「アヤメの間」で浴衣に着替えたが、くつろぐことはできない。
薄闇の古い日本旅館にただひとりお留守番、という図は、気味のよいものではない。
からだも、夜道を歩く間にすっかり冷めてしまった。
(温泉に入りたい・・・)
温泉にきたのだからあたりまえの願望なのだが、これを実行するには少々の勇気が必要だ。
青白い蛍光灯が明滅する飴色の廊下を、人形たちに見守られながら、再び遠征しなければならないのだ。
殿様も浸かった源泉掛け流しの湯。
もう一度堪能したい。
時計はすでに午後11時を回っていたが、オレは首にタオルを巻き、再び闇の落ちる廊下に出た。
しかしその途端、市松人形たちのおびただしい瞳がこちらを見つめる。
身震いのしそうな静謐。
濃厚な異界の気配。
(朝にすればいっか・・・)
オレはあっさりとあきらめて後ずさり、障子戸をぴしゃりと閉めた。
こうなると、酒でも飲まなきゃ過ごせない。
ビールを並べ、ツマミを開いて、長い夜に備える。
室内の古いエアコンは、ゴンゴンゴンゴンと猛烈シャカリキに働くものの、部屋はなかなかあたたまらない。
浴衣一枚では寒いので、布団にくるまり、テレビをつける。
そこで、ある事態に気がついた。
廊下と室内とをへだてる障子戸。
この障子紙が、一区画(つまり四角いっこぶん)だけ破れて、素通しになっている。
まっ白な障子にうがたれたその穴からは、廊下の漆黒が漏れ入ってくる。
気にすまい、と思えば思うほど、その小さな暗闇が気になる。
穴の向こうには、市松人形の「動かぬ瞳」があるのだ。
魔が這い入る気配・・・
思わず布団を頭からかぶる。
しかし、こんなときに尿意をもよおすのが、人間の生理の酷なところ。
なんとこの旅館のトイレは、廊下の先に配置されてるのだった。
(あのババア、ぜんぶ計算ずくでやってんじゃねえかな・・・?)
はじめてその事実を理解したが、膀胱の許容量はのっぴきならないものとなっている。
やむを得ず、小走りに廊下を突っ切った。
トイレの水道からもチョロチョロと水が流れてて、なんの物音もない旅館内で、その音が実に薄気味悪い。
エイッと踏み入り、クモの巣の張る小便器で用を足す。
ほっと息をつき、便器を離れた、しかしその瞬後だった。
ジャジャジャー!!!
自動洗浄の水が流れる音に、心底驚いて、腰を抜かしそうになった。
(ここだけ最新テクノロジーかよ!)
二度と来るかバーロー、と便器に捨てゼリフを吐いて、部屋に駆け戻った。
しかし部屋で過ごす時間も狂おしい。
障子の穴・・・垣間見える廊下の魔の漆黒・・・こちらをのぞく市松人形の目・・・
早いとこ眠りに就きたいのだが、あいにく、ニラたっぷりのモツちゃんこと、ニンニクたっぷりの馬刺しが、精力にてきめんな効果をもたらし、目は冴えるばかり。
結局、長野の湯田中くんだりまで来て、誰とも知れないザコ俳優が鎌倉の古刹を巡る旅番組を延々明け方まで観るハメとなった。
ああ、朝よ。
そなたのなんと麗しいことよ。
ようやく眠りに落ちはじめた午前8時、部屋の電話の呼び出し音で目が覚める。
「あたしゃ10時に出かけたいから、その前に部屋を出てちょうだいね」
ババアの催促だった。
オレは暖簾をくぐって、雪の街角に生還した。
そして、この夜の得がたい経験から学んだひとつの真実を、そっと口にしてみたのだった。
「オレが戦うべき真の敵は、自分の心だった・・・」

おしまい

東京都練馬区・陶芸教室/森魚工房 in 大泉学園