NZherald (Nov. 25, 2016)

Why Peter Tork is happy to keep Monkeying around

by Russell Baillie

 

モンキーズのオリジナル・メンバー、ピーター・トークが、今なお続く、テレビが生み出したバンドと再結成のアルバムとツアーについてラッセル・ベイリーに語る

 

ちょっと風変わりなハスキー・ボイスで、ピーター・トークは今やモンキーズの叔父もしくは祖父に見えなくもない。

 

彼は74才だ。バンドのマルチ・プレイヤー兼まぬけ役はアメリカのテレビが1964年に生み出したグループの50周年記念イベントを行っている。

 

今回の復活には新作アルバムのほかツアーもあり、今月、トークとミッキー・ドレンツがバック・バンドを引き連れてニュージーランドにやって来る。

 

「ビックリ仰天さ。僕はワクワクしてる。僕は50才になるなんて思ってもみなかった、ましてや、50周年を祝うなんて。僕たちは長続きしない、一時的なブームで終わるだろう、と誰もが思っていただろうに。」

 

「つまり、サイン・コンベンションに来るようなTV番組の出演者は、いつでも会えるけど、彼らはもう活動していないし、僕たちみたいに観客を集めることはない。これって、ホントにものすごいことなんだ。」

 

モンキーズはTV番組として、1966年後半から1968年初頭までの2年間で2シーズン58話がアメリカで放送され、その後は世界中で再放送が繰り返されている。

 

バンドとして、彼らは1966年から解散する1970/71年までの間に、9枚のアルバムをリリースした。モンキーズはビートルズに対する、アメリカのTVの返答だった。とりわけ、"A Hard Day's Night" と "Help!" でファブ・フォーが気の利いたセリフを言う映画スターになったことに対する返答だった。

 

TVショーで勢いがつき、モンキーズは1967年に世界で最も売れたグループになった、自分たちで作曲もしない、演奏もしない「プレハブ・フォー」という偽物だという反発があったにもかかわらずだ。

 

TVショーは終わったが、グループは続き、ライブを行い、自分たちで作曲して自分たちの曲を録音した。彼らはバカバカしいサイケデリックな映画、"Head" に出演したが、これはおどけたTVショーに対するアンチテーゼだった。

 

1969年にトークが脱退し、1971年にモンキーズは消滅した。

 

マイク・ネスミスは1977年にソロとして "Rio" がヒットし、その後80年代にミュージック・ビデオ/映画プロデューサーとして成功することになる。

 

ドレンツは俳優に復帰する傍ら、アニメの声優やTVディレクターとしても活動した。ジョーンズはソロ活動としてライブ・ツアーやミュージカルに出演し、さらに競馬の障害レースにも出場した。

 

一方、トークはソロ・アーチストとしての地位を確立させることに苦心した。大麻樹脂の所持により刑務所で3ヶ月過ごしたり、教鞭をとるために西部へ戻ったり、ライブハウスで演奏するためにニューヨークに行ったりと、モンキーズのオーディション以前に逆戻りしていた。

 

「すごく楽しかった。何人かメンバーを選んで、ギグをやって、ジーンズにいくらかのギャラを入れて家に帰り、家賃を払って、食料を買う。それは素敵なことだ。誰も、『よう、小僧。スターになりたいんだろう?だったら、この書類に署名するんだ。』なんて言わなかったからね。」

 

全てが始まった時、トークは番組の愛すべきマヌケだった。番組は、アメリカのポップ・カルチャーに起こったビートルズ主導の変革において、若きプロデューサーのボブ・レイフェルソンとバート・シュナイダーによるハリウッド式の金もうけのように見えたかもしれない。

 

しかし、トークは番組自体に期限はないと考えている。

 

「最も理解されていないのは、モンキーズのポップ・カルチャーへの大いなる貢献と、ビートルズ現象を継承しているということだ。」

 

「TV番組としては、その頃、というかその後何十年も、若者がメインのシチュエーションコメディは僕たちだけだった。」

 

「そして、それは僕の世界の時を反映していて、僕はある程度の逆転を確信している。責任ある立場の人々が、この国の人々の世話をするよりも、自らの欲望のために戦争を推し進めることばかりに気をとられていた時だったんだ。」

 

「それは時代を反映していて、、、根本的な話としては、僕たちは喜びと信頼があれば乗り越えていけるってこと。僕たちには絶対的に正しいパパは必要ないってこと。それは大きな貢献だったと思う。」

 

「ここがモンキーズとその他の似たようなプロジェクトとの違いだ。プロデューサーたちは立ち止まるつもりはなかったし、自分たちが楽しんでくれるかもしれないと思った人たちのためにでっち上げを作ることには関心がなかった。彼らはその一部になりたがっていた。彼らはビートルズのファンだった。彼らは60年代の精神を愛していたんだ。」

 

そして、モンキーズを助けてきた歌の数々は数十年の時を耐え抜いた。

 

トークは今でも "Last Train to Clarksville"、"Steppin' Stone"、"I'm A Believer"、"Pleasant Valley Sunday" のような曲を演奏することを楽しんでいる。今参加しているのは彼とドレンツのみだが、コンサートでは "Daydream Believer" のように録音されたジョーンズのボーカルも使っている。

 

「僕たちふたりで、なんとか全体を補うようにしている。僕とミッキーがデビッドとマイケルの歌を歌うことで、ふたりを思い起こしてもらうんだ。それに、録音したデイビーの声に合わせて歌ったりもする。これは結構うまくいく」。

 

加えて、何曲か新しい曲もある。トークが気に入っている1曲はウィーザーのクオモが書いた "She Makes Me Laugh" だ。クオモはライナー・ノートで、モンキーズとは個人的なつながりを感じていると書いている。彼はニューイングランド地方の小さな高校、コネチカット州マンスフィールドにあるE.O.スミス高校に通っていたが、トークも在籍していたのだ。

 

クオモ「一人のE.O.スミスの生徒がトップに立ったことがあるなら、同じことが起きるかもしれない、という感覚を僕に与えてくれた。ということは、E.O.スミスに通っている君が30年後の未来にウィーザーの新作アルバムに1曲書いてるかもしれないってことだよ。」

 

もちろん、トークは大多数の人々がグループの往年のヒット曲目当てであることを知っているし、彼はそれでいいのだ。

 

結局のところ、モンキーズはファンにとって唯一無二のグループだった。

 

先日、トークは「デイリー・テレグラフ」紙でこう語っている。「これはバンドじゃない。モンキーズの音楽を主軸としたエンターテインメント活動なんだ。それが分かるようになるまで時間がかかったけど、なんて素晴らしい音楽なんだろう!」

 

「そして、僕たちの経験はなんて突飛で素晴らしい旅なんだろう」。

 

 

https://www.nzherald.co.nz/entertainment/news/article.cfm?c_id=1501119&objectid=11753532