマーケティング)が音楽に影響を与えているらしい事を考えると、たくさんのアルバムを用意する必要がある。じゃあ、音楽を量産する準備が始められるか、彼らが番組に音楽を提供できるか見てみよう』ってね」。

 
始まるとすぐに、大衆がもっとモンキーズを欲しているのが分かった。そこで、音楽の皇帝ドン・カーシュナーは大衆をがっかりさせないように手配した。1966年6月末から11月までに、30曲ものモンキーズの新しい曲の製作を指揮したのだ(それら全てはこのスーパー・デラックス・エディションに収録されている)。その上さらに、その中の12曲を急速に消費者へ届けるために特別な仕掛けをほどこした。ポピュラー音楽史上最初で最後の方法、モンキーズのアルバムとシャツが両方買えるというものだった。
 

老舗服飾チェーンのJ.C.ペニーとの提携は新鮮で大胆な思いつきだった。J.C.ペニーは1966年までにより親しみやすいブランド名ペニーズを使い、ほとんどの店舗を全国で流行のショッピングモールに展開していた。モンキーズのレコード売上を過去最大に引上げ、彼らのアルバムを無償で宣伝する代わりに、タウンクラフト(訳注:J.C.ペニーの派生ブランド)の「ジェット・プロペル」シリーズのモデルとしてモンキーズを採用した。音楽は商取引の後回しにされ、ポリエステル混合の体にぴったりした服を着させられた4人の人気者は彼らの30代そこらの上司たちが自分たちをどこへ連れて行くのかと不思議に思うばかりだった。

 
「世間では、『ドニーは人形遣いだ』とか、『ドニーがグループを支配している』と言われていた」と、2006年のカーシュナーが認めている。「事実上、私はそういうことをした。エゴで言っているんじゃない、そういう契約があったから言っているんだ。私は彼らをスタジオから追い出した、私はTV番組に曲を用意しなければならなかったからだ。私にとってそれはビジネスで、私は曲を生み出さなければならなかった。私がやろうと思えば、モンキーズが歌うアメリカ国歌だって発売できたんだ」。
 
過度なスケジュールときちんと評価されない苛立ちから、モンキーズはカーシュナーの一連の行為に反感を抱くようになった。「それがどれほど負担になっていたか、世の中の人は分かってないと思う」とデイビー・ジョーンズは1994年に語っている。「もしも僕たちが『分かった、言う通りにやるよ』と言う代わりに、自分たちの状況を改善させるためにもう少し時間を割いていたら、物事は違っていたかもしれない」。
 
不当な扱いを受けたと感じていたのはグループだけではなかった。マスコミはグループの人気に自分たちが多少なりとも貢献したと考えていたので、バンド・メンバーへの接触が制限されると反発を露わにした。10月2日付け「ニューヨーク・タイムズ」紙の記者、ジュディー・ストーンはデイビーに「モンキーズの大々的な売り込みは本物のロック・グループに対して不公平なのでは?」と鋭い質問を浴びせた。口ごもりながらも、ジョーンズの返答は潔かった、「、、、世間をだます事はできない、無理だよ。いつかは最終的な決着がつく」。彼は知らなかったが、その時はすでに来ていた。
 
マイケル・ネスミスが語る、「マスコミは僕たちと全面戦争に突入したんだ。『モンキーズは本物としての誇りがなく、信ぴょう性のかけらもない4人組で、自分たちがさもロック・バンドであるかのように私たちを騙そうとしている』と書き立てた。第一に、事実ではなかったし、むしろその逆が真実だった。第二に、マスコミがモンキーズは本当のロック・バンドじゃないと大真面目に警報を鳴らして報道したのはバカげていた。マスコミの愚かさを象徴する部分だが、それが定着してしまった」。
 
その間にも、音楽は作られていた。"More Of The Monkees" に収録されている最初のレコーディングはマイケル・ネスミスがプロデュースした1966年6月25日のモンキーズ2回目のセッションである。マイケルはヒット曲を書くソングライターではないと思ったカーシュナーは、ネスミスをロジャー・アトキンスと組ませて、バディ・ホリーの1957年のヒット "Everyday" から着想した "The Kind Of Girl I Could Love" を書かせた。
 
アトキンスがカイラー・シュワルツにこう語っている(訳注:ロジャー・アトキンスの作品集、"It's My Life (Roger Atkins Songbook 1963-1969)" のライナーノートの著者)、「マイケルとその曲を書いたのは番組が放送される前だった。まだモンキーズの曲は1曲もなかった。あの当時、マイケルは全ての曲を書いて、リード・ボーカルもやって、レコード全部をプロデュースしたいと考えていた。だが、ドン・カーシュナーは違うプランだった。彼が僕をカリフォルニアへ送ってマイケルと仕事をさせたのは、彼が色々動いている間マイケルの気をそらす為だったんだと思う」。
 
「マイケルは僕と作曲するのを本当に嫌がっていて、いや、誰とも嫌だったんだろう。彼は礼儀正しくて、僕をハリウッド・ヒルズにある彼の家に連れて行って、奥さんと生まれたばかりの息子に会わせてくれたよ。セットではミッキーとピーターとデイビーを紹介してくれた。デイビーとはモンキーズが出来る前に彼の最初のコルピックスのアルバムで僕の曲 "Face Up To It" を録音した時にニューヨークで何度も会っていたけどね。彼は音楽の断片が入ったテープを録音していくんだ、まるで音楽の落書きみたいだった。その中から2、3つ使えそうな曲を僕がつなぎ合わせて歌詞を書いて、そういう曲の1つが "The Kind Of Girl I Could Love" だった」。
 
初期の頃にネスミスと共作した作家たちは他にも、"I Don't Think You Know Me" を書いたジェリー・ゴフィンとキャロル・キングがいた。カーシュナーはこの曲のネスミスがプロデュースしたバージョン(リード・ボーカルがマイケル版とミッキー版がある)を選曲の候補から外した。10月、彼はキャロル・キングにこの曲のプロデュースをさせるが、結局そのバージョンも発売はされなかった。1967年の初めにアメリカン・ブリードがこの曲をカバーし、彼ら初のチャート入りするヒットとなった。
 
1ヶ月後にネスミスがプロデュースするセッションが追加で行われ、彼の自作で力強い "Mary, Mary" が誕生した。当初、ポール・バターフィールド・ブルース・バンドによってシカゴのチェス・スタジオで録音されたこの曲は、彼らのアルバム "East-West" に収録されたが、ネスミスがモンキーズ用に自分のバージョンを試したのはその数日前だった。カーシュナーの疑念とは裏腹に、この曲によってネスミスは売れる曲が書けるという事が証明された。
 
「モンキーズのバージョンは初期に集まったスタジオ・バンドの1つだった」と、ネスミスが自身の作品について語る。「グレン・キャンベルがギターのパートを弾いてくれた。あれは本当のブルースのフレーズで、正統派のブルース・タイプの曲に取り入れたかったんだ。ただ、彼はカントリーのプレーヤーで、ブルースのプレーヤーじゃなかったから、すごく苦労してた。それで結局モンキーズのバージョンがカントリー調の風味になったんだ。加えて、ロサンゼルスのセッション・プレーヤーたちもカントリーの流れを汲んでいた。結局、僕が一番好きなのはバターフィールドのバージョンなんだ」。
 
同じく、7月25日のセッションで録音されたのはビル&ジョン・チャドウィックの "Of You"(ここでは1966年のモノ・ミックスを収録)とマイケル・マーティン・マーフィーの "(I Prithee) Do Not Ask For Love"(当初、デイビーのリード・ボーカルで録音されたが、ネスミスがミッキーに歌わせて再録音した)。どちらもマイケルのかつてのバンド仲間の蓄えの中から出来た曲である。ランディー・スパークスが作ったサバイバーと言う名のフォーク集団だったが、成功には至らなかった。"Prithee" が最初に発売されたのは1966年の4月でニュー・ソサエティというスパークスが作ったもう一つのグループによるものだった。モンキーズの中でも特にお気に入りだった "(I Prithee) Do Not Ask For Love" は1967年と1968年にピーター・トークによって再構築され、2回目の録音は彼らのTVスペシャル「33 1/3 レボリューションズ・パー・モンキー」で日の目を見た。一方、ミッキーは2012年の自身のアルバム "Remember" で多重録音のアカペラ・バージョンを録音している。
 
プロデューサー/ソングライターのトミー・ボイスとボビー・ハートは「ザ・モンキーズ」のパイロット版の音楽を担当し、最初のチャート1位の曲("Last Train To Clarksville")を書き、デビュー・アルバムをチャートのトップに導いた。それでも、大物作曲家を多数抱えるドン・カーシュナーからは二軍扱いされていた。二人は "More Of The Monkees" の為に12曲以上作ったが、最終的にカーシュナーが選んだのはたったの2曲だった。

1966年7月26日、彼らはラヴィン・スプーンフルから着想したアレンジで "Whatever's Right" を録音した。この曲は50年後にモンキーズの2016年のアルバム "Good Times"(初期のアップビートのボイス&ハートのデモを基にしたアレンジ)でリメイクされる事になる。また、このセッションで、彼らは傑作の "(I'm Not Your) Steppin' Stone" も録音していた。この曲は1966年11月発売のモンキーズの次のシングルのB面に採用された。ポール・リヴィア&ザ・レイダーズの1966年5月のアルバム "Midnight Ride" でカバーしていたが、モンキーズのバージョンは'67年初頭になんと20位まで急上昇した。
 
8月6日、ボイス&ハートは更なるセッションを行いもう一つのモンキーズのヒット曲 "Valleri" を生み出した。トミー・ボイスはドニーをごまかして曲名とサビのメロディーだけで、この曲を買わせた(盛り上げるためトミーはコーヒーテーブルの上に乗り、ドニーに歌って聞かせた)。「適切な歌詞があれば、モンキーズのヒット曲になるのは分かっていた」とカーシュナーは2006年に語っている。「何故なら世界中のバレリがこの曲を買うだろうし、全ての少女が『私の名前じゃないけど、私はバレリだと思えば』と考えるだろう。少女たちは夢見がちだから。セダカとの仕事でもその方程式は上手く行ったから、女の子の歌が手に入って期待が高まったよ」。
 
とは言え、カーシュナーは "Valleri" を次のシングルには選ばず、彼がモンキーズのプロジェクトから離れた後に、確実なヒットを見込める曲としてやっと復活した。今回収録されたオリジナル・バージョンは1967年2月20日「ザ・モンキーズ」の「ユカイでショウ!(Captain Crocodile)」の回で最初に放送された。この音源はラジオで大々的に流されたが、ファンが公式の完全版を買うには1968年まで待たなければならなかった。
 
「次のシングルにするべきだったんだ」とハートは述べる。「シングルが必要になった時に2、3曲候補があって、僕たちはスタジオに呼び戻されて、再録音したんだ。よく分からない理由があって、最初の音源が使えなかったんだ。僕たちは名前を出さない条件でスタジオに呼び戻されて、焼き直しを作らされた。最初の方が出来が良かった」。ここでは、ボイス&ハートの最初のTVミックス・バージョンと新しくリミックスしたオリジナル・バージョンを収録している。このセッションでは、 "(Theme From) The Monkees" のショート・バーションも製作された。バッキング・トラックのテイク1がこのコレクションで初お目見えとなる。
 
このデュオのモンキーズのための次なるセッションは1966年8月15日に行われ、更に2曲のヒット候補が生まれた。カーシュナーは "She" を "More Of The Monkees" のオープニング・タイトルに選んだが、残念な事に "Words" をTVシリーズの挿入歌に格下げしてしまう。モンキーズが1967年に(カーシュナーもボイス&ハートも抜きで)"Words" をリメイクすると、キャッシュボックス5位、ビルボード11位、レコード・ワールド14位にチャート入りした。彼らには金を生み出す力があったのだ。
 
故トミー・ボイスが1994年に回想している、「"Word" は素晴らしい曲だった。僕たちはあの曲で初めてピーターはレコードで歌えると思った。オーバーラップにしたんだ。ピーターを入れてミッキーと一緒に歌わせるのはすごく良いアイデアだと思った」。実際、この曲はモンキーズのヒット曲で唯一のピーターのリード・ボーカルとなった。"Word" のちょっと変わった2つのモノ・ミックスが今回収録されている。1つは1967年4月10日放送の「バイバイ・ブロードウェイ(Monkees In Manhattan)」で使用されたものとボイス&ハートがドラム・フィル(訳注:サビ前などにドラムで変化をつける事)の代わりにテープの逆回転を使った未発表ミックスである。
 
このセッションの翌日、"Last Train To Clarksville" が発売され、TV放送開始の27日前にモンキーズが世界にお披露目された。この曲は9月3日にキャッシュボックスとレコード・ワールドにチャートインし、ボイス&ハートがモンキーズのレコード・プロデューサーとしての地位を確実にしたかに見えた。だが、彼らは知らない間に双方から避けられ始めていた。カーシュナーは自分が住むニューヨーク・シティーに音楽製作の拠点を移したいと考え、バート・シュナイダーは彼らが製作した次の2曲の価値に疑問を持ち、モンキーズの印税が彼らの実験に使われていると嘆いていた。
 
バートはレスター・シル(西海岸におけるカーシュナーの対抗馬)に「もしもこれが典型的な状況なら、誰か知らない人間が入ってきて、録音する事を許すレコーディング・グループはいないだろう」と書いている。実は、グループのメンバーとバート・シュナイダーがボイス&ハートの曲を聞くのはミキシングが終わったものだけで、デモの状態で聞く事はほとんどなかったのだ。全ての事がまずカーシュナーを通さなければならず、彼も個人的に認めるまで音楽を共有する事がなかった。
 
バートの手紙はこう締めくくられていた、「この件について上層部と話し合い、今後の対応について知らせて欲しい」。どこからどう見ても、シュナイダーがモンキーズの後ろ盾だった。彼らの創造主であり、事実上のマネージャーだった。ところが、カーシュナーに音楽の主導権を渡した結果、彼はそれらの決定作業から外されてしまったのだ。しかし、彼らのレコードが予想を超えて商業的に成功した事で、彼は別の懸念を抱いていた。これは「典型的な状況」ではなかった。
 
1966年8月23日に録音された新しい方向性の曲、"Ladies Aid Society" と "Kicking Stones" は、ボイス&ハートの傑作である事は間違いない。恐らくトミーとボビーはアルバムの穴埋め位にしか見られていなかったのだろうが、モンキーズのアルバムが彼らの曲で埋め尽くされる事がなくなるとは思っていなかった。一方、マイケル・ネスミスはTVシリーズのプロモーションが本格的に始まり、モンキーズの新曲録音から遠ざけられていた。カーシュナーはボイス&ハートやネスミスといった障害もなく自由にレコードが作れるようになったのだ。
 
1966年9月10日のセッションで、ボイス/ハートの3つの素晴らしい創造物が製作された、"Mr. Webster" と "Hold On Girl" と "Through The Looking Glass" である。だがカーシュナーはヒットにならないと判断し、この作品群を見送った。これらの曲はTV用挿入歌としても日の目を見ない事になる。"Hold On Girl" は作者のジャック・ケラーによってもっと軽快なテンポでリメイクされて "More Of The Monkees" に収録され、"Mr. Webster" はモンキーズが3枚目のアルバム "Headquarters" で再構築し、"Through The Looking Glass" は後に1969年のLP "Instant Replay" で復活する(1967年のリメイクではあるが)。
 
2006年のインタビューで、カーシュナーは彼らの作品から手を引いた件について、こう語っている。「ボイス&ハートとはとても親しかった。だが、コロンビア・ピクチャーズ及びスクリーン・ジェムズと交わした契約上の私の責務は最高のレコードを作る事だった、いいかい?私の目標はただ一つ、えこひいきをしない事。"American Idol"(訳注:米国で放送されたアイドル・オーディション番組)と変わらない競争原理だ。4人の最終候補がいて、一人だけしか選べない。その一人一人がヒット曲を出すスターになる可能性を持っている、それこそ私が目指しているものだ」。
 
カーシュナーによる最初のニューヨーク・シティーでのモンキーズのセッションは1966年10月13日に行われ、キャロル・キングがグループの為に書いた2曲、"Sometime In The Morning" と "I Don't Think You Know Me" が録音された。キングはネスミスと共同でモンキーズの "Sweet Young Thing" を作った時に辛い目にあったと伝えられている。今回の新しい曲の際、彼女はメンバーたちとの直接の接触を避け、代わりに彼女自身がガイドとしてマルチ・トラックに仮歌を吹き込んだものを送った。ジェフ・バリーはそれをロサンゼルスに持っていき、メンバーたちを指導し、必要とされる多重録音を行う事で共同製作者の名義を手に入れた。
 
「メンバーたちは、まったく気に入ってなかった」とレコーディング・エンジニアのハンク・シカロが東海岸の巨匠たちについて語る。「彼らを責めはしない、あれはちょっと卑怯だったからね。ほとんどドニーのせいだ。彼らはニューヨークでミュージシャンたちと一緒にやりたがっていた。(モンキーズが)入って、ボーカルを入れたり、パーカッションを入れたり、そういう風に。すごく基本的な事とか、完全なものとか。ただ、彼らが忙しかった事は忘れちゃいけない。大変な緊張感の中でとんでもないスケジュールをこなしていたんだ。曲が届いても、彼らの曲じゃない事もあった。常に威嚇のようなものがあったんだ。
 
「例えば、キャロルとジェリー・ゴフィンが僕たちにレコードを送ってくると、何もかも組み込まれているんだ。とんでもない演奏に最高のサビ、歌的にも音楽的にもレコードの出来を良くするものが全部入ってた。当時、キャロル・キングのデモを聞いたら誰もがマネせざるを得なかった。そうするしかなかった、デモの効果がそうさせたんだ。時にはそういう状況になる事もある。自分らしくない事をしようとするけど、それはスクリーン・ジェムズが『あ~、そこはジェリーと同じように歌ってみて』って言うようなものだ。僕はメンバーたちが対処しきれない事を強いられている時があると気づいた」。
 
二日後、ジェフ・バリーはニール・ダイアモンドをニューヨークにあるRCAのスタジオBへ連れて行き、モンキーズの為に作られた彼の曲を2曲録音した。「ドン・カーシュナーが "Cherry, Cherry"(訳注:ニール・ダイアモンドが初めて全米チャートトップ40に入ったヒット曲)をとても気に入ってくれて、モンキーズにできるものはないかと聞かれたんだ」と語るダイアモンド。「それで自分のバージョンの "I'm A Believer" を送った。元々、僕のアルバム("Just For You")の為に書いた曲だった。自分の中のちょっとした意思表示みたいなものだったんだ。幸せな感じの。それほど深くは考えてなかった。ただタイトルが気に入って、それで出来た曲なんだ。"Cherry, Cherry" を書いたのとほぼ同じ頃に書いた曲で、おまけで出来たような感じだった」。
 
ダイアモンドはレコーディングに参加した事をほとんど覚えていないが、彼が提供した2曲の名作 "I'm A Believer" と "Look Out (Here Comes Tomorrow)" からはスタジオでギターを弾くニールの存在が伝わってくる。翌週、ジェフ・バリーはカウボーイ・スタイルで身を固め、恐るべき4人組と対峙する準備を整えてロサンゼルスに飛んだ。28才のバリーが彼ら「キッズ」に差し向けられたのだ。
 
「彼らに始めて会ったのは誰かのオフィスだった」とバリーは振り返る。「僕は("I'm A Believer" の)ごくシンプルなトラックと僕かニールが歌ったデモを持っていた、キッズが曲を聞けるようにね。伴奏とか何もなくて、基本の音とボーカルだけのやつだった。全員、これが完成のレコードじゃない事を理解して、ちゃんと受け止めてくれた(ただ、これが曲であり、基本のトラックだ)」。
 
「誰もが興奮しているみたいだった、ネスミスを除いて。彼は最初から態度が大きくて、ある時『僕もプロデューサーだけど、これはヒットしない』と言ったんだ。『おい、おい』って感じだったよ。僕は緊張をほぐすためにあからさまな冗談のつもりで、『でも、これは完成品じゃないんだよ、マイク。ストリングスやホーンを入れた所をイメージしてみたら』と言った。僕は最終的にストリングスやホーンは入らないと分かっていたけど、彼が『まあ、ストリングスとホーンがあればなんとかなるかもね』と言ったら、周りが笑っていた。彼もそれに気付いて、そこから関係が悪くなっていったんだ」。
 
マイケルにリード・ボーカルをやらせようとしたバリーの努力にもかかわらず("More Of The Monkees" の裏ジャケットの写真参照)、ミッキー、デイビー、ピーターのコミカルな存在感がシリアス路線を脱線させたようで、ネスミスの声が録音された形跡はマルチ・トラックには残されていない。しかし、残された写真からはそこに漂う緊張感が伝わってくる。
 
「ある時点で、彼は問題行動が多くなって」とバリーが回想した。「僕が彼を切り捨てたんだ。彼が最終選考に残る事はなかった。詳しくは覚えてないけど、歴史を見れば分かるように、彼は自分が何でも知ってると思っていた」。そんな事にはお構いなく、バリーは即座にミッキーとデイビーを確保して、"I'm A Believer" と "Look Out (Here Comes Tomorrow)" のリード・ボーカルをそれぞれにやらせた。また、バリーは(恐らくセッションに参加していたバート・シュナイダーによって)ピーター・トークをボーカルに参加させるように命じられた。その日の写真にはバック・コーラスの練習をするトークの姿が見てとれるが、彼の貢献は "Look Out (Here Comes Tomorrow)" の間奏部分の素っ頓狂なナレーションに濃縮されている(当初、未発表であったが他のバリエーション共々今回収録された)。
 
バリーは "Your Auntie Grezelda" でピーターにモンキーズのレコーディングにおいて初のリード・ボーカルを与えた。("Hold On Girl" の2番めのバージョンと並行して)ジャック・ケラーが10月14日に行ったセッションで録音された曲で、"Grizelda" はローリング・ストーンズの1966年2月のヒット曲、 "19th Nervous Breakdown" の形をなぞるようにソングライター(ケラーとダイアン・ヒルデブランド)が意図して作っていた。バリーとトークはそれをどこかへ持って行き、カーシュナーは "More Of The Monkees" の為に欲しかったものを手に入れた。彼はアルバムのライナーノートでこの曲について「、、、しかし彼らがまだやっていない偉大なるレコーディングの始まりである」と書き記した。
 
「この曲はアメリカン・スタジオでエンジニアのリッチー・ポドラーと録音した」と故人のケラーは1991に語っている。「その当時、モンキーズの相手をしていたのはジェフ・バリーだけだった。それでドニーが『ジェフと制作を分担しても構わないか?彼はデイビーを呼んで歌わせる事ができるから』と言った。僕は彼がピーターに "Your Auntie Grizelda" を歌わせるつもりだとは知らなかった。僕はモンキーズが "19th Nervous Breakdown" みたいにミッキーのリード・ボーカルか、ミッキーとデイビーで歌うと思っていた。いざ録音になって、ジェフが『これはピーターが歌う』と言うから本当に驚いてしまった。ピーターは一回で全部やってしまったから、セカンド・テイクはない。聞いた通り、そのままなんだ。彼が全部作り上げた。聞いた時はすごい衝撃を受けたよ」。
 
バリーがキャロル・キングのニューヨークの作品 "I Don't Think You Know Me" にボーカルを加える時、トークはマイクをとる2度目のチャンスを得た。デイビーとピーターを一緒に録る試みに失敗した後(デイビーにはキーが高すぎたらしく、「何マイルも高かった」と述べている)、バリーはキングの作品のペースを落として、トークが一人でリード・ボーカルをとり易いようにした。その途中で音に歪みが生じて、この曲が発表される事はなかった。今回、新しく再同期し、オリジナル作品の要素を引き出したリミックスを収録している(元々のキーでのバッキング・トラックの別バージョンも初収録)。歴史的観点で言うと、 "I Don't Think You Knw Me" は4人のモンキーズそれぞれがリード・ボーカルをとったバージョンが存在すると知られる唯一の曲である。
 
また、バリーはドレンツ最高傑作の一つ、"Sometime In the Morning" でミッキーの優しいボーカルをプロデュースした。とは言え、バリーはキングのかなり杜撰なバッキング・トラックを批判している。「ギターの音が狂ってた」と2006年に語っている。「今こうして聞いてみると、何かごちゃ混ぜみたいだ。多分、時間がなかったんだ。この辺の曲を選んだ覚えがなくて。お偉いさんが『さあ、これを録音して』とか言ったんだと思う。カーシュナーが主に選曲していた。彼が全て仕切っていた。僕は常に急かされていた。今だったら半年から1年かけるはずだ。カーシュナーはライターをかき集めて、デモを作らせていた。デモと原盤の違いはラベルだけだったね」。
 
1966年10月18日、「ルック」誌がモンキーズの活動風景を取材する為に行われたレコーディング・セッションは、彼らの音楽の背後にある不安定な同盟関係を露わにするきっかけとなった。レポーターのベティ・ローリン(訳注:ジャーナリストとしてエミー賞を受賞)はネスミスが両手を頭に載せた写真に「ニューヨークの連中には悩まされるよ」というネスミスの言葉を添えた。彼女は、カーシュナーがネスミスにこのセッションをやらせたのは「彼をなだめるためだった」と指摘した。ミッキー、デイビー、ピーターが揃って "Mary, Mary" のボーカルを試している録音テープにはこの夜の雑談の一部が残されている(今回、初収録)。カーシュナーが手綱を緩めたその夜も、予想に違わずばかげた、非生産的な夜だった。ネスミスは「ルック」誌にこう語った、「彼らは何か良い事の真っ最中で、何か他のモノを売ろうとしている」。
 
1966年10月28日、ペニーズからスクリーン・ジェムズの商品販売責任者「正直者」のエド・ジャスティンにある連絡が入った。ちなみにこの人物は使用許諾者への手紙の中で自分自身を「困窮しているのではなく、ただ貪欲なだけ」と認めている。ペニーズからの連絡はこうだった、「1月中旬、全米の主要なショッピングモールにある約1000店のペニーズ・ストアにモンキー・マニアが押し寄せるでしょう。5百万人近い観客になると思われます。しかし、その反響を倍増させる要素があります。我々のコレクションを着たモンキーズがアルバム・ジャケットを飾るという宣伝のタイアップは素晴らしいものになるでしょう。これが実現できれば、我々は前述のプロモーション活動を全て調整し、レコードを全体的な宣伝活動の中でも特に目立つようにしましょう。加えて、ペニーズ・ストアが生み出す何十万枚ものレコード売り上げによる副産物は決して小さくないでしょう」。
 
この連絡があった時までには、モンキーズは既に「アイロン要らず」のフォートレル(ポリエステルと綿の混合繊維製の服)を着て、ロサンゼルスの一軒家の外で写真家バーナード・イェジンに写真を撮られていた。当初、これはペニーズのカタログ用に撮られただけだったが、10月18日の連絡によって賽は投げられ、次のアルバムのジャケットになる事が決められた。想像に難くないが、彼らはアルバム・ジャケットの見本まで添付していた。ネスミスは当然、気に入らず、この撮影のほとんどの写真で彼は無表情を通した。結局、最終的なジャケット写真は2枚の写真をつなぎ合わせなければならなかった。あまり擦り切れていないオリジナル盤の "More Of The Monkees" を見れば、彼の袖が木の枝と切れ目なく繋がっているのがはっきりと分かる(訳注:他の3人は切り抜いた跡が見える)。
 
ペニーズはこうも書いていた、「時間が最重要項目です。もし我々がアルバムとのタイアップを図るなら今すぐ決断しなければなりません」。幸運にもペニーズの連絡があった同じ日、カーシュナーはサンセット大通りのRCAで2つのスタジオを使い、モンキーズの音楽を作っていた。スタジオBでは、ボイス&ハートが "Clarksville" から派生した "Apples, Peaches, Bananas And Pears" と軽快な "Don't Listen To Linda" と陽気な "I Never Thought It Peculiar" を製作していた。そしてスタジオAでは、その日の少し後、ジェフ・バリーがカーシュナーのニューヨークの作家団から送られてきた新たな3曲を急いで仕上げていた。
 
"Laugh" はトーケンズの4人のメンバーが作った曲で、トーケンズはプロデューサーとしてハプニングス(訳注:1960年代に活躍したコーラス・グループ)をヒットチャート入りさせるだけでなく、自分たちの曲 "I Hear Trumpets Blow" もヒットさせていた。ドニーは珍しい事に彼らの参加についてアルバムのライナーノートで言及していない(他の曲提供者については必ず触れていた)が、彼には "Laugh" を選んだ理由があった。
 
「笑う事は間違いなく人を幸せにする」とカーシュナーは2006年に語った。「気分が上がるじゃないか。トーケンズとはとても親しかった。彼らの大ヒット曲に "The Lion Sleeps Tonight" があるんだが、♪ウィウォンウォンウォウェイ♪って分かるかい?彼らは私の事務所のライターだったんだ、実のところ、彼らは頑張っていたが少々苦戦していた。私が彼らにモンキーズのアルバムの曲をあげれば、彼らに大金が入ると思ったんだ。少しでも彼らの力になりたかったし、当時はこの曲が好きだったのは確かだからね」。
 
1966年が終わろうとする頃、カーシュナーは二人のライター兼プロデューサー、サンディー・リンザーとデニー・ランデルに注目していた。"A Lover's Concerto"(原曲はバッハの「メヌエット」)やフォー・シーズンズの "Let's Hang On!" と "Working My Way Back To You" の作者で、バリーのセッションで素晴らしい "I'll Be Back Up On My Feet" と感傷的な "The Day We Fall In Love" を提供している。残念なことに、カーシュナーがアルバム用に選んだのは出来の良くない方だったが、これはリンザー&ランデルがモンキーズに曲を提供する始まりにすぎなかった。
 
1966年10月29日、恐らくは「競争的環境」の精神から、カーシュナーは次なるアルバム用のセッションの開始をボイス&ハートに許可した。彼らは "Last Train To Clarksville" や "Tomorrow's Gonna Be Another Day" に似たセブンス・コードを使ってスロー・テンポのブルージーな "Tear Drop City" を製作した。数日後の11月17日、彼らの作品に批判的だったバリーはアルバム・ミックスをまとめた箱にカーシュナー宛てのメッセージを書いていた。「 "Tear Drop City" はリミックスした方がいいと思う。それにブレイク(一時停止)の開放時にエコーがはみ出して締まりが悪い。僕なら何とかできる」。
 
結局、カーシュナーはバリーの申し出を見送り、ロック調の "Looking For The Good Times" と共に棚上げにしてしまった。だが、この2曲ともモンキーズが良作に恵まれなくなった1969年に奇跡的に復活することになる。ボイス&ハート最後のセッションは1966年11月12日で、心のこもった "I'll Spend My Life With You" が生まれた。この曲は元々トミー・ボイスが以前のガールフレンド、スーザン・ハドソンの事を想って書いた歌だった(彼女はレコード業界の大物ジョージ・ゴールドナーに心変わりしていた)。
 
カーシュナーはその根底にある誠実さを感じ取っていなかったが、実のところゴールドナーはボイスを西海岸へ送って創作させるためにカーシュナーに金を払っていた。1965年の事である。とは言え、モンキーズがこの曲に共感したのは確かで、アルバム "Headquarters" で上質のリメイクとして蘇らせる。「僕が恋してると思った女の子についての曲の構想があったんだけど、彼女は他の男に心変わりしてしまったんだ」と、生前のトミー・ボイスは1994年の最後のインタビューの内の1つで語っていた。
 
「その頃の僕は一般的に女性の事がちょっと分からなくなっていたんだ。"I Wanna Be Free" で書いたような、『愛してるなんて言わないで。ただ好きとだけ言って』みたいにね。その女の子は、彼女は僕を捨ててギャングの、ニューヨークのギャングの所へ行ってしまった。その前に書いた曲なんだ。26才とか27才の時って恋しかないって感じだろ?『人は行き交い、素早く、ゆっくり、動いていく。君は雑踏の中にいる、だけど君は独りぼっち』。ボビーはもちろん仕上げるのを手伝ってくれて、僕は彼女が留まってくれるかもしれないと思いながら、この曲を聞かせた。当然、彼女は出て行ったけどね」。
 
カーシュナーのポップスの世界には恋人たちの嘆きの詩が入る余地はなかった。11月23日、彼は人生を一変させるようなレコード、"I'm A Believer" を発売した。モンキーズにとって最大の売上を記録することになり、もちろん'67年の世界的ヒットになる。既にアルバム2枚以上の曲が選べる状態にもかかわらず、発売日にカーシュナーは "More Of The Monkees" 用の最後のセッションを行った。
 
デイビー・ジョーンズをニューヨークに送り込んだカ―シュナーは、ニール・セダカとキャロル・ベイヤーに指揮を執らせてデイビーのボーカルを急いで収録させた。ペニーズのプロモーション期日にアルバムを間に合わせる為だった。「ドン・カーシュナーに頼まれて、キャロル・ベイヤーと僕はデイビー・ジョーンズとスタジオに入って、"More Of The Monkees" のアルバム用に2曲ほど製作した」とセダカはこの最終日について語る。「胸に染み付いてる事があって、長年、僕が嫌ってきた言葉がある。何年も前に言われたんだけど、『今回のアルバムじゃなくても、次のアルバムで』って言葉だ。説明するよ。ドン・カーシュナーは "When Love Comes Knockin' (At Your Door)" と "The Girk I Left Behind Me" の2曲を聞いて、「"When Love Comes Knockin' (At Your Door)" をアルバムに入れよう。だが、"The Girl I Left Behind Me" は次のアルバムに取っておく』と言った。アルバムから外されて、ひどくがっかりしたよ。その結果、僕は大金を失った。沢山の競争に駆け引き、そして僕の苦手なご機嫌取りがあったんだ」。
 
このセッションの10日後、モンキーズはハワイのホノルルで初のライブ・パフォーマンスを披露し、熱狂的な反響を呼んだ。あらゆる音を自分たちで演奏し、歌う事で、モンキーズは自分たちの音楽的能力にますますの自信を持ち、スターとしての力を痛感するようになった。グループのコンサート・ツアーをすっぽかしたドン・カーシュナーは "More Of The Monkees" の原盤とジャケット・デザインの準備をしていた。彼は自分の12曲を選び、感謝のメッセージを書き、クリスマスに備えた。
 
モンキーズは1月のツアーの最中にそのアルバムを見つけた。「2枚目のレコードは本当に腹立たしかった。ドニー・カーシュナーはほとんど暴力的に僕たちを製作プロセスから外そうとしていたんだ」とトークは振り返った。「まるで僕たちに対して怒っているみたいだった。その裏では、他の優れたミュージシャンを雇った自分をドニー・カーシュナーが自ら称賛しているだけにすぎない。僕たちはステージで自分たちの音楽を演奏していたけど、当然のことながら腹を立てていた」。
 
「僕たちが聞いた事もないのに、それが世に出ていたという事実、そしてレコード・カバーのJCペニーズの服(最初からあれは嫌だった)、それから、あの自画自賛のやつ。僕たちはあのアルバムを聞くために買わなくちゃいけなかったんだ。誰かが通りの向こうのショッピングモールに行って、アルバムを買ってきた。僕たちはそりゃもう腹が立っていたんだ」。
 
レイバートが彼らのコンサートを記録する為にアリゾナ州フェニックスのメモリアル・コロシアムへ撮影クルーを送り込むまでに、モンキーズは12回ほどのライブをこなしていた。このコンサートは現存する最も古い彼らのライブ音源を誕生させる事になる。今回のボックス・セットにその一部を初公開している。残念なのは、番組プロデューサーたちはシネマ・ベリテ(訳注:インタビューによって対象者に真実を語らせるドキュメンタリーの手法)で製作する為にリード・ボーカルを多重録音しようとしていた事である。そのため、リモート・エンジニアたちはボーカルの大部分をマルチ・トラック録音から削除してしまった。だが、そもそも観客の歓声でほとんど聞こえていなかった。今回のボックス・セットの為に救助された最もよく聞こえるボーカルの数曲によって、ガレージ・バンドとしてのモンキーズの大ざっぱなレパートリー(ちょっとしたサプライズを含めて)がフル・ステレオで明らかにされている。
 
1967年はモンキーズの50年の歴史の中で最も成功した年と言えるだろう。"More Of The Monkees" は彼ら最大の売上を誇るアルバムとなり、ビルボード・チャートでは圧巻の70週を記録した。このアルバムは1967年だけでも18週も1位に留まり、1960年代で3番目に売れたアルバムになった(ビートルズのどのアルバムよりも上位である)。また1986年に返り咲いた時には26週間チャートに残り、"More Of The Monkees" の史上最も売れたアルバムの1つとしての地位は確固たるものとなった。
 
この先、ドン・カーシュナーは様々な事で非難される可能性があり、実際そうなるであろう。しかし、このアルバムの成功が繰り返される事はなかった。この絶頂期を楽しむ時間はほとんどなく、彼に待ち受けていたのはマイケル・ネスミスとの全面対決のみだった。抜き差しならない状態になった時、カーシュナーはモンキーズの創造者たちが彼の味方ではない事を悟った。彼らは彼がいなくても金儲けができたし、支配力もあった。"More Of The Monkees" が1位の座に君臨している数週間の間に、彼が作り上げたもの全てが打ち壊されるだろう。カーシュナーのおとぎ話は悲惨なものとなり、モンキーズは何としても本物のグループになろうとしていた。

 

続く