Rolling Stone (Mar. 8, 2012)

Exclusive: Michael Nesmith Remembers Davy Jones

'For me David was The Monkees. They were his band. We were his side men.'

「僕にとって、デイビーがモンキーズだった。モンキーズは彼のバンドだった。僕たちは彼の伴奏者だった」

by Andy Greene

 

モンキーズの緑のウールハットを被ったメンバーとして知られる、マイケル・ネスミスは1970年代初頭にカントリー・ロックのアルバムを続けて発表し、高評価を受けたり、1980年代初めにMTVの誕生に一役買ったりしていたものの、グループ解散後40年以上、あまり表舞台には出てこなかった。彼の母親はリキッド・ペーパーを発明し、莫大な財産のほとんどを彼に残した。この事で、ネスミスが多くのモンキーズ再結成ツアーに参加する動機は薄くなったと思われる。しかし、1996年にアルバム "Justus" でバンドに復帰し、束の間であったが、翌年のヨーロッパ・ツアーにも参加して、ファンを驚かせた。それがデイビー・ジョーンズと過ごした最後の時間となった。彼の死は洪水のように記憶を呼び覚まし、ネスミスは「ローリング・ストーン」とeメールでの取材に応じてくれた。

 

デイビーと会った時の最初の思い出は何ですか?

 

定かではないが、スクリーン・テストをしていたステージで会った時だと思う。彼は自信があって、その場の一部になっていて、魅力的で、社交的に見えた。

 

プロデューサー陣があなた方を選んだのはそれぞれ違う理由からですが、デイビーが選ばれた理由は何だと思いますか?グループにもたらした彼ならではのものは何でしょうか?

 

デビッドが最初に選ばれて、彼を中心に番組が組み立てられたのだと思う。(流行りの)英国人で、人を惹きつけるし、完成されたシンガーでダンサーで、いつでもブロードウェイのヒット・ミュージカルにたてる。僕たち3人にはない才能を持っていた。

 

モンキーズ・ブームの絶頂期を表す出来事で、特に印象的な事はありますか?

 

番組が放送されてからはノンストップだった、僕たちグループへの過激な関心はある程度続いたんだ。メーターが振り切れたまま2、3年変わらなかった。一度、クリーブランドで僕たちはボディーガードとはぐれてしまって、駅にあるプラザの中だったんだけど、乗り換えの中継地点で、僕たちがこれからやるコンサートに来たファンが何千人も出てくるところだった。ファンがデビッドに気づいて、追っかけが始まった。僕たちはパニックを起こしたウサギみたいに逃げ出した。パトカーを見つけて、バックシートに飛び込み、ピー、ピー、ピー、ピー、コンサートの衣装のまま肩と肩をぎゅうぎゅうに寄せ合ってドアを閉めたら、ピンクの腕の津波が車の窓をおおい隠してきた。やっと一安心。お巡りさんはビビってたよ。駅まで送ってもらって、スタッフと合流し、僕たちはコンサートをやった。僕たち4人が一緒にいる時とか、特にデイビーが先頭にいるとか、そんな時は大混乱になった。ちょっとしたミスで逃げる羽目になったんだ。

 

もしも違っていたら訂正してください。あなた(と、あなた程ではないけれど、ピーター)が、モンキーズの音楽に関しての権限がないことを初期の頃からかなり不満に思っていたという話がよく出ますが、デイビーはブロードウェイの下地があり、指示に従うことに慣れていました。彼は最初からあなたの不満を理解していたのでしょうか?もしそうでないなら、どういう風に彼の意識が変わって、カーシュナーとレーベルに対抗したあなた方の戦いに積極的に参加したのでしょうか?

 

完全に間違っているわけではないが、「不満」という言葉は違う。僕たちは混乱していたんだ、特に僕が。しかし、僕たちが歌っている歌を演奏したいという望みは僕たち全員が共有していた。全員で成し遂げたのであって、僕だけがミュージシャンだったというのは消えない噂のひとつで、それは真実じゃない。ピーターは僕とは桁違いに完成されたプレイヤーだったし、ミッキーとデイビーは演奏も歌もダンスもして、音楽を理解していた。ミッキーはドラムを学び、僕たちは番組用に選ばれたような曲を演奏するだけの技術は持ち合わせていた。それに、自分たちの音楽の好みがあるガキだったから、ポンと渡された曲よりも、自分たちの好きな曲を演奏したり、作曲したりするのが楽しかった。その方がいいパフォーマンスになる。もっと楽しい。それが争いの元になったなんて、僕にはおかしなことのように思える。僕たちにはそれぞれの度合いがあると思う、「何が一番の問題か?何故、僕たちが歌っている歌を演奏させてくれないのか?」とか。もちろん、この混乱は権力の無知、そしてハリウッドのTVプロデューサーたちとスクリーン・ジェムズが所有するニューヨークの音楽事務所の間に起きていた支配権をめぐる争いを表面化させた。プロデューサーたちは僕たちを支持してくれたし、デイビーも加わった。番組のプロデューサーたちの明確な支援がなければ、僕たちが起こした争いを戦うことは不可能だった。

 

一部では、映画 "Head" はキャリアの自殺だと言われていますが、その時はどう思いましたか?観客の大部分が困惑して、敬遠されるのではないかということは気になりませんでしたか?振り返ると、あれは間違いだった?

 

振り返ると、あれは必然だった。"Head" が出来るまでモンキーズは社会から除外されていたことを忘れないでほしい。これについては何ひとつ曖昧なものはない。僕たちは受容と拒否の間にある判断のラインの余弦にいたんだ、これはここではなく別の議論で、元々すでに終わっているものだけど。"Head" は最後の歌だ。僕たちはジャックとボブと一緒にこの作品を書いたんだけど、これもここに書く話じゃない、とにかく僕たちは気に入った。それは僕たちがその一部だった現象が終焉を迎えることについての真実の描写だった。自殺とは程遠い、そのように見えたとしてもだ。これには別の決断があって作られたのかもしれないと考えた立場のある人々(大体は批評家だ)がいたけれど、僕はこの映画は不可避だったと思う。そういった状況下で作られてヒドイことにならずに済んだ映画は他には見当たらない。

 

あなたの見るところ、何故モンキーズはこうも早く燃え尽きてしまったのでしょう?全ての事が2年弱で終わってしまいました。

 

それは長い考察になる、僕が提示できるのは物事の複雑な様式についてのひとつの捉え方だ。この点で僕が最も知って欲しいのは、見に見えない形で起きていた兄弟間の抑圧のようなものがあったと言うことだ。年長の兄弟たちはビートルズやストーンズ、急成長する新世界秩序の啓蒙に従い、年少の兄弟たちはいまだ床の上で遊び、テレビを見ていた。年長の兄弟たちは歌い、踊り、叫び、進むべき道を指さし、モンキーズはその一部ではないと見なし、年少の兄弟たちを沈黙に追いやった。モンキーズはクローゼット行きだった。これが回顧の全てだ、もちろん、「誰もモンキーズを思いつかなかった」という前提に注目することが重要だ。モンキーズは起こった、まだ見えない原因の影響が、あえて言わせてもらうなら、まだ働いている、それが現在に至るまで通用しているので未だに見落とされているんだ。

 

デイビーはモンキーズの一員であることをあなたより楽しんでいたと思いますか?もしそうなら、なぜ?

 

推測でしかないけど、僕にとって、デビッドがモンキーズだった。モンキーズは彼のバンドだった。僕たちは彼の伴奏者だった。彼はロマンスの中心で、ラブリーな少年で、無垢で、親しみやすい人物だった。ミッキーは彼のボブ・ホープだった。この二人は、ホープ&クロスビーのように、番組の心臓部だった。

 

カーシュナーと対決した時にあなたが壁にパンチで穴を開けたという事件は何年も前から度々語られて、もはや作り話のようになっています。少なくとも、あなた方が "Sugar Sugar" の事で争ったという見解は誤りだったと言われています。この件に関してのあなたの記憶はどうですか?デイビーはそんな事が起きた後で、ちょっと騒ぎすぎたんじゃないかとか言いませんでしたか?

 

デビッドは僕に落ち着いて言われた事をやるように、と絶えず忠告していた。初日の彼の僕へのアドバイスは、「番組は仕事としてこなし、ベストを尽くす、そして黙って金を受け取って、家に帰る」だったよ。ミッキーも同じだった。当時、彼らが何を言っているのか、何故そんな事を言うのか、僕には分からなかった。壁の穴は "Sugar Sugar" とは無関係だ。あれは個人的な侮辱に反応して怒りを爆発させてしまった結果なんだ。出回っている話は君が言うように、作り話だ。

 

デイビーが歌うモンキーズの曲で好きな曲はありますか?もしあるなら、どんなところが好きですか?

 

"Daydream Believer" 。この曲が持つ情緒は作曲したジョン・スチュアートの本領発揮だ。私見だが、この曲には内に秘めた美しい哀愁がある、しかし、そこには喜びが散りばめられていて、苦しみはない。デビッドの明るいボーカルが僕たちみんなを愛だけで生きていくという素晴らしいメロディーにいざなう。

 

デイビーと過ごした時間で一番の思い出は何ですか?

 

彼はジョークが最高だった。素晴らしくバカバカしい、先鋭的なセンスで、モンティ・パイソン的な、まさに「縁の向こう(Beyond the Fringe 訳注)」だった、僕の言いたいことは分かると思う。僕たちは新しいジョークを聞き込んだら、お互いにいつでも駆けつけて教えては、バカみたいに笑っていた。デビッドが笑うとこっちまで笑ってしまう。彼は腹を抱えて、膝を曲げ、息ができなくなるまで笑った。彼がジョークを言っても言わなくても。僕たち二人はそうだった。

 

 
訳注:Beyond the Fringeは1960年初演の英国コメディ舞台。ダドリー・ムーア、ピーター・クックなどが参加。