The Oklahoman (Nov. 7, 1983)
Peter Tork, One of The Monkees, To Play The Bowery With New Group
by Gene Triplett
「ヘイ、ヘイ、僕らはモンキーズ。僕らはふざけてるって言うけれど、歌うのが忙しくって他人を落ち込ませてる暇はない」
1966年 ザ・モンキーズ
ピーター・トークの問題の原因は、束の間のスターダムの恩恵を最大限に受けるために自分自身を過小評価しすぎる事だった。
1965年、彼はモンキーズというロックン・ロール史上最も成功したイカサマの一員になった。NBC TVがビートルズの国内版を作ろうとしたのだ。
それから2年間、このアメリカの4人組は大ブームになった。映画「ハード・デイズ・ナイト」のような愉快なコメディーを真似た、彼らの30分の番組はヒットした。彼らは10枚のゴールド・アルバムを成し遂げ、思春期のロック・ファンの憧れだった。
しかし、それは始まった勢いと同じ位あっという間にしぼんだ。ピーター・トークが最初に脱退し、残った3人もその後まもなく解散した。4人の内、ギタリストのマイケル・ネスミスだけがソロ・アーチスト兼映像制作者として今も活躍している。
ピーターは、断続的ではあるが、それ以来カムバックへの道をなんとか走り続けている。そして、彼の旅路は火曜の夜、ウォーカー通りとノースウエスト10番通りにあるバウリー(訳注:オクラホマのライブハウス)へと向かう。共に出演する新しいグループは彼にとって新たな成功への切符となるかもしれない。
現在39才になる、ブロンドのマッシュルーム・カットの元モンキーズのベーシストはピーター・トーク・プロジェクトが演奏するのはアルバム重視のロック・ラジオから「ヘビーな位、外れているような」音楽だと言う。
1月に結成された、そのバンド(ギター:スコット・アヴィタビーレ、ベース:ジェリー・レニーノ、ドラム:デレク・ロード)はトークがモンキーズ脱退後に活動した幾つかのアンサンブルの1つである。
トークはそういった反骨精神に強く共感すると言う。
「僕は小さい頃、 ずっと上手くいかずに過ごしていた 。身体的な成長が遅くて、運動神経も良くなかったし、いつも損な役割だと思っていた。僕はマッカーシー時代(訳注:反共産主義の時代)にリベラル(訳注:共産主義と同様に排除の対象とされた自由主義)な家庭で育ったんだ」。
そういった普通ではない状況を背景として、トークは否応なく劣等感を抱く事となり、大人になってミュージシャンとしての経歴にも持ち越されていく。「アメリカのビートルズ」となるべく集まった437人もの応募者の中から選ばれた4人の若者の一人となった時、彼の自信のなさは巨大に膨れ上がった。
本物の音楽的経歴を持っているのがネスミスとトークだけだった事、モンキーズが初期のレコードでは自分たちの楽器を演奏していない事が公になった時、事態は悪化していく。後期のレコードでは彼らが演奏していたが、エゴと個性のぶつかり合いがグループを内側から引き裂いていった。
トークは自分のやり方で物事を進めたかったが、口に出して努力しようとしていなかったと今になって思い返している。その後、自身のキャリアを取り戻そうとするも失敗続きで、70年代半ばには妻と共に教職に就き、私立高校で様々な科目を教えた。だが、それも短命に終わる。
「教えるのが楽しくなかった訳じゃない、でもお金にならなくてね。社会的優先事項に関する痛ましい意見だけど、そういうものなんだ」。
何年も前にほんの一瞬スーパースターの気分を共に味わった昔のバンド仲間については、連絡は取っているとトークは語る。
それぞれとの関係を比べた結果、トークは小柄な英国生まれのデイビー・ジョーンズが好きだと言う、「彼には他の人には見えないものが見えているからね。時として彼は物事の深淵まで到達する事ができるんだ」。
子供の頃にTVドラマ「サーカス少年」で有名になった、ドラマ―のミッキー・ドレンツはモンキーズのメンバー中「誰よりも楽しくて面白かった」。4人に中で一番創造的だとされたネスミスは「自分の仕事を遂行し、仕事に対する論理感を持っていたという点で最も尊敬できる人物」だったと語る。