最近のワカモノの文章力はあなどれない。
・・・と思ってまして。
メールのやり取りやブログなんかで磨かれ、発達したレトリックには、ちょっと目を見張らせられるものがあったり。
確かにネット文化に浸食された日常を送ってると、ちょこちょこと文章を編まざるをえない場面が時々刻々発生します。
こうして言語文化ってのは多様に多角に枝葉をひろげていくんですね。
昭和世代のコミュニケーション手段といえば、もっぱら電話でした。
ぼくらは口語によるコミュニケーションをめいっぱいに活用したために、かつてのように、あるいは今日のように、日々文面を書き連ねなきゃいけないような必要がありませんでした。
いわば、直筆の手紙による伝達文化が衰退した時代でした。
このあたりで言葉の構築能力というものが失われてしまったのかもしれません。
そのせいなのか、文学が口語調の粗悪なものが主流になって、文学者・文豪などという大人物が姿を消してしまった時代でもあります。
そこからさかのぼった太平洋戦争世代は、すばらしい書きものを残してます。
文豪たちばかりでなく、市井のヒトビトによって編まれたものがすごい。
盛夏になると報道なんかでよく耳目にする彼らの毛筆による文面は、「これを伝えなければ死んでも死にきれぬ」的な、いわば乾坤一擲の魂の震えが走ってて、揺さぶられるものがあります。
その深い知性、研ぎすまされた感性、高い格調・・・
現代人がどんなものを書いても、あの時代の切実な思いを乗せた文章にはかないません。
今の時代は、言葉がインフレになってます。
冗舌だけど、軽薄。
言葉を親指で打ち込むことによって発達した現代社会の言語能力ですが、せっかくのこの文化はネットの中だけで通用するものとなりつつあります。
複雑に発達した言語感覚は、記号の読み解き合いに落ち入りそうな予感があります。
その世界にひたりきった反動として、最近のワカモノは、リアルな現場におけるコミュニケーション能力を圧倒的に喪失してる印象です。
小さなスクリーンの中で文章を組み立て、打ち込み、送信することはできても、生身の人間と対峙すると、適応できません。
ネットの中であんなにも雄弁に語れるのに、実際の場での当意即妙なやり取りは極めて稚拙。
ネットのおかげで部屋にこもっててもなんの不自由もない代わりに、非常に大切な能力(それは「生きる力」なんだけど)を細らせてる気がします。
草ばかりを食むワカモノは、こうした社会構造で大量生産されてます。
もっと外に出て、酒場の見知らぬ人物の中で揉まれて、たまには言論でケンカでもして(ネット内でのケンカはあんなにも得意なのにね)、知性を、反応力を、生命力を鍛えてもらえ、と言いたいです。
でなきゃ、いかにも文章の達者さばかりが上スベリしてるぞ、と。
東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園