おれぁなんたってせっかちだからよ、
メシ屋に尻落ち着けたときなんかに、ちっとも注文品が来なかったりするとイライラして店員を呼びつけて「まだ~?」なんて言ったり「いつまで待たせんだよ」とか怒鳴りつけたり「はやくしろよ、もうこねーぞ」とかイチャモンつけたりする ・・・
ような客を見ると、イライラしてぶっ飛ばしたくなるんだ。
メシくれーゆったり泰然として食いやがれってー話しだよ、文句言うんじゃねーこんなろーめ。

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園
「ケチ」と言われるほど屈辱的なことはない、とぼくは思ってまして。
だからそう指差されないように日々を振る舞ってるつもりです。
それが自尊心というもの。
お隣の大国とわが国の関係がぎくしゃくしてますが。
これは、ぼくは両者の自尊心のありどころの問題だと考えてるのです。
わが国のマインドとしては、他者とつき合うとき、極力摩擦を避けようとつとめます。
相手の身をおもんぱかって、ときにバカみたいな自己犠牲を払ったりもし。
つまりこれが、思いやり外交、というやつ。
西洋は「罪の文化」、日本は「恥の文化」といいます。
西洋では法が絶対的な価値で、そのルールに照らして人生の方向を決めます。
一方、日本は、その行為を誉れと感じるかどうか、を指針に生き方を定めます。
法よりも名誉が重んじられる、サムライ文化。
わが国民は、恥をかかぬよう、ヒトサマから後ろ指を指されぬよう、厳格な理性の価値観によって行動してきたわけ。
ぼくらはその道徳観をこそ誉れに思ってて、そのためにソンをすることはあってもかえりみたりはしません。
さて、お隣の大国にはそんな考え方はツユほどもない。
彼らは「ソンをさせられることほど屈辱的なことはない」という、わが方から見たらおよそ理解のできない自尊心を持ってます。
拡大欲に取り憑かれてるといっていい。
彼らほどの商売上手もいないが、言いかえれば、彼らほど「欲しがる」民族もいない。
そのあたりの自尊心のありようの違いで、国際社会と噛み合わず、文化摩擦をたびたび起こしてる感が否めません。
ナントカ諸島をめぐる対応でも、わが国側は摩擦が起きないように「自国民を(!)」島に近寄らせない、という信じがたい配慮を見せてるわけですが、あちらは大きな声を出し、土足で上がり込み、腕力をひけらかし、どこまでも図に乗って恥じ入るということを知らない。
このグローバル社会ではずうずうしいものが勝利する、という信仰に取り憑かれて、相手の身に立ってみる、という思いやりが皆無。
つまり「ずうずうしくありつづけること」があの国の自尊心と見てとれます。
きっと彼らは「ケチ」(ぼくがオノレの自尊心にかけて相手に言わせない言葉だ)と卑しまれても、ぜんぜん平気どころか、ほめ言葉と捉えてしまうにちがいありません。
価値観の違いとはいうけれど、ここまで道徳観・倫理観が違ったら、もうつき合えねんじゃね?とあきらめたくなります。
「恥」というものを教えてさしあげたい。
ただ、わが国の指導者たちもそれを知ってるとは思えないので、もうどうしょっもないのでした。

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口はばったいけれど、「いかに生徒さんにソンをさせないか」だけを考えて工房を転がしてるツ・モ・リ。
自分が得をしないわけにはいかないのがアキナイというものだけれど、やっぱこんなサービス仕事(?)をしてる以上は、相手にこそ得をしてほしい。
生徒さんを差し置いてうっかり得でもしようものなら、恥じ入っちゃうよ。
でもまあ、生きるってことはそういう最低限のそろばん勘定は必要なわけで、だけれど、自分がソンをして周囲が幸福になるのなら・・・つのは自虐的すぎるとしても、つまり、得をしすぎないですませられるものならば、と考えたい自分がおり。
それは、生まれ育った環境、というより、両親にそういう価値観を植えつけられたかららしい。
息子にソンばかりさせる両親に、感謝。
とにかく工房は、金勘定よりも、来てくださるヒトビトの気持ちだけをおもんぱかって展開されておりますツ・モ・リ。
という考えなものだから、ある日突然に工房に足が向かなくなってしまう生徒さんを思うと、忸怩たるものがあり。
どこが悪かったのだろう、と反芻してはみても、そこは相性だの、疎通の行き違いだの、各個の事情だの、様々な要素が絡んでてしょうがないのかもしれない。
だけど工房側としては、お互いの関係はただの教え学ぶの素っ気ないものでなく、人間性まで通じ合えるものを醸成しようと努力してる自負もあり。
なので、連絡がチョキンと途絶、という事態には、当惑と無力感おびただしいものがあり、その心持ちの理解には大変な徒労感がある。
ただ、最初に述べた損得勘定への無頓着はさすがに口はばったいけれど、次のことは言えるよ。
すなわち、「おらーもうけようと思ってこの仕事をしてるんじゃなく、みんなにしあわせな時間を過ごしてもらって幸福感ってやつを持って帰ってほしいって、そのことを最大に願って、このバカバカしいシステムで工房を切り盛りしてんだぜ」ってことは。
さいわいなことに、うちの工房は誰も彼もがいいひとで、仁義も作法も知ってくれてるし、打てば響いてくれる人物ばかり。
そのことに感謝の気持ちを覚えつつ、それに応えて少しでも恩が返せれば・・・
と、考えてるうちに、はて、得をしてるのも、しあわせをもらってるのも、さては自分の方ではないか、と思い至る。
こんなにいい人生を歩ませてもらっていいんだろうか。
生かしてもらってるそのこと自体に感謝したくなる。
そして、ぼくを生かしてくれてるものは生徒さんたちである、とはっきり自覚できはじめた今日この頃。

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ふと考える。
歳を重ねるにつれて、なぜダジャレをつくる能力が向上するのか・・・と。
で、最近考えたやつ。

フリオ・イグレシアス
「ナタリ~、ナーラーナーカッタリ~」

サッカーダジャレ
「もうーいい~かい」
「モウリ~ニョ」(レアル監督就任記念)

ついでに古いやつ。
15年ほど前にオレが考えて誌面で発表したはずなのに、最近若手お笑いコンビが使ってるやつ。(あるいは同発想か?)
篠原涼子
「いーとーしーさと、せーつーなーさと、いーといしげさと~」

最後に、大学時代の先輩の作
ササの葉さらさら
「ばーばーのー手ーザ~ラザラ~」

今日は、こんなところです。(筑紫さんふうに)

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「リポビタンD」のCM、おかしない?
二人がかりでどう抱え上げたら、あの大木が垂直にそびえ立ち、それがさらにあちら岸に倒れて丸太橋が渡るのか、理解できんのじゃが。
あらゆるショットでの力のベクトルがおかしいぞ。
テコの原理でと解釈するなら、ひとりが抱え上げたらひとりは押さえつけなきゃ力点と作用点の関係が奇妙なことになるし、力ワザでというのなら、ひとりが小人でひとりは巨人でなければ物理的に整合しない。(二人が同背丈なら、大木を一緒に肩に担ぎ上げたところで水平に持ち上がるばかりで、垂直角になんて傾き得ないもんね)
さらに、この位置関係で、二人ともが崖下に落ちんばかりになるショットの意味がわからん。
この「橋渡し」の作業に、クレバスと平行になる瞬間など想定し得んじゃろ。
ひとりが支点となり、もうひとりが横位置の大木を向こう岸に向かって投げた、ということなのか?
だとしたら、その説明ショットこそ欲しいところではないですかー!
基本設定が「二人は超人」ってことなのか?
だったら、この大仕事の後に飲むリポビタンDの意味づけはどういうことなのか?
仕事の前に飲んでたら、まだ意味がわからなくもないのだが。
ツッコミどころ満載なり。
・・・と思って、今ネットでリポビタンのこと検索したら、ケインと一緒にやってるあのもう片っぽ、山口百恵と三浦友和の息子~!?
知ってた?ね、知ってた?
いや~・・・こまるね~・・・

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試聴買いの上に、ライナーノートも入ってなく、わずかな情報も英語なので、どんな制作プロセスを経たものかまったくわかりません。
内容は、スウィング・ジャズの音源をデジタルに再構築し、過剰とも言えそうなグルーブ感に仕上げたサンプリングもの。
1930年代あたりの古い音(クラリネットを主にしたアンサンブル、あるいは歌声)を採取してるようにも聴こえるけど、あるいはそれふうに新しくつくったものを使ってるのかも。
だけどエラ・フィッツジェラルドの肉声なんかは当時のものだし、遠く聴き覚えのある音の断片もまざってて、音の出所・氏素性はわかりません。
この音らがいちいちキャッチーで耳に残り、イラッとくる反面、愉快な気分にさせられます。
そんな音源がデジタルなリズムにのってループし、ケレン味たっぷりにたのしいスウィング感をかもしてます。
ファットボーイ・スリムのあのキッチュで異形のノリから、バカバカしさを取り払ったテイ、と言えばいいのか。
折り目正しく、節くれ立たせず、ジャズのトラディショナルなスタイルを残したまま、音をサンプリングさせる仕事っぷりには拍手。
たぶん、几帳面でオタクな人物が、古いジャズに敬意を払いながら、楽しんでつくったと思われる作品。
工房の空気が弛緩してるときに聴いてみよう。

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最近のワカモノの文章力はあなどれない。
・・・と思ってまして。
メールのやり取りやブログなんかで磨かれ、発達したレトリックには、ちょっと目を見張らせられるものがあったり。
確かにネット文化に浸食された日常を送ってると、ちょこちょこと文章を編まざるをえない場面が時々刻々発生します。
こうして言語文化ってのは多様に多角に枝葉をひろげていくんですね。
昭和世代のコミュニケーション手段といえば、もっぱら電話でした。
ぼくらは口語によるコミュニケーションをめいっぱいに活用したために、かつてのように、あるいは今日のように、日々文面を書き連ねなきゃいけないような必要がありませんでした。
いわば、直筆の手紙による伝達文化が衰退した時代でした。
このあたりで言葉の構築能力というものが失われてしまったのかもしれません。
そのせいなのか、文学が口語調の粗悪なものが主流になって、文学者・文豪などという大人物が姿を消してしまった時代でもあります。
そこからさかのぼった太平洋戦争世代は、すばらしい書きものを残してます。
文豪たちばかりでなく、市井のヒトビトによって編まれたものがすごい。
盛夏になると報道なんかでよく耳目にする彼らの毛筆による文面は、「これを伝えなければ死んでも死にきれぬ」的な、いわば乾坤一擲の魂の震えが走ってて、揺さぶられるものがあります。
その深い知性、研ぎすまされた感性、高い格調・・・
現代人がどんなものを書いても、あの時代の切実な思いを乗せた文章にはかないません。
今の時代は、言葉がインフレになってます。
冗舌だけど、軽薄。
言葉を親指で打ち込むことによって発達した現代社会の言語能力ですが、せっかくのこの文化はネットの中だけで通用するものとなりつつあります。
複雑に発達した言語感覚は、記号の読み解き合いに落ち入りそうな予感があります。
その世界にひたりきった反動として、最近のワカモノは、リアルな現場におけるコミュニケーション能力を圧倒的に喪失してる印象です。
小さなスクリーンの中で文章を組み立て、打ち込み、送信することはできても、生身の人間と対峙すると、適応できません。
ネットの中であんなにも雄弁に語れるのに、実際の場での当意即妙なやり取りは極めて稚拙。
ネットのおかげで部屋にこもっててもなんの不自由もない代わりに、非常に大切な能力(それは「生きる力」なんだけど)を細らせてる気がします。
草ばかりを食むワカモノは、こうした社会構造で大量生産されてます。
もっと外に出て、酒場の見知らぬ人物の中で揉まれて、たまには言論でケンカでもして(ネット内でのケンカはあんなにも得意なのにね)、知性を、反応力を、生命力を鍛えてもらえ、と言いたいです。
でなきゃ、いかにも文章の達者さばかりが上スベリしてるぞ、と。

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それにしても、と今さらながらに思うのが、自分には旅が必要だ、という事実。
ちょこちょこと出かけたいのだけれど。
それにしても、とつくづく思うのが、器はどれだけ見ても見飽きないものだな、という事実。
今回は信楽という焼き物の郷をたずねたんだけど、歩いても歩いても、器を求めてくたびれるということがない。
それにしても、と心にしみ入るのが、ゆく先々のひとのやさしさね。
話し込めば深く接してくれ、心を尽くせばどこまでも心を開いてくれる。
家の奥座敷まで上げられ、秘蔵の品々を見せてもらったことも一度や二度じゃなかった。
こうした触れ合いがあるから、旅はやめられないね。
それにしても、と逆説的に思うのが、旅ゆく道々のさびしさね。
山頭火という歌詠みさんは、つらいよう、さびしいよう、バカバカしいよう、とつぶやきつづけながらついに生涯を旅に費やしたひとだけれど、しみじみとわかります。
だからこそ、ひとのやさしさに節々でそよがせられるのね。
そして、このさびしさは、思想を育てます。
旅ゆくは自分をつくることなり、とつぶやいてみたり。

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風邪ひいたっぽ。
普段クーラーなしで生活してるせいか、アホみたいに寒い新幹線やホテルの部屋で過ごしたら、いっぱつでした。
「クーラー生活に慣れた子は、自然環境に適応できない」というけど、「クーラーなし生活に慣れた子は、高度文明の社会環境に適応できない」という側面もあるのですな。
ここ20年ほどは、歯医者も含めまったく医者にかかってない原始人類ですが、もろいものです。
お水たくさん飲んで治そうっと(ホメオパシー信奉ではありません)。
しかしホテルのベッドって、なんであんなスカスカになってんですかね?
カサカサに乾いたパンとパサパサレタスにはさまれたベーコンみたいな気分にさせられます。
もっとふかふかパンとふわふわスクランブルエッグに包まれたような、夢心地サンドイッチにしてほしい。
外人さんはほんとにあんな寝具で生活してるんでしょうか?
肉質がちがうから、それでちょうどいい感じなのかな。
ピッシーッとエッジを立てたベッドメイキングも、合理的とは思えません。
どうもぐり込めというの?
かといって、引きはがすとめちゃくちゃなことになるし・・・
とにかく、過ごしづらい。
午前10時に追い出すために、あえて居心地悪くしてるんでしょうね。
旅から帰り着いた自室での「あ~、わが家がいちばん」という一言は、なるほどシリアスです。
もっとだらしなく過ごさせてくれ、ホテルよ。

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