小料理屋 桜 31話 | Vicissitudes de richesse ~七転八起~

Vicissitudes de richesse ~七転八起~

人生、転んでも立ち上あがれば勝つんですよねぇ
だから、転んでも立ち上がるんです
立ち上がって、立ち上がり続けるんです

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店に戻っても雄二は口を開こうとしなかった。

今日は閉店と決めていたので表にのれんも出さず、店の中から鍵をしてしまった。

二人っきりになるのは店を開けている時にもあったが

完全に閉店している状態で二人っきりになると何を話しかけたらいいのかわからなかった。

雄二は右手に持っていた盃を額に持ってきて下を向いたままボソリと呟いた。

「病院って苦手なんだよ。」

その言葉は子供の様だった。

てっきり怒ってるとばかり思っていた桜子は、

「誰だって病院は苦手よ。好き好んで病院に行く人なんてそんなにいないわ。」

その言葉に対して雄二が言った言葉は一言だけだった。

「死んだんだ。」

小さな声だったので桜子は聞きそびれてしまった。

「え?」

食器を洗っていた手を止めて雄二の方を見た。

まるで過去の事を思い出す様に遠い目をして雄二は全く違う話をし始めた。

「パリっていうところは家賃が高いんだ。

観光地って言うのもあるけど、美術に関する勉強をする若い奴とかさ留学してるから。」

今雄二が呟くように言った言葉が気になったがここは雄二の喋りたい事を

喋らせる方が雄二の為として黙って聞いていた

「そうなの。」

雄二は手酌て新たな酒を盃に注ぐと、

「俺もそうだった。下調べはしてパリに行ったつもりだったけど

あんなに家賃が高いとは思ってもいなかった。

だから今でこそ当たり前の住みかたかもしれないけど

大学に行ってシェアハウスとして住むルームメイトを探した。」

パリの事をここまで饒舌に話すのは初めてかもしれない。

「そこで会ったのがニコラスだった。」

「ニコラス…。さん?」

「そう、ニコラス・ディビス。アメリカ人の美術を学びに来ていたアメリカ人の俺と

同い年の男だった。」

雄二がルームメイトとなったニコラスの事を過去形で呼んだのが気になった。

「今でも交流はあるの?」

その言葉にしばらく黙ったあと空になったとっくりを桜子に渡すと

新しい酒を求めた。

桜子は黙って酒を入れ雄二に手渡した。

「ねぇ、何か食べながらじゃないと胃にもたれるわよ。」

「いや、いい。今は飲みたいんだ。」

しばらく桜子と雄二の間には沈黙と言う風が流れていた。

その風を静かに振り払ったのは雄二だった。

「ニコラスはいい奴だった。誰にでも優しくって、絵の才能もあった。

皆がニコラスの事が好きだった。

一緒に住んでる俺も何故か誇らしい気分だったよ。

順風満帆に生活していると思っていた。だけど…。

頭痛がするって言う日が何日か続いて俺は病院に行くべきだと言った。

だけど外国人が病院に行くっていうのは保険が適用されないから

あいつは行かなかった。俺は…。俺は無理にでも病院に連れて行くべきだったんだ!」

雄二は盃をカウンターに叩きつける様に置くと冷静になろうと一呼吸置いた。

「脳腫瘍だった。倒れたかと思えばすぐにあいつは逝ってしまった。

もっと話したい事ややりたい事があっただろうに。」

雄二から聞くその初めての事に桜子は言葉を失った。

こういう時なんと声をかけたらいいのだろう。

人は突然、未来という輝かしいものから断絶されてしまう事がある。

それは本人にも周りにも気づかせる事なく予告もなくやってきてしまう。

桜子は黙って雄二の隣に一人分のつまみと箸、そして外国人客にも人気の

スパークリング清酒のすす音を置いた。

「陰膳って訳じゃないけどね。きっと雄二さんともっと飲みたかっただろうから。」

雄二は黙って隣にいたであろう、ニコラスの為に盃を掲げた。

この様に陰膳をしてくれた桜子にも感謝の気持ちも込めて。