The Birds, The Bees & The Monkees Deluxe Edition liner notes (2009)

by Andrew Sandoval

 

マイクロフォンを持って幼子を追いかけるエンジニアたち、神話に登場する二人の武将への叙情歌、破裂音と跳躍進行のローファイの誕生、それに3曲のトップ40入りシングル、、、これは The Birds, The Bees & The Monkees の物語である。

 
1967年も終わりに近づいた頃、モンキーズは商業的および創造性においてもその魅力の頂点に達していた。彼らの最新シングル "Daydream Believer" は一番新しいアルバム The Birds, The Bees & The Monkees と並んで12月の間中ずっと1位をキープしていた(更にビルボードのポップLPチャートにはミリオンセラーとなった最初の3枚のアルバムもランクインしていた)。彼らはまた、初の長編映画のための脚本をジャック・ニコルソンと共同制作し、メンバーのミッキー・ドレンツとピーター・トークがそれぞれエピソードを監督して、NBCのグループの人気シリーズを締めくくった。

 

新しい年とその先にある全ての可能性を見つめながら、モンキーズはそのはかない起源を超越するかのように思えた。しかし、この時から彼らのグループとしての旅路はほころび始めていたのだ。相次いで、彼らのシリーズは打ち切りとなり、映画はクレジットをめぐる内輪もめで延期され、ツアーは予定と延期をくり返し、レコード・プロデューサーのチップ・ダグラスとの関係は断ち切られた。

 

彼らのレコーディング活動に最も大きな影響を与えたのはこの最後の一件だった。ドン・カーシュナー以降のレコードでの成功に浮かれたモンキーズはスタジオに「5人目のビートルズ」はもう必要ないと考えるようになった。この「見せかけのバンドから本物になったバンド」が望んだのはただ一つ、自分たちらしくある事だった。「僕たちが気に入るプロデューサーを見つけられなかったんだ」と1968年にトークが語っている。「彼と最初に作ったアルバム、"Headquarters" は好きだけど、2番目は本当のモンキーズのアルバムじゃなかった。あれはモンキーズが演奏するチップ・ダグラスのアルバムだった。"The Pisces" は "Headquarters" ほどグルーヴィーな聴き心地じゃなかったと思う。技術的には良くなったけど、逆にそのせいで損なわれたんだと思う」。

 

ダグラスが10ヶ月という短い間にバンドと共に歩んだ信じられないような行程:単純に音楽ユニットとして機能する方法を学ぶ事から、2枚のNo.1アルバムと何枚ものヒット・シングルを出し、それらのヒットを実際に演奏したミュージシャンであると自慢できる権利まで獲得した事、を考えると、トークの考察は驚くべきものだった。とはいえ、1967年後半はモンキーズにとってほとんど違いがなかった、バンドは自由になりたがった。「色々な事がバラバラになっていった」とダグラスは振り返る。「皆どんどん不満を募らせていくし、自分のアイデアをやりたがるし、僕みたいなまとめ役を通すのを嫌がるようになった。最初に離れて行ったのはピーターだったんじゃないかな。彼はどこかのある時点で僕に対する興味を失って、自分自身の事をやりたがるようになった。そして皆そうなった。皆、曲をやりたがるし、自分が聞きたいようにプロデュースしようとしてた。それで、『チップ、僕たちはもう君とは組まない。自分たちでやるから」と言われたんだ。

 

常にマッシュルーム・カットの集団と比較されるモンキーズだが、実際はビートルズよりも数ヶ月早く "White Album" の段階に達していた。68年の穏やかな春を教祖の足元で弦をかき鳴らしながら過ごす代わりに、モンキーズは驚異的な数のソロ・セッションをこなしていた。彼らのプロデュースする楽曲がグループ内のわずかな交流だけで、どうやったらまとまりのあるコンピレーションへ融合するかはほとんど考慮されていなかった。さらに、本格的な音楽ユニットではないという噂を払拭したかった彼らは、今後全ての作品に「Produced by The Monkees」というクレジットを付ける事を決めた。このシステムの部分的な成果は "The Birds, The Bees & The Monkes" で聞く事ができたものの、この無秩序に広がった長尺のアルバムは何十ものアウトテイクを生み出し、バンドの熱狂的なファンの大群を苛立たせ、魅了するのに十分な奇抜さを備えていた。

 

ドニー・カーシュナーは去ったが、彼のメロディーはモンキーズのプロジェクトの中に、特にこの最終段階において残っていた。カーシュナーのグループ内での最大の支援者だったデイビー・ジョーンズは、1967年のハロウィンのセッションで新しい共同体の枠組みを試した第1号だった。共同制作者のチャーリー・スモールズ(モンキーズのTV番組にゲスト出演したばかりで、後に「ザ・ウィズ」を制作)を伴って、(カーシュナーが "More Of The Monkees" の時に却下した)ニール・セダカ&キャロル・ベイヤーの "The Girl I Left Behind Me" のアップデート版を収録した。ジョーンズのアレンジは当初、シンプルな朗読とギター、ピアノ、ベースとドラムだけだったが、スモールズの "Girl Named Love" を曲の最後に融合させる事を意図して、エンディングの間奏部分が延長された。

 

RCAビクター・スタジオの8トラックのマルチトラック・レコーダーがグループにもたらした新しい柔軟性によって、どんな作品でも追加や削除ができるという誘惑には到底かなわない事が証明された。"The Girl I Left Behind Me" の場合、ジョーンズが最初に提案した素晴らしい部分は後から出たアイデアに押されて消えてしまった。この時期のモンキーズのレコーディングの多くがそうであったように、この作品が本当の意味で完成する事はなかった。このコレクションではジョーンズの進行中の仕事の2つの段階を示す、2つの時期のラフ・ミックスが初お目見えする。この曲は1968年2月にも再レコーディング(ディスク3に収録)が試みられているが、モンキーズの7枚目のアルバム "Instant Replay" のためにカーシュナー時代のオリジナル版が復活することになる。
 

これらのセッションの周辺的な状況を手短に説明すると、チップ・ダグラスは後にデイビーがボーカルを吹き込む事を期待して、バリー・マン&シンシア・ワイルの "I'm A Man" とキャロル・ベイヤーとジョージ・フィショフの "We Were Made For Each Other" のバック・トラックを録音した。ジョーンズは最終的にそのアイデアを却下したので、曲はボーカルなしで保管されることになった。"I'm A Man" (フィル・スペクターがチップ・ダグラスのグループ、モダン・フォーク・カルテットと仕事をした時に彼に教えた曲だった)は少し感傷的な感じだったが、 "We Were Made For Each Other" におけるダグラスの素晴らしい演出は、彼がバンドに残した偉大なる功績と彼の解雇によって失われたチャンスをまざまざと思い起こさせる。ダグラスは時折、セッション・ベーシストとして復帰(及び1969年にシングルのセッションをプロデュース)するが、彼が実際にモンキーズの5枚目のアルバムに関わったと言えるのは初期にプロデュースした "Daydream Believer" が収録された事だけだった。 
 
以前から独立心のあったマイケル・ネスミスにとって、セルフ・プロデュースへの移行は全く変化がなかった。モンキーズの最初の2枚のアルバムで彼自身の陣営を指揮した彼は、より一層奇抜な混ぜ合わせを続けて、再び戦いに挑んでいった。ダグラスの最後の曲と同じ日に録音された、ネスミスがグループに用意した最新作は当初 "Situation BT" というタイトルだったが、より遊び心のある "Carlisle Wheeling The Effervescent Popsicle" になった。彼はこの美しい曲をその後の6ヶ月間で少なくとも3回は録音した。結局、彼の「モンキーズ」バージョンが1960年代に発表される事はなかった。その代わり、"Carlisle Wheeling"(として知られるようになる)は1968年の彼の「ビッグバンド」のソロ・アルバム "The Whichita Train Whistle Sings" でインストゥルメンタルとしてリリースされた。ネスミスはそのリリースをさかのぼる数ヶ月前に、"The Birds, The Bees & The Monkees" の裏ジャケットの遠回しな詩のペンネームとして "Carlisle Wheeling" を使っている。更にややこしい事に、この曲の別バージョンを "Conversations" という別のタイトルで1970年の彼のアルバム "Loose Salute" に収録している。
 

詩をベースにした歌詞と音楽的な意外性の組み合わせはすぐにネスミスの創造的なテーマになった。彼の次なるモンキーズの作品、"Tapioca Tundra" の歌詞の下書きは「タイガー・ビート」誌1967年7月号のゲスト編集者のページに詩のような形で掲載されている。「詩を書くのはずっと好きだった」と、この歌/詩の制作過程についてネスミスは説明する。「実を言うと、僕が曲を書き始めたきっかけの一つは、素晴らしい詩人たちの詩に出会って、それを音楽にできるかやってみたかったんだ。それを高校から大学でやっていた。英語の授業では教材に使っていた詩をいくつか曲にしていた。そこから詩を書くのが好きだと思うようになったんだ。"Tapioca Tundre" と "Daily Nightly" ができたのは、しばらく自分用の詩を書いていた頃だった。僕は気付いたんだ、ニール・ダイアモンドやジェリー・ゴフィン&キャロル・キングやボイス&ハートが書いていたようなポップスを書き続ける事は僕には無理だって。多分、やるなら自分自身の刻印を付けてそういう曲を書くべきだと思った。それらの曲が比喩的だったり、より独創的で複雑だったりするとしたら、それは僕が書いていた詩が原因だろう。曲として書かれたものじゃなかったからね。

 
ネスミスの創作過程にもかかわらず、 "Tapioca Tundra" は少なくとも音楽的には、詩のような優美さはほとんどなかった。調子はずれの口笛と反響するカウントダウンから始まり、曲は絶え間のないラテンのリズムに乗り、マイケルの謎に満ちた「散文と押韻」が聞こえてくる。そして曲は息も絶え絶えになったネスミスのうめき声という奇妙なクライマックスを迎える。あたかも、「あなたの詩を音楽にします」といった広告に応える事を想像し、彼自身の途方もない結末を思い描いたかのようだ。この話の最も意外な展開は、この曲がモンキーズの次のシングルのB面に選ばれた事のみならず、1968年初めにトップ40・チャートに入った事だった。これはネスミスがモンキーズとして書いた中で最も売れた曲となった。
 

ネスミスの才能が不可解で複雑なものだったとすれば、ピーター・トークは対照的により地に足のついた音楽的で抒情的なものを差し出した。67年11月の中旬までに、トークは少なくとも12回以上のレコーディングに及んだある歌との音楽的な遍歴を始める支度をしていた。"Lady's Baby" はかつての同居人カレン・ハーベイとその生まれたばかりの息子ジャスティンへの叙情歌である。トークはこのスローテンポの曲を数ヶ月に渡り、5回以上本格的に録音した。ピーターのアプローチは、この積み重ねた曲から "Good Vibrations" のような特別な曲を作ろうとした訳ではなく、現代のレコード製作における新しい写実主義だった。自らのミューズに従うと言う表現を文字通りに捉え、この曲を作るひらめきを与えた環境をスタジオに再現しようとしたのだ。この試みの中で、ある録音エンジニアは幼いジャスティンを追いかけて実際に「発する声と笑い声」(歌詞にある)を捕えようと這いずり回った。彼女も赤ん坊も何時間にも及ぶ高額なレコーディングの間、ずっとくすくすと笑っていたが、この事で何人かのバンドのメンバーと彼らの音楽コーディネーターであった故レスター・シルを激怒させたようだった。

 

「"Lady's Baby" はすごく奇妙でおかしな状況だった」とエンジニアのハンク・シカロは振り返る。「当時のピーターの要求を受け入れて、彼がやりたがったんだけど、本当にボーっとなるようにしたかったらしい。だから僕たちがやったのは、スタジオに絨毯とクッションを持ち込んで、ちょっとした部屋みたいにした。彼は自分の友人達を連れて来て、ただ座っていた。それで彼がちょっとだけ演奏した。同じ曲を何日も何日もやるなんて、とんでもない事だったよ」。

 

「彼らは何時間もただ座ってワインを飲みながら、この曲を何テイクも録っていた。多分、1テイクか2テイクは作っただろう。エンジニアとしては大丈夫だった、全部含めた時間みたいなものだから。でも、彼は誰の助けも借りようとしなかった。この時点では彼らとのコミュニケーションはちゃんととれると思っていた。彼らと話もできたし、何でもできた。彼が少々熱くなる事も何度かあった。『なあ、時間を無駄にしてるんじゃないか。この曲をやるか、あるいはさっさとやるかのどっちかだ」って言ったんだ。あれは100回はテイクを重ねたはずだ。彼は色々な意味で単独行動に走ってしまったんじゃないかな。共同の作業がなかった事で彼らの中にちょっとしたわだかまりができていたんだ」。

 

まさしく、ほんの数カ月前に "love is understanding"(「愛とは理解である」)と謳ったバンドが、一つにまとまらずに苦労していた。1967年11月14日、撮影スタジオでトークとジョーンズが殴り合うという騒ぎが起こり、デイビーは病院で数針縫うはめになった。シダーズ=シナイ医療センターから戻った数時間後、ジョーンズは "Ceiling In My Room" という新作の録音に取り掛かっていた。この曲はサンダウナーズとの共同作業であった、彼らは1967年のモンキーズのサマー・ツアーで前座を務め、デッカ・レーベルでレコーディングをしていた。名声の中で孤独な人生を送るスターの半自叙伝的な、この歌にジョーンズが共感できたのは間違いない。しかしながら、彼はこのミドル・テンポのバラードを完成させる事はできなかったようだ。結局、この曲は1997年に廉価版のコレクションに収録されるまで日の目を見る事がなかった。この曲のステレオ・ミックスがつい最近発見され、今回のコレクションに収録されている。まったく違うデイビーのボーカルが際立って素晴らしい。
 

12月2日、マイケル・ネスミスは2つの新たな曲を録音するためスタジオに戻ってきた。ディランから着想した "St. Matthew" と故意に音質を落とした "Magnolia Simms" である。1920年代のSP盤特有のプチプチ、パチパチといった音を全て盛り込もうと構想された "Magnolia Simms" はネスミスにとって、また新たな音楽の方向転換となった。「僕はこの曲を遠い過去のものみたいに聞こえるようにしたかったんだ、どこかの保管庫から出てきたような、時代を超えたものにしたかった」とネスミス。「アセテート盤を使って、プレーヤーのアームがあるポイントに来た時にブロックを当てて、針飛びを作ったんだ。効果音はフィルターや通常のEQ音響処理装置で作った。メガホンを通したような声は歌っている時に少し緩めた握りこぶしを自分の口に当てて作ってるんだ」。
 

翌日の録音で、ネスミスは5分強の歌詞 "Writing Wrongs" でよりモダンなアプローチを試みた。評価が厳しい "A Whiter Shade Of Pale"(訳注:英国のロック・バンド、プロコル・ハルムの全英1位のヒット曲、歌詞が難解)のように、マイケルの長たらしくてとりとめのない独り言はメロディーよりも角があり、ネスミス(ハモンド・オルガン)、ベーシストのリック・デイ(メリー・ゴー・ラウンド [訳注:米国サイケデリック・ロック・バンド]所属で、ポール・リビア&ザ・レイダーズの66年のヒット "Just Like Me" の共作者)、ドラマーのエディー・ホーによる予想外の間奏が特徴的である。またしても、ネスミスは増え続けるモンキーズの楽曲の中で他のどの曲とも違うサウンドを生み出す事に成功したのだ。

 

全く同じ時間に同じビルのホールの向かい側で、ピーター・トークが彼自身のモンキーズの音楽をネスミス抜きで録音していた。更に奇妙な事に、彼はこの日の大半をミュージカル「オリバー!」の曲 "Who Will Buy?" のアレンジに費やしていた。「オリバー!」と言えば、もちろんデイビー・ジョーンズがブロードウェイで出演した舞台であるが、この日はRCAスタジオの近くにすらいなかった。「あの曲は、僕がグリニッジ・ビレッジでヒッピーのフォークシンガーをやっていた時によく歌っていたんだ」とトーク。「何故かはわからないけど、あの曲はコード・チェンジの練習としても、ギター演奏の練習としても魅力的に感じたんだ。僕が『オリバー!』の曲を演奏したのも驚きだけど、それから後に、僕の目の前に、なんと、アメリカの元祖アートフル・ドジャー、デイビー・ジョーンズがきたのさ」。

 

その後、同じセッションでトークは、以前ネスミスと組んでレコーディングした2曲:ウィリー・ディクソン(訳注:米国のブルース・シンガー)の "You Can't Judge A Book By The Cover" とマイケル・マーフィーの "(I Prithee) Do Not Ask For Love" に取り掛かった。1曲目はモンキーズのコンサートでのネスミスのソロ・パフォーマンスのライブ音源で、2曲目は1966年にジョーンズとドレンツと一緒に録音したものだった。「この曲を持ち込んだのはマイクだった」と "Prithee" についてトークが認める。「中世風の言葉使いが目を引いて、それとコード・チェンジも気に入った。最近はこの部分が気になるんだ:'Thou makest me free, but soon thou makest demands on me'(訳注:あなたは私を自由にしてくれたが、すぐに私へ要求してくる)今聞くと耳障りだよね。もう冗談か、プライベート以外では歌えないと思う。でも、やっていた時は好きだった。(後に)「33 1/3 レボリューションズ・パー・モンキー」[1968年暮れのTVスペシャル]用にソロでやる事になって、ボーンズ・ハウと一緒にやった。彼と何かできるかもしれないと思ったけど、結局何もなかった」。ピーターのこの曲の1967年12月録音バージョンは今回のコレクションで初お目見えとなる。更に特筆すべきは、ピーターの友人(でありモンキーズのオーディションに落ちた)スティーブン・スティルスが "Prithee" にギターで参加している事と、"Lady's Baby" の別バージョンに彼のトレードマークである低音弦の独特な響きを加えている事である。両方とも今回のコレクションのディスク3に収録されている。 

 

12月17日のトークのセッションではもう一つ、最初の "Merry Go Round" の録音が行われた。彼は、モンキーズの "Goin' Down" や "Your Auntie Grizelda" などの作詞家、ダイアン・ヒルデブランドとこの曲を作曲した。「ダイアンと僕は歌を通じて親交を深めていったんだ」とトークは振り返る。「僕たちはなんとなく友だちになった。"Goin' Down" の歌詞は大好きだったし、彼女がジャック・ケラーと書いた "Early Morning Blues And Greens" はいい歌だと思っていたからね。彼女と一緒にいた時に、["Merry Go Round"] のメロディーを弾いて聞かせたんだ。そうしたら、彼女が『こんな感じじゃない?』と言って、歌詞を書いて。それを僕に渡して、『今度はサビ前のメロディーが必要ね』って。それで僕がピアノに向かったら、指からサビ前のメロディーが湧きだしたんだ。こういう時は成り行きにまかせるしかない。『おいおい、なんだか上手くいってるぞ』てね。彼女はそのメロディーに同じリズムで歌詞をつけてたから、簡単だった」。1968年、トークはこの歌に厚みを増した朗読をさらに2回録音した(3バージョンともここに収録)。 

 

月末にモンキーズがクリスマス休暇のために散開した後、レスター・シルはバンドがセルフ・プロデュースして作り上げたものを吟味し始めた。ヒット・シングルになる曲がどうしても必要だと感じたシルは、モンキーズでは実績のある巨匠たちに尽力を求めた。トミー・ボイスとボビー・ハートである。1年前にドン・カーシュナーによってモンキーズのプロジェクトから追い出された直後、この活動的なデュオは "Out & About" や発売されたばかりの "I Wonder What She's Doing Tonite" などのA&Mのシングルでヒットメーカーとしての地位を確立していた。シルとしては、ソングライターたちにほとんど見返りを用意していなかった。彼らが再びモンキーズに曲を書いてプロデュースしても、プロデューサーの名称も印税もつかないというものだった。このプロジェクトはボイス&ハートの精神にとって非常に大切なものだった(それに作曲の印税は莫大なものになる可能性がある)ので、彼らはいつもの大きく口を開けた笑顔でこの申し出を快く引き受けた。'67年のクリスマスの翌日、彼らは古き良き時代と同じようにグループの新曲を録音するために戻ってきたが、モンキーズの姿は一人とてなかった。 

 

復帰したボイス&ハートが最初に録音したのは、"P.O. Box 9847" で、元々は前任のプロデューサー、チップ・ダグラスが "Daydream Believer" の次のシングルとして選んだ曲だった。ダグラスが振り返る、「"P.O. Box 9847" をやる準備をしていたんだ。これはかなり良いものになるぞ、と思っていた。ボイス&ハートのデモの感じが "Paperback Writer" みたいだったんだ。これをやるのは最高だな、と思った」。だが、最終的にシルはこの仕事には曲の作者たちを指名した。彼らはデモ・バージョンのアレンジを捨て、より新しいサイケ・ポップな仕上がりを選んだ。 

 

この曲のアイデアは、その何ヶ月も前にモンキーズのディレクター兼プロデューサー兼創造主のボブ・レイフェルソンから出されたものだった。ハートが回想する、「彼が『すごい曲のアイデアがある。求人広告みたいに簡略化された言葉で表現するんだ』と言ったので、僕たちは "P.O. Box9847" を書いて、彼のアイデアだから曲のクレジットの3人目に加えた。でも、お偉いさんたちは彼に作曲のクレジットを与えようとしなかった。何故かは分からない。番組のプロデューサーだった事がある種の利害の対立だったのかもしれない。彼は印税を受け取らなかったし、後でクレジットからも名前を外されてしまった」。 

 

このチームの復帰による一番の功績はミッキー・ドレンツの再浮上だろう。数ヶ月近くレコーディング・スタジオから離れていたドレンツは、この時までのモンキーズのセルフ・プロデュースによるレコーディングに欠けていた重要な要素でもあった。ボイス&ハートは彼を上手くスタジオに呼び寄せ、 "P.O.Box 9847" を歌わせると同時に、彼にモーグ・シンセサイザーの音を付け加えさせた(それは後に削除されたが、このコレクションでラフ・ミックスを聞く事ができる)。更に彼が作曲したばかりの新しい曲 "Shorty Blackwell" のデモ作りを手助けした。"P.O. Box 9847" はモンキーズの次のシングルにはならなかったが、ボイス&ハートは1966年の逸品 "Valleri" もリメイクしており、そちらの方が条件に合っていたようだ。 

 

「僕たちは[元々]プロデューサーとして解任される直前にこの曲を録音していたんだ」、とハートは語る。彼らが最初に録音した "Valleri" はモンキーズのファースト・シーズンで使用され、一部のラジオ局で海賊版として大っぴらに放送された。「多分一年以上たってから、レスター・シルが僕たちの所に来て、『君たちに "Valleri" を再録音してもらいたい。音楽家組合の契約で、オリジナル版は君たちがプロデューサーになってるんだが今は君たちにプロデューサーの名義をつけられない。でも、君たちに戻って来て、もう一度やって欲しい。できるだけオリジナルと同じように、でもプロデューサー名義なしで作ってほしい』って言うんだ。それで僕たちはそうしたのさ。僕たちはこの曲を車の中で書いたんだ、ウッドロー・ウィルソン通りとローレル・キャニオンからマルホランド・ドライブを登って、(ドン・カーシュナーが)郊外に借りていた家に行く途中だった」。

 

彼らの新録 "Valleri" はオリジナルよりも荒々しさが控え目になっていたが、ドン・マクギニスのアレンジによるソウルフルなブラスが盛り上げに一役買っている。ボイス&ハートはこのボクシング・デーの録音を3曲目の "Me Without You" で締めくくった。このビートルズ風の弾んだリズムの曲はデイビー・ジョーンズの声にぴったりで、彼はボイス&ハートとの共同作業を1968年初頭には完了させた。しかし、残念な事にレスター・シルが当時この曲のリリースを見送ったため、ファンは1969年初頭発売のバンドのアルバム "Instant Replay" でこの曲を聞くまで、更に1年待たなければならなかった。この曲の1968年3月のオリジナル・ミックスの2つが今回のコレクションで初披露となる。

 

1967年最後の2日間に、ボイス&ハートは後ほどリリースする予定の曲をさらに2つほど録音した。 "Through The Looking Glass" と "Don't Listen To Linda" はどちらもこのコンビによって1966年にも録音されていたが、その後の音楽的な流行に合わせて微妙にアップデートされた。 "Through The Looking Glass" のエンディングはどことなくサイケデリックなストリングスでまとめられ、"Don't Listen To Linda" はデイビーのバラード志向のスタイルに合わせてゆったりとした曲になった。シルは "The Birds, The Bees & The Monkees" への収録を見送ったが、2曲ともアルバム用にミキシングされ、そのオリジナル・ミックスがここに収録されている。
 
バンドが休暇旅行をとった後、最初にスタジオへ戻ってきたモンキーはマイケル・ネスミスだった。1月6日、彼は(間近にせまったバンドの長編映画のサウンドトラック用に)"Circle Sky" ともう一つ、音楽に合わせた詩 "Auntie's Municipal Court" を録音した。後者は彼のサン・アントニオ大学の同級生でギタリストのキース・アリソン(TVシリーズ "Where The Action Is" のスター。[訳注: "Where The Action Is" は米国で1965年から67年の平日午後に放送された音楽バラエティー。キース・アリスンはソロ・アーティストとして準レギュラーで出演していた])との共作だった。アリスンが振り返る、「僕はRCAのスタジオにいて、僕たちは映画『ヘッド』用に何かを録音していたんだ。そうしたら、マイクが『これで何かしようと思ってるんだけど』と言って、 "Auntie's Municipal Court" の一部を聞かせてくれた。僕がイントロを考えて、曲の中では2つのギターを、1つはチューニングを1段下げて演奏した。僕たちは昼食の休憩をとって、マイクは詩のほとんどを書きあげた。マイクが『ミッキーを呼んだ方がいいな』と言って、ミッキーがホース・シュー・キャニオン(訳注:当時、ミッキーが住んでいた家があるローレル・キャニオンの通りの名前、RCAのスタジオまで車で約20~30分)から降りてきて、その場でボーカルを録った。僕たち、その日の午後だけで全てを完成させたんだ」。
 
「後からレスター・シルが電話してきて、『著作権をどうにかしないといけない』って言うんだ。僕はスクリーン・ジェムズと著作権契約がないから、僕に印税の半分を渡したくなかったのさ。僕は断って、出て行った。そうしたら、また電話してきた。レコードのプレスが迫っていたんだ。結局、通常の契約を持ちかけてきたよ」。アリソンにはレコード1枚から印税が支払われたが、コルジェムスは彼の名前をレーベルのクレジットに載せるのを怠った。彼の演奏への貢献具合はこの曲のモノ・ミックスで最もよく聞く事ができる。このミックスではアリソンのギターのうねりが強調され、ボーカルが少々埋もれてしまっている。ディスク3には、ネスミスのボーカルを前面に押し出した更なる別ミックスが初収録されている。
 

翌日、ミッキーはアルバムでは初めてのセルフ・プロデュース作品 "Zor And Zam" の録音に取り掛かった。ドレンツはあるパーティーで作者のビル・チャドウィックがこの曲を演奏するのを聞き、この架空の二人の王様の物語に衝撃を受けた。この曲の生みの親であるチャドウィックはこう語る、「元々は、僕と兄のジョンは『フレンドシップ』というTVシリーズ用の筋書きを書いていたんだ。兄は以前ディズニーのアニメーターをやっていて、この番組は実写とアニメでやる予定だった。『イエロー・サブマリン』を実写とアニメでやるのを想像してみて。3、4年早かったけどね。そういうコンセプトだった。ゾルとザムという国に二人の王様がいて、パイロット版の中の1曲として "Zor And Zam"  が使われることになっていた。僕たちは製作的な面で行き詰ってしまってね。僕はモンキーズと関わるようになったんで、こっちで使うことにした。基本的には、二人の王様がいて、戦争をしようとしたけど誰も集まらなかったという話。僕たちにはみんなベトナムに行く友人がいて、誰も状況の扱いに満足していなかった。みんな向こうへ行っても、何の支援も受けられなかったんだ。要するに、『自分の国から支援してもらえないのに、なんで行かなくちゃいけないのか?』というのが主題だった」。

 

この曲におけるドレンツの作品作りはアレンジャーのショーティー・ロジャーズの助言とRCAの8トラックで音を重ねる能力によって飛躍的に成長した。モンキーズ最終回で初放送された初期ミックスと "The Birds, The Bees & The Monkees" で実現したより壮大なミックスを聞き比べてほしい。同じベーシック録音から生成されたとはいえ、この2つのミックスはこの時期のモンキーズの録音プロセスについて多くの事を明らかにしている。

 

1968年1月9日、マイケル・ネスミスは音楽的旅立ちのための新たな手法と共にスタジオに戻ってきた、 "My Share Of The Sidewalk" である。彼曰く、「デイビーがモンキーズで歌う事を想定して、この曲を書いた。ブロードウェイ風にまねた感じなら彼が気に入ると思ったんだ。彼は気に入ってくれて歌いたがったけど、それから状況が悪化して、この曲は「お偉いさんたち」にあまり支持してもらえなかったんだ」。当時はレスター・シルがリリースを見送ったが、ジョーンズはスクラッチ・ボーカル(訳注:他の部分を録音する前に参照用にボーカルだけ録音したもの)を録音していた。「ボーカルを上手くつかめてなかった」とジョーンズは悔しそうに語る。「すぐに使い捨てにするようなもので、使われるはずがないものだからね。今聞くと、なんてこったと思うよ」。どうやら、この野心的な作品は作曲者でさえ歌うのが難しかったようだ(ディスク3でネスミスのリハーサル音源を聞く事ができる)。1969年、コルジェムスのレコーディング・グループ、ニュー・エスタブリッシュメント(訳注:ボビー・シャーマンが出演したTVドラマ「略奪された100人の花嫁」の主題歌 "Seattle" 等で有名)は完璧なボーカルの録音に成功したが、リリースの前に取り止めとなってしまい、その出来栄えはほとんど聞かれる事がなかった。

 

最初の "Sidewalk" のセッションから5日後、ネスミスは涙を誘う "While I Cry" を提供した。以前、彼のインストゥルメンタル・ソロ・プロジェクト "The Wichita Train Whistle Sings" で "While I Cryed" のタイトルで録音された、このシンプルな楽曲はネスミスの作曲家としての強みをより生かしている。「この曲は"Cryed" になるはずだった」と彼はタイトルの取り違えについて明かした。「本当はモンキーズのためにファースト・アルバムの時に書いたんだ、でもチャンスはつぶされた」。バンドの5枚目のアルバムに収録される事は見送られたが、後に1969年の "Instant Replay" に収録された。1968年初期のオリジナル・モノ・ミックス2曲がこのコレクションで初披露となる。

 

1月20日、ピーター・トークは更に "Merry Go Round" に苦労しつつ、新たに2つの変わり種:アカペラの "Alvin" とインストゥルメンタルの"Seeger's Theme" の製作に取り掛かった。トークの兄弟によって書かれた童謡 "Alvin" は元々 "The Birds, The Bees & The Monkees" に収録されるはずだったが、土壇場になって理由不明のままアルバム・マスターから除外された。「1番の歌詞は僕の弟のクリスが書いたんだ、12才位だったと思う」とピーターが語る。「ニックがそれに続けて2番を書いた。バッファロー・スプリングフィールドのコンサートで、おまけの出し物として僕とスティーブ・スティルスで一度この曲をアカペラで歌ったんだけど、面白かったよ。どうして収録されなかったのか、僕には全く理解ができない」。一方、"Seeger's Theme" は彼のフォークの師、ピート・シーガーへ尊敬を込めて度々演奏した短い間奏曲である。1967年1月に録音されたものは "Headquarters Sessions" に収録されているが、今回のコレクションでは1968年に録音された3つの異なるバージョンを収録した。「僕がこの曲を録音したかったのは、この曲には幾つものリズムがあると思ってきたからなんだ」とトーク。「そこを見せられたら、と思って挑戦し続けるよ」。

 
動から静へ、モンキーズは長編映画の本格的な撮影開始が迫るなか、待機の状態にあった。1月23日、監督兼プロデューサー兼脚本家のボブ・レイフェルソンは彼が映画の中で使うつもりだった曲 "War Games" を製作中のネスミスとジョーンズを激励するために録音に参加していた。この曲はジョーンズがネスミスのテキサスからの友人、スティーブ・ピッツ(訳注:"Dream World" 等も共作。その後テキサスに戻り、弁護士になった)と共に作ったものだった。「『モンキーズ』を撮影している頃、マイクは僕たちに沢山の人間を紹介してたんだ」とデイビーが振り返る。「スティーブ・ピッツとは一緒に映画『ヘッド』用の曲を幾つか書いた。僕たちは全員何かを書く事になるって言われていて。それで、僕は彼らが映画でやりたい事について何のテーマでも書いた」。レイフェルソンのスタジオ内での熱意にもかかわらず、この反戦的な部分は脚本が改定される中で消されていく事になる。この曲を使ったシーンは撮影もされなかったが、"War Games" は全く違う2つのアレンジで録音された。どちらも1960年代にはリリースされていない。 
 
さらに音を重ね、様々な作品に手を加えていく中、トークは1年もの間ずっと演奏してきた新しい曲の録音を '68年2月に始めた。"Tear The Top Right Off My Head" である。おそらく彼の最良の作品の一つである、"Tear The Top" は心地よい音色と音楽的な茶目っ気が絶妙なバランスを保っている。「(曲のタイトルは)当時、流行っていたんだ」と彼は語る。「一般的な表現とまでは言えないけど、本当に『街なかの』って感じだった」。感情がどれほど過激になるのかを表現したものだった。(曲の)全体的な構成は2部に分かれているようだった。穏やかで、平凡な毎日、ありふれた雰囲気、それが前半である。そして、憂鬱な後半に入るとチリチリしている。髪の先がチリチリしているのはここで何か過激な事が起きているからだ。それがこの曲の言いたい事だった。曲の出来映えや売り上げを意識したミッキー・ドレンツによるボーカルにもかかわらず、"Tear The Top" がモンキーズのオリジナル・アルバム用に作られる事はなかった。 
 
トークのセッションからサンセット大通りを数ブロック下った所で、デイビー・ジョーンズがモンキーズのプロジェクトではない、旧友のレコーディングを手伝っていた。ジャン&ディーンのジャン・ベリーは1966年4月に車の事故で重傷を負ってしまう。1年間の集中治療を経て、彼は "Carnival Of Sound" というアルバムを完成させるため、スタジオに戻ってきた。事故の後、ジャンが言葉や運動の後遺症に苦しむを姿を目の当たりにしてきたデイビーは、偉大なシンガー/プロデューサーの人生を手助けしようと決意する。家にいるとイライラしてしまうベリーを気遣って、モンキーズの'67年のサマー・ツアーに同行させたり、新年には "Carnival" のために彼を手伝おうと努めた。この録音された作品にはジャンがアップデートした "In The Still Of The Night" の朗読と、素晴らしい "Laurel And Hardy" のデモ用のボーカルが含まれている。後者は後にベリーがスタジオ・ボーカリストで再録音することになるが、ジョーンズはベリーのファンであり、献身的な友人であることを示していた。 
 

モンキーズの5枚目のアルバムに向けて、より売れるサウンドを求め続けていたレスター・シルは、LAでトップ・クラスのセッション・ミュージシャンたちの手を借りて2月6日に録音を行った。この日録音された6曲には新しいバージョンの "War Games"、"The Girl I Left Behind Me" と "We Were Made For Each Other"、同じくデイビー・ジョーンズ/スティーブ・ピッツの最新の曲 "Dream World" と "Changes"(後者はモンキーズの長編映画用に製作された曲だった)も含まれていた。この6時間のセッションの最後の曲、ジェリー・ゴールドスタイン(訳注:米国のシンガーソングライター、プロデューサー、マネージャー)の "It's Nice To Be With You" が1968年6月に発売されるモンキーズの次のシングルのB面を飾る事になった。

 

この時点でアルバム2枚分ものマスターがあったにもかかわらず、セッションは休む事なく続けられた。2月8日、ピーター・トークはジョー・メイプス(訳注:米国のフォーク・シンガーソングライター、コピーライター、評論家)の "Come On In" を録音した。「僕が初めて "Come On In" を聞いたのはビレッジのコーヒーハウスだった。アリックス・ドブキン(訳注:米国のフォーク・シンガーソングライター、活動家)という女性が歌っていたんだ」とトークは語る。「ハートがあるし、僕のリズミカルなアレンジも気に入ってるんだ」。

 
同日、すぐ近くのスタジオではネスミスが自らのフォークのレパートリーを再検討、"Nine Times Blue" を新たに録音していた。1965年、ネスミスが売れないシンガーソングライターをやっていた頃に書いた曲で、"Headquarters" の時にデモを作り、インストゥルメンタルの "Wichita" プロジェクトでも録音している。ネスミスは数日前、"Nine Times Blue" のモンキーズ・バージョンを真剣に追求し始めた。しかし、その時はエンジニアのストライキがあって中止になっていた。これまでの未発表の演奏ではマイケルとデイビーのリード・ボーカルが多重録音されていた。ネスミスはこの録音に不満があったようで、4月に再録音することになる。しかしながらボーカル入りの "Nine Times Blue" は1970年モンキーズ後の彼のソロ・アルバム"Magnetic South" まで発表されることがなかった。 
 

デイビー・ジョーンズ/スティーブ・ピッツのコンビは2月15日に行った録音で "The Poster"、"The Party"、"I'm Gonna Try" を含む最後の数曲をプロデュースした。最終的に、"The Poster" だけがアルバムに収録されるが、その後の2曲は少なくとも20年間は封印される事になった。「こういう曲がただ放置されていたんだ」とデイビーが語る。「ああいう曲は、聞けば分かるけど、全部4分位で書いたんだと思う。"I'm Gonna Try" とかそんな感じだし、いい加減だよね?"I'm Gonna Try" や "The Poster" や "Dream World" とかは僕が初めて書いた曲たちなんだ。専門的な事は分からないけど、ただその時思い浮かんだままを書き留めたんだ。あんまり洗練されてないけど、若々しくてモンキーズっぽいよね」。

 

同じ日、サンセット大通りの別のスタジオではトークが自身の作品を完成させていた、 "Lont Title: Do I Have To Do This All Over Again" と言われる曲である。この曲は最終的に映画「ヘッド」で重要な位置を占める事になるが、この日予定されていたのは "The Birds, The Bees & The Monkees" に1曲だけトークが提供する曲だった。土壇場の入れ替えで彼がアルバム製作に参加した形跡が全くなくなってしまった(ジャケット裏面の "love Peter Tork" という短いメッセージを除けばの話)。"Long Title" の "The Birds, The Bees" ミックスはこのコレクションで初披露となる。

 

ボイス&ハートのシングル "Valleri" が店頭を飾りチャートを賑わしていた頃、レスター・シルの次なる任務はその後に続くシングルを選ぶ事だった。候補となる曲は既に山ほど揃っていたのだが、彼が音楽的に下した決断はこれまでで最も奇妙なものだった。ソングライター・コンビのリーバー&ストーラーがコースターズで録音したデモで売り込んできた "D.W. Washburn" をモンキーズに歌わせるという不思議な路線に導いたのだ。陽気な90年代(訳注:米国の1890年代を懐かしむ言葉)、あるいは当時流行していた'50年代風ロックのリバイバルの一種だったのだろうか?「あの曲の感じが好きだったんだ」とシルは自らの選択を弁明した。「デモを聞いた時、曲のサウンドがすごく気に入ったんだ。だけど、実際にやってみて発表してから気づいた。これは気の滅入るような内容だった。これはどん底にいる、宿無しの男の歌だったんだ。陽気なディキシーランド・ジャズのような雰囲気があったので、思ったのと少し違うなと思った。それで後になってから、とんでもない間違いだったと気づいた」。モンキーズは初めての大失敗に直面し、そこから先はもう下りしかなかった。

 

今回初収録となった "Washburn" の初期の風変りなミックスにはスタジオ・ボーカリストの低音パートが追加されている。「オリジナル・テイクには黒人のバスボーカルがいた」とトークが説明する。「バート(・シュナイダー、モンキーズのもう一人の生みの親)が『あのさ、トミーとボビーにバックで♪う~う~とか♪あ~う~とか歌ってもらうのはどうかな、有名な黒人バスシンガーがそういう風にやってるだろ?』って言ったんだ。あの曲で特筆すべき点はリーバー&ストーラーの作品っていう事だけで、彼らの作品の中でまだ誰もやってなかっただけなんだ。中年のコースターズみたいだよね。モンキーズ・プロジェクトが終わったのはバートとボブが気力を失ったからだ。僕はそう思う。何らかの理由で彼らは限界だったんだと思う。彼らは大いなる熱意を持って新しい事を始めたが、数々の困難に打ちのめされてしまったんだ」。

 

バートとボブの二人との問題が顕在化したのは "D.W. Washburn" の録音をした週末の後だった。モンキーズの映画の撮影初日、バンド・メンバーの内3人が撮影を拒絶したのだ。彼らは脚本協力としてのクレジットタイトルへの掲載か、少なくとも、出演料の前払いを要求した。「その頃までには、全てが悪化してしまっていた。僕たちがストライキをしたせいだ」、とミッキー・ドレンツが釈明する。「デイビーとマイクと僕はもっといい条件の契約を求めて映画の撮影の初日にストライキをしたんだ。僕たちは何年間もかなりひどいぼったくりを受けていた事に気付いてしまった。それで、ストライキを決行したんだ。ピーターは参加しなかった、彼はスト破りだ。ボブとバートは僕たちを許してはくれなかったと思う」。 

 

急遽、和解交渉が行われたが、モンキーズ内部に一線が引かれた。さらに悪い事に、撮影の2日目はNBCの秋の新番組が発表され、その中に「ザ・モンキーズ」が入ってなかったのである。番組は正式にキャンセルされたのだった。バンドは自分たちの番組に新しい形式を求めたのだと公表し、スクリーン・ジェムズの番組編成担当・副社長のジャッキー・クーパーは1968年のツアーでは彼らはもっと金を稼げるだろうと豪語していた。真実がどうであれ、バンドのTVスターとしての日々は終わったも同然だった。

 
"The Birds, The Bees & The Monkees" の録音が終わりに近づくと同時に、ドレンツはついにソロ・プロデューサーとして関わるようになっていた。2月下旬、彼はリーバー/ストーラーの "Shake 'Em Up And Let 'Em Roll" とゴフィン/キングの "Don't Say Nothin' Bad (About My Baby)" そして彼自身の "Rosemarie"(ここでは2つの未発表ミックスが聞ける)を録音した。その後の数ヶ月でバンドのレコード発売が遅れるにつれ、3曲とも選曲から外れてしまった。とりわけ、 "Shake 'Em Up" は似た曲調の "D.W. Washburn" の失敗の後では縁起が悪かった。その一方、 "Don't Say Nothin' Bad (About My Baby)" はスタジオ・リハーサルにすぎないと思われたようだった。 
 
1968年3月9日、アルバムのための最終セッションが行われ、"More Of The Monkees" に入らなかった "I'll Be Back Upon My Feet" が新たに録音された(クイーカ[訳注:ブラジルの太鼓]のきしむような摩擦音が特徴的)、その他に録音された5曲は未完成でボーカルが入っていない。その中にはバーズがアルバム "The Notorious Byrd Brothers" でカバーしたばかりのゴフィン/キングの "I Wasn't Born to Follow" も入っていた。モンキーズ・バージョン(モンキーズのメンバーは誰も関わっていない)は今コレクションで初お披露目となる。面白い事に、この曲のバーズ・バージョンはバート・シュナイダーとボブ・レイフェルソンの2作目の映画作品「イージー・ライダー」に使用されている。 
 
アルバム製作の最後の詰めはタイトルとジャケット・デザインだったが、この件は意外な事にスクリーン・ジェムズの宣伝担当、マービン・コーマンに任された。「ニューヨーク近代美術館でアッサンブラージュの巨匠ジョセフ・コーネルの展示を見たんだ」とコーマンは語る。「立体コラージュの事だよ。私はアッサンブラージュという物にこだわっていた。それで、我々が使っていた広告代理店を運営していたアラン・ウォルスキーに『アッサンブラージュをやってみないか?』と声をかけ、土産物屋とかを回って、ガラスの動物や鳥、蜂、その他手当たり次第集めようとしたんだ。数日かけてこのアッサンブラージュを作ったのを覚えてるよ。それで、全ての準備が整った後、フォトグラファーが来て何枚かポラロイドを撮った。アランがそれを見て、『下の隅を埋めないと』と言うのでフォトグラファーがポラロイドで私を撮って、アランがそれを置いた。私は『最後にそれをどけるのを忘れないでくれよ』と言ったんだが、そのままになってしまったんだ」(訳注:最下段中央の枠、花の後ろにコーマンの写真が見える)。
 

「数週間後、バート・シュナイダーに『ジャケットの試作品はいつ見られるんだい?』と言われたので、『今週、届きます』と答えた。すごく不安になりながら、バートにこの大きなシートを持っていったのを覚えてる。彼は虫眼鏡で隅々まで目を通して、『すごくいい。気に入ったよ』と言った。それで私は『ええ、でもこれはどうですか?』とジャケットに載っている私の顔を指さした。彼は怒り狂っていたけど、最後には笑い出して、『君の勝ちだ』と言った」。コーマンはシュナイダー氏とは折り合いをつけたようだったが、モンキーズはそれほど感激しなかった。「ジャケットの件ではひどくもめたんだ」と、1990年にレスター・シルが回想している。「彼らから散々文句を言われたよ、彼らは嫌がっていた。それで、ニューヨークに電話したら、全体を取り仕切っていたジェリー・ハイムに『それがジャケットだ。そういう事になっている』と言われたので、私は『分かりました、ボス』と言うしかなかった。彼らはあまり気に入っていなかったが、そのままになった」。

 

1968年4月に発売されると、"The Birds, The Bees & The Monkees" はすぐさまアルバム・チャート3位になった。それだけ売れたにもかかわらず、このアルバムは期待外れのような扱いであった。バンドが初めて1位を逃したアルバムだったからである。と同時に発売当初の売り上げが100万枚を超えた最後のオリジナル・アルバムとなった。「当時は思いもしなかったんだ」と、この急落をミッキー・ドレンツが振り返る。「僕たちは全てがいつも通り進んでいくと思っていた、やり方は手に入れたんだから。ボブとバートに会った時、彼らがちょっとよそよそしくて、別のプロジェクトの話をしていたのを覚えてる。花の盛りが過ぎたような感じがした。もちろん当時は、何かが変わった訳じゃない。実質的には、僕たちは完売が続いていたし、演奏も録音もしていた。振り返ってみて、何が起きていたのか分かったのはそれから何年も経ってからだった。もしも僕たち全員が早い段階で、最初の日から、音楽の事を一緒にできていたら、状況は全然違っていたかもしれない。その一方で、プロジェクト全体としては信じられない位の大成功だった。誰にも分からない。もっと悪かったかもしれないし、見るに堪えない大失敗になっていたかもしれないんだ。だから、文句は言えないね」。

 

「もう1年TVショーをやりたかったけど、当時の僕は全然やりたいと思わなかった。飽きていたんだ。毎週同じ事の繰り返しで、僕たちはそれに疲れていた。ああいう感じの自由でのびのびした即興性のあるものを維持するのはすごく難しいんだ。毎週行って台本を読むようなものとは違う。全部自分たちでアイデアを出していたようなもので。セリフの一つ一つって訳じゃないけど、その位の意気込みがないとだめなんだ。毎週毎週、即興で面白い事を考えなくちゃいけない、斬新でのびのびした、、、のびのびした感じにはもういい年だったけどね!」