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何を話せばわからないままカシスフィズを飲んでいると羽柴さんから声をかけられた。
「岡川さんはどうして今の会社に入ったんですか?」
「私、未だに実家なんです。だから実家から近いとこがいいかなって思って。販売の仕事も好きだったしね。羽柴さんは?」
「俺ですか?俺は子供の頃から色んなうちを見るのが好きだったんです。」
そう言ってジャケットの内ポケットから煙草を出した。私はその煙草から目が外す事が出来なかった。それは池田先生と私が吸っている煙草と同じ銘柄だったからだ。
私が煙草から目を離す事が出来ずにいると羽柴さんは怪訝そうな顔をして、
「どうしたんですか?」
「ううん。私が吸ってる煙草と同じだなって思って。」
バックから煙草を出して羽柴さんに見せた。そして細いジッポで火をつけると深く息を吸い込んだ。
「煙草を吸う女は嫌いですか?」
意外そうな顔をして羽柴さんは、
「そんな事ないですよ。自分でさえやめられないのに女性が吸うのが許せないなんて自分勝手でしょ。でもやっぱり女の人ですね。ジッポがかわいい。」
笑顔で話す羽柴さんの笑顔はやっぱり池田先生にどこか似ていた。
「羽柴さんは100円ライター派?ジッポ派?」
「俺はこっち。」
私に見せてくれたのはイルカがプリントしてある私より大きなジッポだった。
「イルカ柄なんて可愛いじゃないですか。」
「これも子供の頃からイルカが好きだったんです。」
そしてあの池田先生に似ている笑顔を見せた。
『――岡川、お前が悪いわけじゃない。大丈夫、先生は岡川の味方だからな』
あの日、池田先生が私の目をジッと見つめながら力強く告げた言葉が、ふと耳の奥で再生される。それから程無くして嫌がらせは収まり、卒業まで平穏に過ごすことが出来たのは、池田先生のおかげだといっても過言では無いと思う。
「……羽柴さんは、千葉の方ですか?」
「いや、僕は鹿児島なんです。就職で千葉に来て、先月その会社を辞めて……という具合です。」
そう言うと、羽柴さんは煙草を取り出し、ジッポを鳴らしながら手慣れた様子で火を点けた。実は先月、千葉市内にある中堅の不動産会社が倒産したのだが、森
田課長の話によると、羽柴さんはそこで営業マンとして勤務していたらしい。そして、社長の知人からの紹介で中途入社……という運びになったそうだ。
「大変でしたね……君津に来たことは無かったんですか?」
「今回、初めて来たね。千葉市から引っ越さなきゃいけなかったし、不動産屋だけども、君津の物件を探すのに苦労したよ。」
「一人暮らし向けの物件は少ないからね……。」
「そうそう。」
ハハハッと笑いながら、羽柴さんはビールを一口含んだ。横顔や仕草を見れば見るほど、池田先生の姿と重なってしまう気がして、私はドキドキしながらカシスフィズを一口飲んだ。
「私も一人暮らし、してみようかな。」
呟く様に言った言葉は羽柴さんの耳に届いたらしく、羽柴さんは私の方をくるりと体ごと見ると、
「それがいいですよ、絶対。今まで見えてなかった事が見えてくるから。」
…。今まで見えてなかった事。
その言葉はとても魅惑的でもあり、不安に思う事でもあった。
「羽柴さんは何が見えたんですか?一人暮らしを始めて。」
ビールを一口飲んでから彼は、腕組みをしながら、
「自
分の時間が取れる自由と、親のありがたみかな。うちのおふくろは心配性だから、帰るのがちょっとでも遅くなったらすぐ携帯に電話してくるタイプだったし。
まぁそれは今でも変わらないんだけど、実家にいる時より電話の回数も減ったし。でも帰ってから電気が点いてない部屋に戻って夕飯が準備してないとおふくろ
のありがたみが分かってきたし。」
「ふ~ん。」
一人暮らし家かぁ。秋穂が言った通り何かが変わるきっかけになるかもしれない。だって秋穂は『間に合うでしょ』って言ってくれたから。
「ね、岡川さんも一人暮らししてみたらいいんじゃないですか?一人暮らし用の物件なら俺が探しますから。」
そう言って羽柴さんは笑った。
「考えてみます……フフッ。」
“歓迎会”という看板を掲げた“いつもの飲み会”の中に、ポツリと残された二人。明日も仕事があるというのに、社長を筆頭にゲラゲラと陽気に笑いながら酒を酌み交わしている。
「いつも、飲み会はこんな感じなんですか?」
「そうですね。社長も課長も……まあ、楽しいですよ。」
「いいなあ……俺、前の会社は忘年会すら無かったですよ。社長がお金に凄い細かい人でね。」
すると、羽柴さんは苦笑いを浮かべながら、前の会社のことをそっと話し始めた。
「……表向きでは資金の都合で倒産、ってことになってるんですけど、実は夜逃げされたんです。」
「えっ!」
驚愕の事実を知り、思わず目を見開く。うちの社員でさえも“資金繰りが上手くいかずに倒産した”としか耳にしていないはずだ。この事実を知っているのは、おそらく社長だけだろう。
「給料未払いで消えちゃったんで、明日からの生活をどうするか……っていう人もたくさんいました。俺も鹿児島の両親には、まだ本当のことを言えてないんです。」
ふうっとため息を吐きながら、羽柴さんは煙草に火を着ける。その横顔からは、堪え切れない疲れがにじみ出ているような気がした。
「それで、どうですか?こっちに来てみて。」
「住めば天国って言うじゃないけど、いいところですね。空気は美味しいし、干し魚は旨いし。」
「なんにもない所ですけどね。」
ようやく緊張がほぐれてきた私はフフッと笑った。
「でも電車通勤でぎゅうぎゅう詰になるよりかいいですよ。」
ビールを焼酎に変えて羽柴さんは笑った。彼も酔いが回ってきたようだった。
「岡川さんは彼氏とかいないんですか?」
「この歳になって恥ずかしいんですけどまだ彼氏はいません。」
池田先生の事まで話そうと思ったけど、今日会ったばかりの羽柴さんにそこまで話す必要はないと判断して初恋の人の事までは話さなかった。
「そういう羽柴さんは?」
「俺も今はフリーです。でも良かった。岡川さんがフリーで。」
…。それってどういう意味だろう。私を早くも一人の女性として見ているのだろうか。それとも同じフリーの人がいて安心したのだろうか。だがそこまでは聞く事は出来ず曖昧にうなずいた。