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大森の静かだが逃げ道のない言い方に康之は少したじろんだ様子だった。
だが康之は大森の方に身体を向けると正面向かって
「確かに僕は桜子を泣かせた事もあります。
ですが、今は結婚当時に付き合っていた女性とも別れましたし
何より、僕が桜子を幸せにしてやりたいと思ってます。
桜子が僕を恨んでいても、何年かかっても桜子と一緒にやり直したいと思ってます。」
大森は、飲んでいた酒を強くカウンターに置くと、
「それは君の勝手な行動だ!」
とにらみつけた。
桜子もこれ以上、大森と康之が一緒に店にいるのは無理だと判断して
「大森さん、もういいんです。この人には帰ってもらいますから。」
まず大森に康之を店から出て行ってもらう事を告げ、
次に康之に、
「これ以上話してると美味しいお酒はお互いに飲めないわ。
帰ってもらえる?」
康之は分が悪いと思い、大人しくカウンターから腰を上げた。
「今日は帰るよ。でもまた来るから。」
康之が帰ったあと、大森はため息とともに、
「ごめんよ、桜ちゃん。僕もちょっと感情的になり過ぎた。
だけど、もし彼がまたこの店に来ても入れる事はないと思うな。
彼は桜ちゃんにとっていい人物じゃない。」
「…。そうですね。」
桜子は康之が使った食器を下げながら一言だけ言った。
「僕は桜ちゃんと藤堂君と堺君がどういうつながりがあるかはわからない。
でも堺君の方が桜ちゃんを幸せにしてくれると思うけどな。
それは僕がこないだ行った個展での彼の表情を見たらわかる事だよ。
パリに黙って行ってしまったのはきっと若気の至りだろう。
だけど今は彼はしっかりと地盤を築き上げてる。
仕事にちゃんと責任も持ってる様だしね。」
それは桜子も感じていた事だった。
内山の個展に行った時、客と話している雄二の表情は明るく自信に満ち溢れていた。
大学時代に見せていたあの笑顔を思い出す程に。
桜子は食器を洗ってカウンター後ろに片づけると、大森に頭を下げた。
「さっきはごめんなさい。二人っきりになったら何を話したらいいか分からないから
いて下さいってお願いしときながら、大森さんには不快な思いをさせてしまって。」
「いいんだよ。二人っきりになりたくない気持ちもわかるしね。
じゃぁ、飲み直そうか。桜ちゃんも一緒にさ。桜ちゃんはひめぜんが好きだったよね。
新しいの開けても構わないから。」
「ありがとうございます。」
ひめぜんは大学生になった時に初めて飲んだ日本酒だった。
軽めの飲みごたえで女性向けの日本酒としても有名だった。
「大森さん、おつまみはどうされますか?」
大森の皿はすでに空になっていた。
「何かお勧めある?」
カウンターに並んでいる大皿に盛られてる料理を見て桜子は牛肉のしぐれ煮を選んだ。
「ちょっと味が薄いかもしれませんけど、お酒には合うと思います。」
「桜ちゃんもお腹すくだろ?何か食べたら?」
「いえ。夜食べたら太っちゃうから辞めときます。」
康之が帰ってからようやく笑顔で大森と話せる様になった桜子だった。