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加納が帰った後、美穂は放心した様にカウンター席に座り込んでしまった。
その美穂に桜子は水を差しだして、
「大丈夫?」
と心配気に聞いた。その声にハッとした様に振り向くと立ち上がって深々と頭を下げた。
「あ、ありがとうございました。」
「美穂ちゃんにはちょっと刺激の強すぎるお客様だったわね。」
桜子は思わず微笑みながら妹を諭す様に言った。
美穂は下を向きながら、
「自分でもわかってるんです、このお仕事が向いてないって。
でもどうしてもお金が必要で…。」
本当はどんな理由で金が必要なのか知りたい気もしたがそれは、美穂のプライバシーの
問題だろうから聞かなかった。いずれ美穂が話す気になった時話すだろう。
「梓ママには連絡した?」
「あ、まだです。」
「心配してたから電話をした方がいいわ。」
美穂は立ち上がると桜子達に一言挨拶をしてから店に電話をかけた。
「美穂です。ママお願い出来ますか?…。はい、はい。わかりました、すぐ戻ります。」
携帯を切ると、
「取りあえず店に戻る様にとの事でした。色々お世話になったのにすぐ店に戻る形に
なってしまいますけど、今日はこれで失礼します。」
「いいのよ、気を付けてね。」
美穂の様子を見ていた村木がコートを取って、
「僕はこの子を送っていくよ。途中であの男が待ってるかもしれないから。」
「いいですか?すみません。」
桜子の方から礼を言って美穂も頭を下げていた。
「じゃぁ気を付けて。」
「おかみさん、また僕はここに戻って来るから勘定はそのままにしといて。」
「わかりました。」
一瞬、美穂の様な子は桜子の店の方が合っている様な気もしたが
それは梓の店から人材を取ってしまうという事になる。
だから桜子からはその事を言う事は出来なかった。
一旦、村木の残したつまみの皿などを洗っていると、今度は雄二が来た。
「雄二さん…。」
今度雄二に会ったら康弘に桜子がここで店を出してる事を教えた事を
責めようと思っていたが、いざ本人を目の前にすると桜子の性格上出来なかった。
雄二も何か言いたげだったが結局何も言わず昨日と同じ席に座った。
桜子も何も言わず黙って昨日雄二が飲んだ花美蔵を升酒にして出し、
つまみには紅白なますを出した。
黙って飲んでいた雄二に桜子は一言だけ呟く様に教えた。
「来たわよ、康弘さん。」
升酒を飲んでいた雄二の手が止まり桜子の方を見た。
そこで初めて桜子も雄二の方を見て、責めるわけでもなく少し自傷めいた顔をして
「グルメ雑誌を見て私がここで店をやってるのを知ったなんて嘘ついて…。」
それ以上は言えなかった。言うと本当の嫌味になってしまいそうで。
「…。ごめん。それであいつなんだって?」
「やり直さないかって。今更遅いのよ。あんなにたくさんの女性と浮気しときながら。
雄二さんも康弘さんの事を友達だと思って大事にしてるならあの癖は何とかする様に
言った方がいいかもしれないわよ。じゃなと私みたいな女がまた増えるだけだもの。」
雄二は喋る代わりに紅白なますを口に運んだ。
「桜子、おわびの代わりにこの酒、付き合ってくれないか?」
黙って桜子はしばらく雄二を見ていたが、ふっとため息を短くすると、
カウンターの後ろのグラスを取って、
「じゃぁこれで仲直りね。」
そう言って、普段の客に誘われた時に飲む量とは大違いのグラスに並々と注いだ
花美蔵を一気に飲み干した。
その姿を見て、雄二は何故か笑っていた。
「何よ。」
「いや…。桜子も酒が強くなったもんだなぁって思ってさ。
大学時代の飲み会じゃカクテルを2~3杯飲んだだけで俺に
「気持ち悪い」って愚痴を言ってたのにさ。」
桜子はさらにグラスに新しい酒を注ぐと、
「そりゃ、こういう仕事ですからね。お客さんからのお酒のお誘いだってあるわ。
あれ位で気持ち悪くなってたら仕事にならないもの。」
他の客の前では大人しい桜子だが、もしかしたら気の強い女性なのかもしれない。
それを大学時代からの友人である雄二の前では素直な性格になってしまうらしい。
「今日はお客さんは?」
「さっきまで常連のお客様がいらっしゃったわ。でも知り合いの店の女の子を
店まで送りに少し出てる。厄介なお客様と一緒だったから、その子。
でもすぐ戻ってくると思うけど。お店、近いから。」
そこまで言うと村木が襟元を抑えながら戻って来た。
自分がいなかった短時間に新しい客がいたのにも驚いていたが
桜子がグラスに並々と酒を注いで飲んでいたのにも驚いてる様だった。