今は言語学を勉強中。
哲学を学ぶにあたって、言語の側からアプローチを試みる。
それと合わせて、ラテン語とフランス語をやっております。デカルトを読むため。
古典ギリシア語もいつかやる予定。
私の今の興味は、予備校生時代にお世話になった佐藤数馬先生の専門に近い。
佐藤先生は、言語学と思想が専門でした。
懐かしい。
言語って面白い。
言語を客観的にみること自体が言語に対する付き合い方の誤りなのかもしれないけれども。
哲学も謎だけど、哲学を語るための言語も謎。
言語や解釈に正しさなどあるのか。
何故、言語がコミュニケーションに使われるのか謎だし、何故相手に伝わるのかが謎。
ソシュール的に言えば、ラングが共通してるからだろうけど、哲学的に言えば、言葉が相手に伝わること自体が不可能であるとなりそう。
役所の人間として、出来ることを考えたときに言語を学ぶということになる。
常に全体を把握することを要求されるので、通時的にも共時的にも状況を知らなければならない。
判断力が求められる。
哲学は、判断力の構造を知るためのものでもある。それならば、哲学を現実に応用しなければならないのではないか。
今、何をすべきか。
それを問う前に、今抱えてる問題は何かを問わなければならない。
問題とは、現状と目標との間にあるギャップのことである。
基本的に、目標が有る時点で問題が発生するのであるが、インセンティブと言い換えても良い。言語の問題を考えてみよう。
言語が理解できないと、異質なものとしてそれを排除する傾向にある。
多様性を受け入れるためには、語学は必要不可欠なのだ。
それでは、理解できるできないの線引きはどこにあるのだろうか。
それは説明できるかできないかにある。
それでは説明とは何だろう。
説明とは、発話者の意図を汲み取ること、すなわちハイデガー的に言えば、覆いをとることに他ならない。
その覆われているものは何なのだろう。
覆いをとること自体が問題を解決することであり、すなわち、覆いをとることができないものを排除する傾向にあるのである。
それが言語の問題であろう。
それならば、まずは日本語を解明することから始めたい。
日本語を話すのも、慣習や文法に従って話されている。
それはある一定の共通了解があるため、相手に伝わるのである。この共通了解に外れた言葉は相手に通じない。このズレを私は研究する必要があるのではないか。差異とはつまりズレである。この違和感はどのように感じるのだろうか。
そこにはある基盤がある。
デカルトも言うように、疑うことが超越論的態度に移行するための手段である。
疑うもの自体は、基盤である。
人はなぜ疑うのかの答えがここで得られた。自分の属する環境に異質なものが入ってくるため、である。
哲学は、常識から離れていく。
言語の問題は、哲学の問題でもあるのかもしれない。差異をどう捉えるか。差異と闘うこと。
しばらく考えてみたが、多様性とは、シェーラーの言うように、価値を理解するということではなかろうか。
肯定するということ。
価値を理解することこそ、覆いをとるということではなかろうか。
ソシュールは、価値は全体の中で決まると言っている。
そこで次に私が向かうのは、国ごとの差異である。外国の地に降り立った時、生まれた国の特色は聞かれるだろう。自分が生きてる世界がどういう世界なのかを知らなければならない。日本という国を共時的かつ通時的に把握していき、自分との差異を確定させていく。大学の教授も、違和感を大切に、と口を揃えて言っていた。
ようやく休みなので、土日は研究に没頭したいと思う。