from The Monkees Deluxe Limited Edition Box Set (VHS) 1995

An Interview With Director James Frawley

by Andrew Sandoval

 

ジム・フローリーはモンキーズの画期的なTVシリーズの誕生において特別な役割を果たしています。番組の半分近くを担当した彼の演出が2年放送されたモンキーズのテンポを作ったのは明らかであり、時代を超えたイメージの誕生に一役買っていました。驚くべき事ではありませんが、フローリーはシリーズの撮影前に集中的に担当したワークショップを通して、グループの演技とコメディーの素質を磨く責任も担っていました。1996年6月、フローリーは多忙なスケジュールの合間を縫って、この番組で作業した経験について語ってくれました。

 
Q:モンキーズとは、どのタイミングでどのように関わる事になったんですか?

 

JF:僕はロサンゼルスではザ・プレミスという俳優のグループで即興をやっていたんだ。メンバーはバック・ヘンリ―(訳注:米国の俳優、脚本家、監督。TV「それ行けスマート」や映画「卒業」の脚本等)、ジョージ・シーガル、テッド・フリッカー、ジョーン・ダーリング、トム・アルドリッジと僕だった。僕たちは短期の契約でこっちに来ていて(訳注:元々オフ・ブロードウェイで活動していた)、ボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーがたまたま僕たちの舞台を見に来て、二人ともそりゃもう気に入ってくれたんだ。僕はすごく面白い俳優だったからね(笑)。昔はね!それから僕は16㎜の白黒のショート・フィルムを2本撮ってたんだけど、一つはニューヨークでもう一つはここロサンゼルスで撮って、ずいぶん注目が集まって賞もいくつかもらったんだ。だから、僕が前衛的な映画製作者でコメディー俳優で教師であるという組み合わせはモンキーズと仕事をするのに適していたんじゃないかな。というのも、彼らは映像的な冒険をやりたがっていたし、実際のシリーズの撮影に先立ってモンキーズと作業できる人物を探していたんだ。キャラクターの声を見つけるために演劇のレッスンや即興をやったり、即興がやりやすくなるよう、彼らがお互いに影響し合えるように導く誰かを探していた。

 

Q:バートとボブに初めて会った時、モンキーズのコンセプトについてどういう説明を受けたんですか?

 

JF:それが何かはすぐに理解できたんじゃないかと思う。音楽があって、4人の若者が共同生活をしていて、映像トリックが沢山あって、それから楽しい。分からないけど、なんとなくそんな感じだと。ただそういうものなんだと理解した。

 

Q:特段にワクワクするようなものだったんでしょうか?舞台から離れたいと思っていたんですか?

 

JF:僕は、監督したかったんだ。みんな監督になりたがっていた。それができるチャンスだった。僕はフィルムを撮ったけど、未だに写真家で俳優で、演技の教師で、でもこれは撮影スタジオの正規のスタッフと一緒に働けるチャンスだった。創造性豊かな2人のプロデューサーと楽しくて才能あふれる脚本家たちと仕事ができて、素晴らしい時を過ごせるチャンスだった。素晴らしい時間だった、誰もがすごく楽しんでいた。

 

Q:1966年3月にマイク、デイビー、ミッキー、ピーターに即興演技を教え始めた時はどんな感じでしたか?

 

JF:教えるというよりも一緒に即興をやるという感じだったね。みんなの緊張をほぐして、様々なキャラクターをやる事でどんな事ができるのかが分かるし、お互いに笑いのツボがつかめる。いい感じで気楽なコミュニケーションをとっただけだよ。

 

Q:モンキーズそれぞれの第一印象はどうでしたか?

 
JF:彼らは皆、人の心を惹きつける魅力的でとても熱心な若者だった。彼らの個性は見た通りそのままだから、すごく考えられたキャスティングだったね。マイケルは直感的にリーダーという感じだった、振舞いやユーモアのセンスがすごくドライで。それにすごく賢くて、頭の回転が早い。ミッキーはコメディアンで、ドタバタ劇が多かった。それからピーター、彼は物静かで繊細な男だった、今もね。デイビーは可愛い男の子で、女性ウケが良かった。だから、彼ら全員を合わせれば、それらの資質を全て備えた一人の人間みたいなものだった。完璧な人間を4等分したのが彼らだったのさ。
 
Q:彼ら4人の間の化学反応をすぐに感じましたか?それとも育っていくものを感じましたか?
 
JF:どんな関係でもそうだと思うが、それは育っていくものだ。最初からなかなか良かったよ。つまり、彼らは見た目だけではなく、互いの調子や振舞いも含めて非常に上手くキャスティングされていた。だから、僕が彼らとやった事は彼らが自由に振る舞えるように促す事だった。大胆になれるように、強く結びつけるように、そして自分たちは間違った事をしていないと信じられるように働きかけた。それはまさに、ボブとバートが若い初監督の僕に言っていた事だった、ここでは何をしたっていい。あえて間違えろ、とね。
 
Q:あなたがやった、第四の壁(訳注:演者と観客を隔てる見えない壁)を破るとかですね。
 
JF:あれは全エピソード中でもお気に入りのシーンになったよ。ミッキーがモンキー・ハウスのセットから出て、スタッフの間を抜けて、スタジオを横切り、「脚本家」の札が下がった部屋に行くんだ。ドアを開けると、4、5人の古風な東洋人がアンダーウッド社のタイプライターの前に座っていて。ミッキーが脚本について文句を言うと、彼らはチンプンカンプンな言葉で答える。彼らが書いた新しい脚本を集めて、ミッキーがセットに戻ると、そのまま撮影を続行したのさ!あれはすごく洗練されたコメディーだった。当時のTVで見られていたものとは違う種類のものだった。
 
Q:脚本家チームにシリーズ全体でどういう話にするかの、何か具体的な取り決めがあったのかはご存知ですか?(言い換えると、デイビーが恋に落ちるのを多めにするとか、ピーターがもめ事に巻き込まれるのは少なめとか)
 
JF:そういうのはなかったと思う。洗練された脚本家たちだったから、これがアリかナシかの判断は良かった。バートとボブが厳選して集めたからね。ラジオ・コメディー出身だったり、舞台出身だったり、明らかにTV局のお抱えじゃなかった。彼らの作品の独創性がそれを物語っている。
 
Q:モンキーズのTVが影響を受けた当時の番組や映画はありますか?
 
JF:僕は他のテレビに影響を受けたとは全然思っていない。むしろ、マルクス・ブラザーズやハロルド・ロイド、サイレント映画やアメリカン・ヴォードビル(訳注:手品、漫談、歌、踊り等を行う舞台)に影響を受けたと思う。僕たちがやった事とビートルズがやった事を比較されるけど、僕たちのアプローチはよりアメリカ的だったと思う。より幅広く、アメリカ的な勢いに影響を受けているんだ。
 
Q:映画「ハード・デイズ・ナイト」が公開された時は見に行きましたか?
 
JF:もちろん、すごく気に入った。今でも十分通用するしね。
 
Q:番組の撮影に関してなんですが、通常は始まりから終わりまでどういうスケジュールだったんでしょうか?
 
JF:信じられないかもしれないけど、3日だった。僕たちはハリウッドで一番早いチームだったんだ。僕は時には一日で40回、50回、60回とカメラ位置の設定をしていた、これってすごい量の撮影回数なんだ。大体のTV番組は一日15回とか20回だからね。だけど編集の性質上、そういうリズムを作る事が僕にはすごく重要だったんだ。
 
Q:番組のおふざけシーンを撮影する時は、モンキーズが状況に応じて演技ができるようにシーンに合わせて音楽を流していたんですか?
 
JF:そういう時もあったが、いつもじゃない。僕にとっては必要な物ではなかった。言い換えると、僕はメンバーたちを海辺へ連れて行って、おかしな事をいっぱい即興でやらせて撮影していた。だから、おもしろ映像のストックを持っていたんだ。いくつかは番組のオープニング映像に使われている。あの頃の僕の想像力は抜群でね、マルクス・ブラザーズとかコメディーの全てを何とか引き出せそうな感じだった。僕が今まで見てきたチャーリー・チャップリンとかの無声の喜劇をね。それと、時々おふざけの中にストーリーが関係してくる事があって、その場合はそのエピソードの登場人物をからませなくちゃいけなかった。
 
Q:シリーズでいくつかお気に入りのエピソードはありますか?
 
JF:僕たちがやったモンスターのエピソードは好きだね。それとギャングのエピソードも。「プリンセス誕生」は特に気に入ってる、これでエミー賞をもらったんだ。ある意味、僕にとっては全てが混ざり合っていて、とにかく沢山やってるからね。それにすごく急いでやったし、すごい勢いだった。今でもそれぞれに対して、愛おしさと魅力を感じるものがある。「おとぎばなし」とかね。
 
Q:噂で聞いたんですが、以前のエピソードで予算を使いすぎて、「おとぎばなし」は最低限のセットで作ったそうですね。
 
JF:そう、あれは撮影が楽だったよ。TVではボトル・ショーと呼ばれていて、シリーズの中ではたまにボトル・ショーをやるんだ。撮影が簡単になるように、すごく抑えて作る。後で僕が「私立探偵マグナム」をやった時は、トム・セレックとキャロル・バーネットがずっと銀行の金庫に閉じ込められてるっていうボトル・ショーをやった。物理的な制限があるから、切り詰めて予算内で済ませるようにするんだ。他に好きなエピソードはドキュメンタリーで僕たちが実際のコンサートを撮影した回だね(「ザ・モンキーズの生活とコンサート実況 」)。
 
Q:アリゾナの?
 
JF:アリゾナとサンフランシスコだよ。同じ週末に彼らが2か所でコンサートをしたんで、両方撮影した。その二つを編集したんだ。カメラを4,5台持っていった。僕にとって本当に貴重な体験だった。こういう狭い世界、ロサンゼルスのスタジオで働いていると彼ら4人とすごく親しくなるんだ。1週間に何時間も一緒に過ごす訳だからね。もちろん彼らのレコードが売れてて、ファンがいる事も知ってる。だけど、彼らの人気の凄まじさを実感したのは、コンサートを撮影するためにカメラを担いで、2万5千人の歓声を上げる子供たちを目の当たりにした時だった。彼らの人柄と音楽のパワーを本当に感じる事ができた。僕が乗っているリムジンにモンキーズが乗っていると勘違いした子供たちが来た時の事は忘れられない。モンキーズはもういなかったんだけど、リムジンが揺れたんだ。本当に怖かったよ。
 
Q:その回の監督はボブ・レイフェルソンになっていました。監督していない回にも関わっていたんですか?
 
JF:あの時は特別だった、面白そうだったからね。僕たちもやりたい事があったんだ。
 
Q:似たような事ですが、「ザ・モンキーズ」に俳優として何度か出演もしていますよね。
 
JF:僕たちは家族だったから、ボブも僕の家族の一員だったのかも。ボブが監督した回に一度出ているよ。別に大した意味はなくて、何て言うか「ねえ、ちょっと来て、これやってくれないかな」位の、ゆるい感じでやっていたんだ。
 
Q:シリーズの後半では、マイク、デイビー、ミッキー、ピーターが台本を無視して自由にアドリブでしゃべっていたと言われています。後半のエピソードではどの位、台本に忠実だったんでしょうか?
 
JF:不思議な事に、この番組は即興的な雰囲気があるんだ。でも、僕たちは台本にかなり忠実だった。ただ番組の最後でメンバーたちが話しているミニ・コーナーは、台本がなかった。あのコーナーができたのは僕がやった初回の「プリンセス誕生」が発端だった。ディレクターズカット版が長すぎてね。放送時間に合わせる為にとにかく短くしなきゃいけなくて。その作業中に、すごく難しくて、僕が今までやった事なかったせいで、結果的に2分足りなくなってしまった。それで「あのさ、2分足すんじゃなくて、カメラを6台使って、メンバーたちにカメラの前で自由にしゃべらせたらどうかな」って言ったんだ。それをやったら、番組のコーナーになったってわけさ。
 
Q:セカンド・シーズンの撮影が1967年の年末に終わった時、次のシーズンがあると思っていましたか?
 
JF:実際のところ、僕の記憶では多数決で決めたようなものだった。当時は今と違って、1シーズンにやるエピソードがものすごく多かった。僕たちは燃え尽きてしまったんだと思う。それでサード・シーズンはやらない事に決めた。メンバーたちは信じられない位ハード・スケジュールだった。彼らはカメラの前で14時間も撮影するだけじゃなく、レコーディングや音楽、衣装、宣伝活動もあったからね。
 
Q:TVシリーズ後の彼らの作品、「ヘッド」と「33 1/3 レボリューションズ・パー・モンキー」を見た事はありますか
 
JF:「ヘッド」は見たよ、ボブがいい仕事をしていると思う。でも、TVスペシャルは見てない。
 
Q:あなたが思う、モンキーズの永続的な影響は何でしょうか?衰えない人気の理由はなんだと思いますか?
 
JF:あれ以降には見た事のない方法で、TV撮影に対する非常に自由で革新的な形式のアプローチを示したからだと思う。現在のTVで見られるものの中に形式としてとても革新的だと思うものもある、「NYPDブルー」(訳注:1993年~2005年に米国で放送された刑事ドラマ。手持ちカメラによる撮影で臨場感を演出するなど斬新な手法が注目された)のパイロット版とか。だけど、あの頃は解放感とパワーがあって、そこは注目に値すると思う。そのスタイルは、さっきも言ったけど、アメリカのTVとしては非常に斬新なものだった。その経験には今でも感謝している。僕にとってすごくワクワクして、自由で解放的な経験だった。そんな機会を与えてくれて、バート・シュナイダーとボブ・レイフェルソンには感謝している。その事をいつも心に留めている。
 
Q:またモンキーズと仕事をするチャンスがあったら、引き受けますか?
 
もちろん。