The Oklahoman (Mar. 3, 1985)

Nesmith: No Mokeeing Around

by Gene Triplett

 

彼がテレビでモンキーズの一員になるずっと前、マイケル・ネスミスはオクラホマ・シティ―のとあるライブハウスで運命の片割れを見つけた。

 

「空軍でエルク・シティーに駐留していたんだ」と、彼はロサンゼルスからの電話インタビューで思い出を振り返った。

 

電話は、NBCのシリーズ「マイケル・ネスミスのテレビジョン・パーツ」の放送開始(金曜8時半、KTVYチャンネル4)を宣伝するためのものだったが、「オクラホマン」紙の取材が彼の記憶を呼び覚ましたようだ。

 

「その基地はもうないと思う。クリントン・シャーマンというSAC(戦略航空軍団)の基地だった。カヌートという小さな町で、エルク・シティーが一番近い町らしい町だった、、、そんなに長くはいなかったけど。1年もいなかったと思う。だが、僕の人生の中でとにかく奇妙な時期だった」。

 

ダラスのような大都市生まれの19才の青年にとって、カヌートもエルク・シティーも文化的な豊かさ、あるいは華やかな夜の生活には物足りなかったので、週末に通うオクラホマ・シティは輝いて見えた。

 

「オクラホマ・シティについてちょっと面白い話をするよ、どの位面白いか分からないけど、とりあえず話すね」、とネスミス。「僕は空軍基地からオクラホマ・シティのフォーク・クラブへ行って、そのクラブはもうずい分前になくなってしまったけど、そこでホイト・アクストン(訳注:米国の俳優、シンガーソングライター。カントリー、フォーク、ポップスと他分野をこなした)の演奏を見たんだ」。

 

「それで、彼がギターを弾くのを見た夜、その夜に決心した。僕はギターを始めて、それを職業にしようって」。

 

その時まで、このテキサス生まれ、ダラス育ちの若者が心に抱いていたたった一つの創造的な憧れは俳優だった。しかし、それだけでは不十分だったようで、当時無名のがっしりしたオクラホマ出身のシンガーソングライター、アクストンがネスミスの未来の残り半分、つまり音楽を見い出す手助けをしたのだ。

 

「それはある意味、一体的なものだった」と彼は言う。「僕はずっと演劇をやっていて、演ずる事が僕の最初の技能だった。有り体に言うと、僕はクリントン・シャーマンでちょっとした演劇をやっていたんだ。でも、オクラホマ・シティでホイトを見た時、僕の血流に音楽が流れ込んできた。そして思った。なんてこった、僕は演技同様、これもできるじゃないかって」。

 

結果論になるが、マイケル・ネスミスは冗談を言っていた訳ではなかった。それから4年もしない1966年に、その才能の掛け合わせにより彼はモンキーズの一員の座を勝ち取った。

 

ネットワークのテレビの混乱した思考の中で、モンキーズはビートルズへのアメリカの返答であり、ゼロから作られたアメリカ版のファブ・フォーだった。

 

NBCは映画「ハード・デイズ・ナイト」や「ヘルプ!」で飛び交っていたような、おどけていて、どことなく反体制的な「ビート・グループ」のTVシリーズを作ろうとしていた。

 

ショービジネスの業界紙に募集広告が打たれると、何百人もの若い俳優やミュージシャンたちがオーデションにやって来た。しかし、スティーブン・スティルス(クロスビー、スティルス&ナッシュ)やダニー・ハットン(スリー・ドッグ・ナイト)やジョン・セバスチャン(ラヴィン・スプーンフル)のような音楽的な才能の持ち主たちは比較的に経験の浅い4人の候補者に敗れた。

 

ミッキー・ドレンツとデイビー・ジョーンズは元子役で、歌と踊りの経験はあった。ピーター・トークとマイク・ネスミスだけが、ほんのささやかな形ではあったが、ミュージシャンとして実質的な収入を得ていた。

 

全てがあらかじめ作られていたという性質にもかかわらず、「ザ・モンキーズ」は1966年から1968年の間にTVで爆発的な人気を得た。モンキーズが提供したのはボーカルだけで、曲を作って演奏したのは他のミュージシャンだと世間に知れ渡った後も、番組の音楽は世界的ヒット曲の数々に生まれ変わった。

 

モンキーズが自らのレコードで演奏する事を許されなかったという事実を公にして世間を騒がせたのはネスミスだった。最初の2枚のLP発売後、上層部が折れ、4人組は本当のバンドになった。ネスミスはその後いくつか作曲もしている。

 

目の回るような忙しさはほんの2年程で、彼らが長編映画「ヘッド」を公開する頃にはTVシリーズは打ち切りとなり、ピーター・トークがいとまを告げていた。トリオとなったモンキーズは批評家から絶賛された最後のアルバム "Instant Replay" を製作し、1969年に解散した。

 

毛糸の帽子を被り、間延びした口調で、思索的に長々と話すモンキーズのリーダー、ネスミスはソロ・アーチストとして多少なりとも成功した唯一のメンバーだった。

 

リンダ・ロンシュタッドの初ヒット "Different Drum" を作曲し、ファースト・ナショナル・バンドやセカンド・ナショナル・バンド、そして自身の活動により70年代の良質で非常に個性的な「カントリー・ロック」を生み出した。彼のモンキーズ以降の商業的な成功は美しく物憂げなバラード "Joanne" だけであった。

 
しかし、ネスミスの心の演劇的な側面は未だ健在だった。この難解なテキサス人はビデオに手を出し始めた最初のロック・ミュージシャンの一人なのだ。1976年、MTVがワーナー・コミュニケーションの目に留まるより前に、ネスミスは風変りで白昼夢のような曲 "Rio" のビデオを製作した。
 

更に意欲的な作品、「マイケル・ネスミスのエレファント・パーツ」では音楽とコメディーを融合させ、グラミー賞で初のミュージック・ビデオ賞に輝いた。

 

彼はまた、「タイム・ライダー」と「レポマン」という一風変わったコメディー・スリラー映画を2本製作している。

 

モンキーズの最後の歌から20年近く経った今、ネスミスが全国ネットに帰ってくる。振り返ってみて、彼には過去のモンキーズの栄光も含めて、何の後悔もない。

 

ピーター・トークとデイビー・ジョーンズの現状は全く知らないそうだ。たまにミッキー・ドレンツと連絡を取る位だと言う。

 

しかし、テキサス流の口調でこう付け加えて。それは今でも明らかで、「本当に愛しい思い出なんだ。あれはいい経験だった。まあ、時代もあって奇妙な経験だったけどね。それから残念な事に、(モンキーズの)番組がどれほど良いかあまり知られていなかった。ロック・グループの神話のようなものがまん延していたせいだ」。

 

「批判に耐えるのは楽しいものじゃない、言ってみれば、、、」

 

「僕たちはロック・グループじゃなかった、TV番組だったんだ。僕たちは番組に出ている俳優で、その番組がロック・グループについての番組だった。もちろん、そういう時代だったからだ。ビートルズとストーンズとベトナム戦争、60年代の全てがそうだった」。

 

「だけど、番組はいくつかエミー賞をとった。つまり、番組を作っていた人たちが優れた業績を上げるようになったんだ」。

 

その中の一人、共同プロデューサーのボブ・レイフェルソンは後に「ファイブ・イージー・ピーセス」や「キング・オブ・マーヴィン・ガーデン 儚き夢の果て」のような映画を監督した。また、当時は無名の俳優兼脚本家兼プロデューサーで後にこれらの映画で主演を務めるジャック・ニコルソンもいた。

 

ニコルソンとレイフェルソンはモンキーズの映画「ヘッド」で共同脚本・共同製作をしており、これがきっかけでニコルソンは映画「イージー・ライダー」で初めて大きな役を掴んだ。この反体制的な古典映画のプロデューサーはバート・シュナイダーでモンキーズのTVシリーズの共同プロデューサーである。

 

ネスミスは、ニコルソンにジェリー・リー・ルイスの音楽の「洗礼」を与えた時の事を可笑しそうに語った。
 
「ジャックが映画で活躍する前なんだけど、彼はまだ僕たちの『ヘッド』を手伝っていて、『イージー・ライダー』をやっている時だった。僕が『ジャック、パロミノに行くから一緒に行こうぜ。ジェリー・リーを見よう』と誘って。パロミノはロサンゼルスにあるナイトクラブだよ。あれは本当に見物だったよ」と、ネスミスは笑いを押さえながら言った。
 
「ジャックがああいうのを見たのはあれが初めてだったんじゃないかな」。

 

伝説的なジェリー・リーはネスミスの長年の憧れのスターで、「テレビジョン・パーツ」にもゲスト出演する予定である。

 

「彼に電話して、『ジェリー・リー、死んじゃう前にこれをやりに来てくれないか?急いで!』と言った。それで彼が『うん、分かった。君だけのためにやるよ』と言ってくれた」。ネスミスによると、NBCエンターテインメントの社長、ブランドン・タルティコフがソルト・レイク・シティー映画祭で「エレファント・パーツ」を見た事がきっかけで新しいTVプロジェクトが決まったという。タルティコフはこのアイデアをプライムタイムでレギュラー放送するようネスミスに働きかけるほど感銘を受けたのだ。

 

「『エレファント・パーツ』みたいな番組になる。導入のためのホストとして僕の出番は増えるけどね。コメディー部分と音楽部分を一緒につないだら、1980年代バージョンのコメディー・バラエティーになるんじゃないかな」。

 

ネスミスがこの20年間で元モンキーズ以上の地位を築いたのは明らかだ。今、「テレビジョン・パーツ」によって、ようやく彼にはそれだけの価値がある事を広く認められるようになるかもしれない。
 
レコード製作に関しては、1979年の "Infinite Rider on the Big Dogma" 以降はアルバムを作っておらず、70年代に彼が望んでいたような幅広い聴衆に彼のレコードが届く事はないかもしれないと語る。

 

「そっちは辞めたんだ。今やっているのはビデオだ。ビデオカセットを作って、音楽を出している。今でも音楽は作っているけど、レコード業界の外でやっているんだ」。

 

しかし、遠い過去に週末の外出で行ったオクラホマ・シティの忘れられたフォーク・クラブでホイト・アクストンに点けられた音楽への情熱は燻り続けているようだ。マイケル・ネスミスは新しいレコードを作るだろうか?

 
「誰かがやって来て、『なぁ頼むよ、ネズ。レコードを出してくれ』と言うなら、あるいはね。でも、僕はビデオでやっている新しい事が楽しくて仕方ないんだ。家にビデオ・レコーダーがあるなら、僕の事を見られるよ」。

 

なぁ頼むよ、ネズ、、、。