The Monkees Super Deluxe Edition liner notes (2014)
by Andrew Sandoval
We're The Young Generation
1964年の2月7日、ビートルズがパンナムの101便でニューヨークに降り立った時、彼らは後に「ブリティッシュ・インヴェイジョン」と呼ばれる現象の火蓋を切っただけではなく、彼らこそが1960年代のロック革命をスタートさせたのだ。ジョン、ポール、ジョージ、リンゴの驚くべき成功にあやかろうと、彼らの後を追うように素晴らしい4人組が次々と現れた。だが、驚くほどの反響で成功した有望な4人組はただ一組、我らがヒーロー、モンキーズのデイビー、ミッキー、マイク、ピーターだけだろう。
当時の他のグループと違い、モンキーズはビートルズにあやかるのみならず、彼らの売上を超えた。しかし、1964年において、この架空の集合体のメンバーとなる4人はお互いを知らず、さらに言えば、機能するロック・バンドになるとはどういうものかも知らなかった。実は、彼らには音楽的な共通点がほとんどなかったのだ。それがどういうわけか、彼らはその後2年以内に知り合い、更には一夜にしてチャートを駆け上がり、様々なメディアで大騒ぎを起こすことになる。
18才のデビッド・ジョーンズはおかっぱ頭の大渦の真っ只中にいた。ビートルズが国中に旋風を巻き起こした、あの「エド・サリバン・ショー」の同じ回に出演していたのだ。しかし、この小柄なマンチェスター人が「オリバー!」のブロードウェイ・キャストたちと元気に歌っていたのは、最終的に彼を有名にしたビート・バラードではなく、ロンドン子の歌だった。「舞台の袖で、ビートルズを見ていたんだ」、この運命の夜から数十年後、ジョーンズはそう言った。「女の子たちが夢中になっているのを見て、自分に言ったんだ。『これだ、僕もあれが欲しい』ってね」。
そこから3000マイル彼方のカリフォルニアでは、ミッキー・ドレンツがサンフェルナンド・バレーのドライブインで、ポータブルTVではあるが、その同じビートルズの演奏を見ていた。ニューヨーク・シティのスタジオ50でなんとか我慢して座っている女の子たちに向けて訛った英語で「何でもする」と陽気に懇願している未来のバンド仲間にはほとんど気づかなかっただろうと思われる。しかしながら、多才なドレンツはショービジネスと無縁ではなかった。ビートルズがアメリカになだれ込んできた時、彼は名声に関しては経験済みであった。50年代半ば、ブラドックの芸名でテレビの「サーカス・ボーイ」に出演し、今はケルトーン・レコードという小さな地方レーベルに所属するスパルタンズという音楽グループのメンバーだった。彼の父親、俳優でレストラン・オーナーだったジョージ・ドレンツはそのわずか1年と1日前に他界していた。彼の只一人の息子への忠告は「火に入れる鉄は少しにしておけ(一度に沢山の事に手を付けるな)」だった。それで、ミッキーは歌と演技をやって、建築も学んだ。幸運な事に、彼の類まれなる歌唱力が最大の成功をもたらす事になる。
一人っ子のマイケル・ネスミスは独立心の強い母親ベット・クレア・マクマレーに育てられた。彼女は彼の父親ウォーレンが第2次世界大戦従軍中に独りで子供を養っていた(ウォーレンとベットは1964年に離婚し、彼女が単独親権をとった)。もうすぐモンキーズになる仲間たちと同様に、彼はミュージシャンになるのと同じ位、俳優になっていた可能性があった。「僕はずっと演劇をやっていて、演技が最初だったんだ」と、1985年にライターのジーン・トリプレットに語っている。「でも、オクラホマ・シティに着いた時(兵役で空軍にいた頃だけど)、ホイト・アクストン(訳注:米国のシンガーソングライター、ギタリスト、俳優)を見たんだ。その時、僕の血管に音楽が流れ込んできた。そして、これなら演技と同じように僕にもできるって思ったんだ」。
1956年、彼の母親はミステイク・アウト(後にリキッド・ペーパーとして知られる)という会社を設立したが、起業家としてはまだまだ奮闘中だった。マイケルは自分で何とかするしかなかった訳だが、彼は極めて意欲的だった。空軍を除隊後、ネスミスの音楽的紆余曲折はテキサスの地元レーベル、ハイネスから未熟ながらもシングルを出すという結果を出した(1963年発売)。両面ともにソングライターという彼の新たな才能を発揮している。彼の独創的な歌声を確立するにつれ、彼の作品は内省的なフォークから、ボー・ディドリー・ビート(訳注:ボー・ディドリーの強力なリズムを基調としたブルースのサウンド)や陽気なラテン風味のカントリー(時にはその全てが詰まった作品)へと変化していった。ここで重要な点は、彼が常に自身の作品を押していた事だろう、これはビートルズ以前にはかなり珍しい事だった。
サン・アントニオ大学に入学するまでに、彼は相当量の曲のレパートリーとそれを表現する独特な方法を蓄えていた。ワンダーランド・ショッピング・シティーという地元の商業施設で学友たちとフォーク・コンサートを開き、サン・アントニオ・ライト紙にもうすぐニューヨーク・シティーのワーナー・ブラザース・レコードでレコーディングすると自慢していた。とは言え、レコーディングはついぞ実現せず、大学が終わっても彼は町に残り、トラヴィス・パーク・メソジスト教会で地元の人々に「宗教的なフォーク・ミュージックのかなり普通ではない公演」(同紙評)を披露していた。1963年の終わりに、マイケルが真の友を見つけ、ベーシストで学友のジョン・ロンドン(旧姓キューン)とフォーク・デュオを結成した事で、ようやく彼の音楽が上手く行くようになる。フォーク・シンガーの恋人フィリスとの結婚、カリフォルニアへの移住、そして子供の誕生は絶え間なく進化するネスミスには、ほんの数カ月先の出来事であった。
ピーター・トーケルソンはコネチカットの小さな地区マンスフィールド・センターの自由で創造性にあふれた家庭に生まれた。父親は教育者で、両親とも趣味で演劇やクラシック音楽を楽しんでいた。4人兄弟妹の長男であり、たびたび地元劇団の公演に出演し、家でもピアノを弾いていた。両親の友人で有名なフォーク・シンガーのトム・グレイザーの訪問がピーターをより魅力的な道へといざなう事になる。グレイザーは目を丸くした子供に初めてのギター・コード(AマイナーとEメジャー)とフォーク・ソング "Joshua Fit The Battle Of Jericho" を教えた。その過程で、ピーターは生涯に渡る情熱:歌と演奏と人を楽しませる事を見つける。
落ちこぼれの大学生になって数年後、祖母キャサリンの訪問がきっかけとなって、彼の音楽的なキャリアが本格的に始まる。キャサリンがピーターの実家で足首を骨折し、ピーター(すぐに本名を縮めた芸名トークを名乗るようになる)に彼女のニューヨーク・シティーのアパートの鍵を預けたのだ。彼はニューヨーク・シティーの芸能エージェント会社に仕事を見つけ、そこでケイシー・アンダーソンと知り合う。彼はレコードも出しているアーチストで、トークをグリニッジ・ビレッジのコーヒー・ショップに誘った。彼曰く、そこでは「一晩中歌っていられた」そうだ。それが、歌に関するあらゆる事に心奪われて過ごす、そんな沢山の夜の始まりだった。それから2年間、ピーターはビレッジには欠かせない存在になっていた。チップを集めるためにかの有名なカゴを(時には彼のオードのバンジョーをひっくり返して)回して、まさしくその日の夕食のために歌っていた。
その一方、ビートルズの文化的な影響力は衰えることなく続き、1964年3月に初の長編映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」の製作に取り掛かった。この生き生きとして美の本質を捉えた創作物はボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーという二人の野心的なフィルムメーカーの勢いに重要な影響を与えた。1964年5月、レイフェルソンはコロムビア・ピクチャーズのTV部門、スクリーン・ジェムズに雇われ、小さなTV画面用の新しい番組を作る事になった。"Possessed" のような世紀末の歴史ドラマのパイロット版は結果を出せなかったが、ボブと会社の財務を担当していたバート・シュナイダーを引き合わせた。
バートとボブは同じ会社で働く同い年というだけでなく(数ヶ月違いの1933年生まれ)、同じ大望(TVを抜け出して、社会に影響を与えるような長編映画を作る願望)を抱いていた。レイフェルソンは二人の関係性について、こう語る。「僕たちは自分たちのやり方でやれる会社を作ろうと決めた。これまで上手く行かなかったのはバートのような人物がいなかった事が原因だと分かったんだ」。コロムビア・ピクチャーズとスクリーン・ジェムズ両社の社長、エイブ・シュナイダーの息子であるバートは作業を円滑にするコネを持っているだけでなく、大胆かつ思慮深い信念を持ち、その努力は信頼に足るものであった。「驚くべき男だった、才能にあふれて、建設的で、とても高潔な人間だった。僕たちは今までのやり方よりもっとグルーヴィーなやり方があると分かっていた。僕たちはただお互いを信じていた」とレイフェルソンは語る。
その数年前、レイフェルソンは国境の南のミュージシャンとして活動していた。その事がそもそものきっかけとなり、シュナイダーとの製作につながる。「1962年にそのアイデアを思いついたんだ、リチャード・レスターの「ア・ハード・デイズ・ナイト」より前だよ」と、レイフェルソンは彼が最初にモンキーズを思いついた時の事を語る。「僕は1953年に何かとメチャクチャで手に負えないミュージシャンたちとメキシコを旅していたんだ。ビートルズがやって来て、音楽の人気だけでなく、彼らがやったようなやり方で映画を利用する事に需要があると証明されるまで、このアイデアが採用されなくて苦労したよ」。
シュナイダーの人脈により、彼らは更なる足掛かりを得た、コロムビア・ピクチャーズの撮影所内に事務所を構えたのだ。1965年4月までに、彼らの会社はレイバート・プロダクションと呼ばれるようになり、彼らの「グルーヴィー」なTV番組を作る為に25万ドル近い高額な予算が充てられていた。しかしながら、6月に発表されたレイバート・プロダクション最初の作品は「ザ・モンキーズ」ではなく、サスペンス小説「深夜プラス1」の映画化であった。だが運命の巡り合わせなのか、このプロジェクトと小説家で詩人のウィリアム・ウッドの作品のオプション契約は、ボブの音楽的発想が自然に固まってくると後回しにされる事になる。
9月初旬、レイバートはパイロット版用に残りのバンド・メンバーを捕まえようと、「デイリー・バラエティー」紙と「ハリウッド・レポーター」誌に広告を出した。その結果は、この暫定的な集団の台本通りのおふざけと同じ位予測不可能なものであった。マイケル・ネスミスはおよそ1年前ににハリウッドに乗り込んで以来、その役割をもてあそんでいた。この時期、「ビルボード」誌はコルピックス・レコードがバリー・マクガイアの1965年8月発売の "Eve Of Destruction" を使って、当時流行していたプロテスト・ミュージック(訳注:社会や体制への抗議を込めた音楽)の分野に参戦するつもりで、(アーチストではなく)その曲と契約を結んだと報じていた。それは、このレーベルが流行に疎く、ヒットチャートで競う力を失っている事の証明でしかなかった。マネージャーのボブ・クラスナウ(訳注:ブルー・サム・レコードを設立。ロックの殿堂の共同創設者)から南北戦争を歌った "The Willing Conscript" と言う曲の版権を押さえた後、一人のシンガーを採用した。「ビルボード」誌にはこのボーカリストの名前はローレン・セント・デビッドと掲載されていたが、コルピックスがこのレコードを売り出す頃にはプロテストの流行は終わっていた。この曲は新しく "The New Recruit" と改名され、歌い手も新しい芸名、マイケル・ブレッシングを名乗ることにした。
ブレッシングはもちろん(ローレン・セント・デビッドと同様に)ネスミスで、どんな役割でもいいからショービジネスに割り込もうとしていた。駆け出したばかりのフォーク・ロック・バンド、マイク、ジョン&ビルは最近解散してしまい、今は自分の家族を養うために大人数のフォーク・アンサンブル、サヴァイヴァーズで活動していた(興行主はランディー・スパークス)。サヴァイヴァーズ在籍中に、レイフェルソンとシュナイダーが出した「新しいTVシリーズに出演するフォーク&ロール・ミュージシャンを募集」という広告を見せられた彼は、それに挑戦する事にした。その役がどうしてもやりたかった訳ではない。「事務所でアンケートに記入していた時、マイクのを見たんだ」と彼の音楽パートナーであり、サヴァイヴァーのメンバーであるジョン・ロンドンが振り返る。「そうしたら彼は自分の経験を書き込む所に『人生』と書き込んで、残りの部分に斜線を引いてしまったんだ。僕は『本気かよ』って言ったんだけど、プロデューサーたちはそれを見て、『こういうヤツが欲しかった』って言ったんだ」。
2月、モンキーズは下準備と最初の試みで触れられただけの集合体の化学反応を再度確認して吸収するために再び集められた。すると突然、この自由気ままなプロジェクトは本格的なものになり、番組の音楽が主戦場となった。ネスミスはレイバートの最初の希望についてこう語っている、「何かやってもらえないかって聞かれたんだ。僕は『できる事はあるけど、ロックン・ロール・バンドをやるとして、デビッドとミッキーとピーターとロックン・ロール・バンドをやれるかは分からない。彼らは一緒に仕事をするにはいいヤツらだけど、僕たちは皆、音楽的嗜好も感性も全然違うから。僕はそれほど多作じゃないし、多才でもないんだ』と答えた。そうしたら、(彼らが)『まあ、トミーとボビーと君ならできるんじゃないかな』てね」。
「僕の知る限りでは、ドン・カーシュナーは個人的な好機を見い出したようだった。しかもデカいヤツをね」とネスミスは受け止めている。「彼はスクリーン・ジェムズの音楽出版会社の社長で、そこは実際のモンキーズのプロダクションだった。だから、彼は自分が囲っている最高のソングライターたちを集めて取り掛かろうとしたんだ」。だが、番組のスポンサーが決まっても、カーシュナーが信頼するライターたちは彼の夢に共感せず、彼が個人的な目標を目指している事に見向きもしなかった。2006年にカーシュナーはモンキーズのために最高のプロデューサーを探していた時の事を振り返って、「ロンドンのミッチー・モスト(訳注:英国の音楽プロデューサー、アニマルズやハーマンズ・ハーミッツを手がけた)に電話したと思う。他にもフィル・スペクターとも話をしたと思う」。モストもスペクターも自身をそのプロジェクトに捧げるつもりがなかったので、次に彼はどんな相手とも仕事をこなせて、多様性があって辛辣なヒットメーカー、スナッフ・ギャレットに目を付けた。あるいはカーシュナーはそう思っていた。「彼の人柄とユーモアのセンスがあれば、モンキーズと面白い事ができると思ったんだ」。
〆切が迫る中、カーシュナーはネスミスに何曲か録音を許可した(ドニーが最初に選んだライター、ロジャー・アトキンスとネスミスが書いた "The Kind Of Girl I Could Love" もその一つだった)。ネスミスに対する(そして実際にはレイバートに対しても)この譲歩は、カーシュナーにとって「私が受け入れられる和解の条件」だった。キャロル・キングがモンキーズをプロデュースしたセッションは実を結ばず、涙で終わったと伝えられている(主にキャロルの涙で)。それにも関わらず、彼女とネスミスは共通点を見い出し、名曲 "Sweet Young Thing" を共に作った。選択肢は少なくなり、夢も消えつつある中、ドニーはボイス&ハートに折れて、パイロット版を成功させた曲の録音をさせる事にした。もう7月となり、アルバムとシングルとTV放送最初の数話分のサウンドトラック用の曲を完成させるまで残り4週間しかなかった。
トミー・ボイスとボビー・ハート(そしてカーシュナーが最初に指名した共同プロデューサーのジャック・ケラー)の功績はモンキーズのファースト・アルバムの曲と作品が非常に新鮮で生命力にあふれ、生々しいものになった事だろう。ボイス&ハートのバンド・メンバーのジェリー・マギーとルイ・シェルトンの焼けるようなギターがスタジオ・ミュージシャンのウェイン・アーウィンと完璧に混ざり合い、ビリー・ルイスのドラムはキンクスやデイブ・クラーク・ファイブのレコードのようなブリティッシュ風味の最高のビートでパンチを効かせている。このチームはわずか20日間で最高のアルバム1枚分の曲を駆け抜けた。
そして、そこからそう遠くない別のスタジオでは、マイケル・ネスミスが自分自身の音楽を作っていた。ボイス&ハートが全ての曲に自分たちのバック・コーラスを好んで使っていた一方、彼の作品が決定的に違うのは全ての曲にモンキーズのピーター・トークをリズム・ギターで入れた事である。ネスミスはモンキーズに4声のハーモニーで歌わせた。彼は彼らの演奏をずっと、あるいは最終ミックスとして使ったわけではないが、長期的に取り組んでいた。彼はこの見知らぬ者同士のバンドをまとめ、プロジェクトを引き受ける準備をしていた。
「彼らは放送が始まる前に、その音楽が当時の人々の耳に届いている事に気付いたんだ」と、レイバートの番組の音楽に対する姿勢の変化についてネスミスが語る。「彼らは突然、『予想していた以上のものが手に入った』と気付いた。それで、番組が始まるとこの音楽的な原動力が知られるようになった。そして彼らは理解した、僕たちはもっと音楽に注意を払わないといけないんだって。『これは重要な事で、ここでの全体的な原動力の重要な要素だ。僕たちにはそれが関係している事は分かっていたが、これほど重要だとは分かっていなかった』と彼らは思ったんだ」。いまや、モンキーズというブランドの欠かせない一部となったネスミスに音楽的な脅しをかける者は誰もいないだろう。その一方で、カーシュナーはレイバートと合わないようだった。なので、バートとボブはマイケルにカーシュナーの新しい指示を完全に無視させた。
「彼は私がした事を決して評価しなかった」と、カーシュナーは2006年に語っている。その姿はまるで子供に嫌われた親のようだった。「彼が気に入るようあらゆる事をやったが、どれも上手く行かなかった」。ネスミスもカーシュナーも当時は分かっていなかったが、レイバートはまさに彼らが望んでいたものを手に入れていた。黄金を生み出す創造的で先鋭的な雰囲気である。ポピュラー音楽界で最も成功した人物の一人が田舎から出て来たばかりの新人ミュージシャンとバトルを繰り広げたのだ。そこにミッキー・ドレンツの驚くほど素晴らしい歌声と、デイビー・ジョーンズの英国的な甘い魅力と、ピーター・トークの愛嬌たっぷりな無邪気さが投入され、非常にユニークなものが出来上がった。これは売上目当てのレコードやサウンドトラックではなく、古きものと新しきものの対立、反体制文化の決闘だった。レコード盤上のロックン・ロール黎明期である。
だが、ネスミスは最終的な商品に愕然とした。「出来上がってきたファースト・アルバムを見て、ギョッとしたよ。まるで僕たちがロックン・ロールのバンドであるかのように出来てたからね。他のミュージシャンの名前が全然入ってないんだ。僕は完全に腹が立って、『一体、何を考えてるんだ!』って言ったら、『まあまあ、作り事だって分かってるだろ』と言うから、『作り事じゃない、もう一線を越えてるんだ。これはもう世間をだましてる。TVシリーズを見れば、僕たちはロックン・ロールのバンドじゃなくて、これはロックン・ロールのバンドを描いた番組なんだって分かる。脚本は基本的にばかげている。脚本家が書いてるものには古典的な要素が入っているかもしれないが、結局のところ軽妙で奇抜だし、それに僕たちが曲がりなりにも成功して自分たちの番組を持てるようなロックン・ロールのバンドだなんて誰もこれっぽっちも思ってない。こんな常識はずれのレコードを出すなんてどうかしてる』と言ったんだ」。