うちの晩飯は、午前1時半ですわ。
よめはんが夜遅くまで会社でがんばってくれてるからね(かといって、家計には一円たりとも入れてはくれないが)。
ンで逆算すると、オレの昼飯は午後6時ということになり、やむを得ず、ひとりで酒盛りという仕儀に相成る。
そう、オレの酒飲みは決して自らが望んでのものなのではなく、システムに強要された受動的なものなんである、かわいそうでしょ。
さて、いったん深くまで酔っ払って、夜更け、酔い覚めの頃に食事の支度。
階下のガレージにご主人様(よめはん)ご帰宅の音を聞くと、飛び起き(わん、わん、わん)、下ごしらえしたものの最終調理に取りかかる。
彼女は洗顔し、部屋着に着替え、5分程度でリビングに姿を現す。
まさにそのタイミングで、テーブル(ちゃぶ台)上には、今完成したばかりの最高のコンディションの料理の数々が並んでるわけだ。
このピタリのシンクロ性には、わが仕事ながら芸術性を禁じ得ない。
さて、わが家のリビング・・・というか、六畳間にカウンターキッチンをしつらえたせいで茶室のようにせまっ苦しくなってしまった空間・・・は、ぐるり食器棚に取り囲まれてる。
そこには三百点は下らないほどの器がストック(スタックか)されてるんだが、結局、普段用に使用してるのは十点程度だ。
しかも陶芸を習いはじめた当時につくった、古くてなじみ深いゆがみ鉢ばかり。
このへんはなんなんだろうね、思い入れってもんかね。
とにかく、これだけうずたかく積み上げられた器の中で、使うのは決まった欠け茶碗ばかりなんだった。
ちなみにわが家では、大皿に盛られたメインディッシュも、めし碗のごはんも、汁碗のみそ汁も、麺類も、グラスの麦茶も、ひとつきり用意するだけの「つつき合いシェア方式」を採用してる。
ハシはさすがにそれぞれ一膳ずつ用意してるが、調理品は全部、ひとつ器からはんぶんこする。
きれいに言えば、分かち合い、そうでない言い方をすれば、互いのばい菌のやり取り、ってことになるか。
しかしまあ、手から手に器を取り交わし合う、ってのはなかなか悪いもんでもない。
「ビスケット一枚あったら(あったら)ジョリーとぼくとではんぶんこ」方式ね(どっちがジョリーかは一目瞭然)。
つか、厳密には、よめはんの残り物を、序列が下のオレがちょうだいする「相撲部屋ちゃんこ方式」といえようか。
それがしはん家の食卓作法というわけなんだった。
美しきかな。
哀しきかな。

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朝っぱらから三時間もピアノを弾きたおし、汗まみれで二時間も昼風呂につかって読書したおし、午後も早よから数時間も酒をあおりたおし、腹をこわして一時間もトイレにこもる。
タイムテーブルが大ざっぱすぎへん?
どこにも出かけない、そんな休日。

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げげっ、一週間ごしにサザやんと向き合ってるわけか。
ゆうべ、また水槽酒場にいってきたよ。


こんな具合に、サザやん姉妹は水槽内を這いまわってるよ。
左から、やんちゃに動きまわる長女、眠そうに起き出してきた次女、そしていちばん右が、閉じこもりがちな三女、ね。
酒場の大将によると、サザやんは二つに分かれた吸盤の部分を交互に動かして、歩みを進めるように這ってくらしいよ。
そしてその奥に隠れたおチョボ口でコケなんかをもぐもぐするんだと。
料理人は、生物をまな板の上でいじくり倒すうちに、科学者の観察眼を獲得するわけだ。
さらにサザやんを観察すると、おチョボ口のサイドには、カタツムリみたいな触覚があるんだ。
サザやんとカタツムリ、この容貌の似たふたりは、異母きょうだいだったんだねえ。
一方は大海原へと冒険の旅に出、もう一方はあじさいの葉の上に活躍の場所を見出したわけだね。
ひとそれぞれだなあ。
だけどその風体を比べれば、海路を選んだサザやんがどれだけ苦労してきたか、一目瞭然だ。
トゲトゲのいかつさは、多くの敵に遭遇し、切った張ったをくり返した証。
敵の攻撃に対してなんらの策も打てない彼女の、「あたいに近づくとケガするわよ」というせめてもの虚勢といえる。
実質、なんの役にも立ってなそうなその容姿は、しかしむしろ彼女の美意識の「表現」として昇華してるんだった。
とんがりながら、ツンツンしながら、しかし彼女は実は、静かに、穏やかに、海底で閉じこもって、芸術表現だけに集中してつつましく過ごしたいんじゃないかな。
いじらしいとは思わんかね?
・・・そんな彼女の想いを汲み取ることなく、酒場の大将は水槽の中に手を伸ばす。
「ツボ焼き」の注文が入ったのだ。
ひとりのサザやんが選ばれ、仲間たちとのサヨナラの時間を与えられることもなく、水面に引き出される。
悪夢のような災厄なのだった、彼女らにとって、人間の存在とは。

おしまい

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ハマグリなんかの二枚貝は、背中側とおなか側の殻を均等に発達させてきた。
丁寧に等角らせんをつくりつづけさえすれば、どれだけ成長しても、合わせ目はぴったりフィットする、って計算だ。
敵に「つけ入るスキ」を与えないですむし、さびしくなったら貝柱に力を入れてすき間をあんぐりと開けば、外界を180度(・・・いや、もう少しワイドか?)見渡せる。
一方、サザやんは、背中側の殻のみを発達させてきた。
「おなか側の殻はどうした?」と訊けば、「ここに持ってるよ」と、例のコインのようなフタを見せてくれるだろう。
彼女は、背中側はバベルの塔のようにかっこよく天に突き上げてつくり込んだが、片やおなか側は、いちじるしい手抜きのやっつけ仕事で、鍋ぶたのように退化させたんだった(だけどこのフタもまた、正確な等角の成長らせんを刻んでるのだよ)。
文豪・開高健は、「凶暴な刀や矢の前で、背中も胸も強度としては大して変わらないのに、つい背中側に信頼を置いてしまうのはなんでなんだろう?」と、防御時にうずくまる本能を不思議がってるが、サザやんもまた試行錯誤しつつ、なおも背中の硬さを信頼し、その思想を展開してきたんだろう。
そうして、背中側は殻に守らせ、おなか側は地球に守らせる、という結論に至った。
鉄壁のディフェンスだ。
ところがこのプランは、トラブルが発生して上下ひっくり返っちゃったときなんかには、絶望的悲劇となる。
カウンターで酒を飲むオレの前の水槽で、ひとりのサザやんが、今まさにそんな状況に落ち入ってる。
ガラス面と、少々のコケむした石ころ、そしてその水底を埋める三角すいの仲間たちの山脈・・・それが、水槽内の環境一切だ。
その仲間たちの上に、ひとりきり、仰向けのサザやん。
すいとすいとでできたくぼみにカッチリと逆立ちの形ではさまって、もがいてももがいても、触れるものなし。
波も立たず、浮遊物とてなく、さりとて下の仲間たちも動いてくださる気配なし。
サザやんはすぐに抵抗をあきらめ、やがて腹蓋をぴたりと閉じて、諦念の境地に引きこもるんだった。
こんなことの繰り返しなんだろうな、サザやんの一生・・・
まだ書けそう、つづく。

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水槽の中で腹這いになってうごめくサザやんを見てると、なんて臆病なひとなんだろう、と思う。
彼女は、能動的な機能を徹底的にそいで、敵から身を守ることのみに特化すると決意したんだった。
「食うか食われるか」でなく、「食うか食われないか」というチョイスでもって、自然は進化をつづける。
食いたいひとは、ひたすら攻撃性を高め、食われたくないひとは、ひたすらディフェンス面をブラッシュアップするわけだ。
後者の極限的典型が、サザやんなどの貝類といえる。
カメの風体も相当に臆病を感じさせるが、まだ彼らは主体性を残してる。
そんなほんの少しの未練をも断ち切り、貝たちは外界へのアプローチをほぼ完全にシャットアウトして、殻に閉じこもったんだった。
その意志の強さたるや。
そこまで徹底的に禁欲できますか、はー。
・・・が、それでも、それでもですよ、サザやんのあの謎のフォルム、ってことになるわけ。
なんでしょう?あのトゲトゲは。
石灰壁を伸ばしてくときに、マイルストーン(一里塚)のように一定間隔にかっこいいトゲトゲを配してくのは、攻撃者へのせめてもの抵抗ってわけ?
あるいは、波間で姿勢を安定させるための合理性、って見方もできなくはない。
だけどここはやはり、彼女の芸術的資質の発露、と見たいところではある。
こんなにも几帳面な相似形に器を育てるひとだもの、おしゃれにも気を使わないわけがない、と思うの。
かくてサザやんは、こんなにもエレガントな外観を手に入れるんである。
あと少しつづけようかと思う。



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「貝はいつも同じ場所に住んでる」という言い方ができる。
自分の成長に合わせて、常にジャストフィットの間取りを相似形につくりつづけるんで、サザやんから見る住まいの風景と住み心地は、生まれたときからずっと一緒なんだった。
おそらく、サザやん自身には大きくなってく感覚がなく、外の風景がだんだんと縮んでくように見えてるのかもしれない。
永遠の相似形といえば、フィボナッチの黄金らせんを思い出すけど、この107度(あまり)の等角曲線はオウムガイあたりが採用してるらしい。
サザやんの巻き込みはも少し勾配が急なんで、それよりも深い角度に成長曲線を設定してるはず。
そうすることによって、地面(岩や浜辺)との接触面を広く取り、とんがりも立てて安定しやすくしてるのかもしれない。
ちなみに107度よりもワイドに曲線を設定すると、巻きがゆるくなり、開いていき、やがて巻き込めないほどの扁平なラインになる。
これを採用したのが、アワビやハマグリ、そしてホタテなんかで、彼女たちは平ぺったく見えても、ちゃんと等角らせんで相似形に殻を育ててるのだった。
逆に、107度よりも小さな角度を設定すれば、とんがりの勾配は鋭くなってく。
サザやんは、100度前後を採用したのかな。
なお、90度まで絞ると、曲線はらせんでなく、円になる。
そしてさらに急角度にすると、らせんはひろがる方向でなく、中心への収れんへと向かう。
これは貝にとっては、間違っても採用しちゃいけない設定だ。
内に内に巻いてったら、収縮してくしかないもんね。
成長のない生涯なんて、やだもんなあ・・・
そのあたりのちょうどいいサジ加減を、自然は知ってるんだね。
さらにつづく。

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「私は貝になりたい」と言ったひとがいて、ひとに生まれてひどい目に遭わされるくらいなら、いっそ海深くの貝になってじっとしてたい、ってことなんだった。
その貝ってのはカキのことをさしてんだけど、カキってのは、なんてザツにおうちをつくるひとなんだろう。
ガサガサの石灰を無造作に塗り込めてるみたいなあの草庵づくりは、なるほど世捨て人に似合いそうな風情ではある。
それに比べて、サザやんのおうちづくりの繊細なこと、そしてその生み出すフォルムのエレガントなことときたら。
酒をちびちびとすするオレの眼前の水槽内でうごめくサザやんは、ほとんど前衛建築家か芸術家と称されていい美的センスを持ってる。
観察するに、彼女は最初、円すい形に生み落とされたにちがいない。
そこからややひねりを加えて石灰壁を伸ばしてく。
やがて筒状の壁を一周させると、回転軸のとこに芯をつくり、そこをらせんの中心として、自らのからだの成長に応じた大きさに増築してく。
円すい形とその中心を通るシャフトをベースに、年々同じ比率で口径をひろげ、石灰壁を積み上げてくわけだ。
この成長曲線は、単純な正比例式=算術級数的じゃなく、一定の比率をカケカケして幾何級数的(「資本論」のあの曲線だ)に伸びてくんで、結果「等角らせん」というフラクタルなフォルムが自然に達成される。
つまり「どの時点をとっても、おんなじ形」という、それは永遠の相似形なんだった。
まだつづく。

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とある酒場のカウンターで、いつものようにひとり飲み。
その目と鼻の先に、サザエやらアワビやらの生けす・・・というか、小さな水槽があるのだ。
これはアホの大将が「マジでか?」というほどの金をかけてしつらえたシロモノで、観賞用と言っていいほど水がきれいなんで、友だちのいないオレは、そのシンプルな生物たちをいつまでもながめて過ごして飽きるということがないのだった。
酒を飲んでると例によって内省的になり、つくづくとひとつの思考がぐるぐるしだすもので、彼女たち・・・つまりサザエやアワビたちを見てると、食欲を越え、あるいはシンパシーなどをも越え、友情に似たものが芽生えてくる。
つまりなんというか、その生活環境がひと事でなくなるというか、感情が移入してしまうのだな。
これはまあ、オレが特有に持つ、ほら、少年のようにナイーブな心のそよぎなのかもしれない。
とにかく、このサザエさんたちは、酒の場でのオレにとっては、食べ物以上のナニモノかなのだった。
まてよ、「サザエさん」というと、ある特定のキャラクターのイメージに支配されてしまいがちなんで、ここは「サザやん」としよう。
今夜は酔っ払ってるんで、明日につづく。

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「優先席(シルバーシート)」に座る勇気が自分にはない。
だけどどのバスや電車に乗っても、ご老体や妊婦、ケガ人を前に立たせて座ってる勇敢な若者がいるね。
彼らはどんな軽蔑のまなざしをその身に浴びても、あざけられてもさげすまれても、蛮勇を振るってかえりみないどころか、まったく「動じる」ということがない。
心頭滅却の境地。
たいした精神力だと思う。
心もからだも老いさらばえてるんだろうね、あと、感性も。
よ、若年寄、足腰よわすぎ。
オレは無理だわ、優先席に座ることだけはできない。
自尊心に触れるもの。
死んでも座らない。
いや、死ぬ直前になら、座ってみてもいいかな。

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吉祥寺の井の頭公園・アートマーケッツに出店した。
野天市は、いろんなお客さんとの出会いがあって面白い。
昨日は、こんなことがあった。
のちに聞くと「横浜から、緑が見たくて井の頭公園まできてみました」という20代の女の子。
その子が、通りすがりにじっとこちらを見てるわけ。
そのうちに意を決したように、「あのう、その本・・・」と、ブースの脇にチョコンと立てかけられた自著「ろくろのツボ」を指差す。
そのときおそらく彼女は、拙著と、わが輩のモヒカン頭を、交互にためつすがめつしてたのであろうか。
「ああ、ぼくが書いたの。ほら、アタマ、一緒でしょ」と言うと、仰天して、「それ、めちゃめちゃ熟読してます。それで電動ろくろも買ったんです。あなたのブログも、訓練校日記「陶芸みち」も読んでます。瀬戸の訓練校も受験しようと思ってるんです!」と言いだすではないの。
もう自分のアイドルを見つけた感じでドッキドキ興奮状態の彼女の姿にうれしくなって、しばし話し込んだ。
だけどサインもいらないらしいし、作品もいっこも買ってはくれなかった。
そういうやつはべつに必要ないらしい。
そうして彼女は、スキップを踏みながら横浜方面へ消えてった。
ちゃんちゃん。

もういっこ、今度はクソムカつく話を。
隣の隣のブースに、ミニスカートの女の子がポストカードのお店を出してたの。
だけど風が強い日で、突風が吹くたびにカードが飛んでったり、ボードが倒れたりして、難儀してたのだ。
それを直すためにしゃがみ込むと、スカートの裾が危うい感じになるのだな。
が、ふと、そのブースの真後ろのベンチを見ると、そんな彼女に向けて一心に携帯を向けてる男がいるわけ。
30代の下ぶくれの小太りの、見るからに風采の上がらないオタクっぽい男。
もうそれはどう見たって「カメラ小僧」なんで、常にトラブルを求めてるこの心に火がつく。
この野郎、シッポをつかんでやれ、と思って背後に回り、確認しようと試みたよ。
だけどその数分はちょうど具合の悪いタイミングだった(つまり風が吹かなかった)ので、獲物を諦めたのか、男はチャリで去ってっちゃった。
ちー、取り逃がしたり、と思ってると、なんとこのマヌケ野郎、数分後に再びノコノコと現れたではないの。
しかも、ミニスカ女子の店の真正面に。
野郎、ポストカードを見てんのか女子のナマ足を見てんのか、あまりに気持ちわりーんで、声をかけてみる。
「あのさあ」と、スゴミを効かせた声色で。
「はい?」男、ドキッとして振り向く。
「あんた、撮影してないよね?」こわい声。
「えっ、してませんよ」と間髪入れずの回答。
おい、それはないわ、この会話は。
いつ、とも、どこで、とも、何を、とも言ってないんだよ、オレ。
白状したようなもんじゃんね。
めちゃめちゃにらみつづけてやったら、汗だらだらかきながら、足ぷるぷるさせながら、それでも知らんふりしてポストカードをそそくさと選び、さっさと金を置いて遁走してった。
くそ、ぶっ飛ばしてやりゃよかったな。

という一日でありました。
冒険してまーす。

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