こんにちは。

 

Forestagelことモリシゲです。

 

おかげさまで前回の記事には、「いいね」がぽつぽつと、いつまでもつけていただいていたので、その間ずーっとその「いいね」が収まるのを待っておりましたが、今日はもう待つのをやめて書きたい!と思う出来事が起こりました。

 

 

毎日愛念の気持ちで多くの人に祈り、

少しでも皆の幸せを願い、

少しでも徳を積んで


「積善の家に必ず余慶あり」

(積善陰徳、陰で良きことすることを続ける家には、

その時だけでなく、必ず必ず代々いいことが続く)


の教えを信じて、人知れず良いことを続け、死ぬときに「あれもやれなかった、これもしなかった」

と後悔なんか絶対しないように

 

「一日一生」

で、誰にも知られず陰徳を積んで生きていこうと

思っている、この私の心を

 

 

この私の心を

激しく揺さぶる出来事が起こり、

 

更新したい気持ちが様子見の気持ちを遥かに超えたのでございます。

 

=====

 

私は現在、毎日陰徳を積んで我が家に必ずや余慶をもたらしていただくため、いや今ではむしろ神様のお手助けをすることが嬉しくて

 


お世話になっている多くの人々へ、誰にも言わずにその人の魂が温かくなってもらい、安らぎの心で満たされるよう、神様にお願いするという祈りを一日2回行っています。


今日はその中の強く祈る対象になっているプロジェクトを一緒にすすめるある若者が、私の清い祈りの心を激しく乱すことをやらかしてくれました。


 

その若者とは同じプロジェクトで同じミッションを共有していて、頑張ってくれているので、責任者の私はとてもありがたく、毎日、本当に頑張れ、もう少しだぞ、と愛念の祈りを込めていたのです。彼のためにもう600回ほど祈ったはずです。

 

 

本日、その彼が、仕事のプロジェクトの件で大変な剣幕で文句を言ってきました。私に直接ではなく、プロジェクトのある若手担当者にメールで言ってきたのですが、きちんと私にccでついており、どう読んでも私への攻撃文になっています。その文面は怒りに溢れ悲しいかな、どう見ても私への批判としか取れないのです。

 

私はそのメール内容を読み、悲しみのどん底に叩き落されました。

 

メールで彼曰く

「自分はこのプロジェクトのこの結果に共同でコミットしていることがとても恥ずかしい」

 

「この仕事の結果は、○○をごまかしたところがとても情けなく、恥ずかしい。」

 

怒っていて自分がこのプロジェクトのメンバーであることが恥ずかしいという驚愕の表現が使われています。


彼が指摘しているのはどれもこれも、極めてむづかしい問題で、その問題点はグループで共有してあり、現時点ではこのままゴーサインを出すしかないと思い私も渋々了承した大変微妙な問題です。



彼は残念なことに、その皆が知っているウィークポイントを、さも自分だけが気づいたかの如くに、大問題にしたてて口を極めて罵るのです。しかも自分だけは「恥ずかしい」という同じプロジェクトで働くメンバーに対して究極の禁句を使って。


この「恥ずかしい」には驚かされました。自分もその当事者のくせに他人事のように「恥を知れ」は人としてあり得ない発言なのでちょっと異常な状況に若干のサイコパシーを疑いつつも、どうにもこうにも怒りが溢れてきます。


 

「自分だってそのプロジェクトメンバーなんだから恥ずかしがる暇があるなら自分が責任を感じて解決してくれればいいのに。これまで何の解決策も示せなかったのに、メールで恥ずかしいなんて言わずに、ではどうすればいいのか代案を示せばいいのに。建設的な意見を全く言わずに、いよいよ最終段階になってから手のひら返してプロジェクトの電車を一人で立ちはだかって止め、皆を困らせて一人だけがいいかっこしている!」

 

彼がメールで何度も強調している「自分がこの仕事にコミットしていることは恥ずかしい。」は、チームとしてはどうにも容認ならない誠に自分勝手な発言です。

 

そして、メールではさらに自分が「どれほど美しい人間か」を強調してきました。


「これを言うかどうか、相当迷いました。しかし、私は勇気をもってあえて言わせてもらいます。この仕事は恥ずかしい、情けない」

 

なんだか、物凄い上から目線で、皆が言われなくてもわかっている困難なポイントを他人事のようにあげつらってみせ

 

「このままでは私は恥ずかしい」

「これで仕事だなんていう人間はどうか」

 

みたいなことをなんの代案もないくせに

自分もそのプロジェクトのメンバーで

責任があることをすっかり棚に上げて

自分だけは立派な人を演じてきました。

 

きっと自分の美しさに感動で打ち震えているんだろうと思われます。

 

「ああ、私は、仕事に妥協しない、

ダメなものは、プロジェクトリーダーにすらダメと言い切るなんと素晴らしい人間。選ばれた人間なのだ。」

 

「問題点が見えない烏合の衆とは違い、問題点を喝破する。そして、ここからが一番素晴らしいのだが、それを言い切る勇気があるのだ。」

 

「恥ずかしいものは恥ずかしいと言い切る私。ああ美しい美しすぎる私。」

 

「それだけではない。これによって、傷つくものや、小さな問題点が発生することもわかっているワタシ。どれほどの思慮深さだ。」


「それらを乗り越えて、恥ずかしいの珠玉のお言葉を出せる私。」


「皆にはわかるまい。この私の繊細な心。私もこのメールを書くかどうか悩んでいることは、想像力が欠如した奴らにはわかりもすまい。一言付け加えておこう。これによって、私にどれほどの慈悲の心がある立派な人格者であるかを知らしめておけるに違いない。」

 

こう思っているのはほぼ間違いない。チームワークを微塵も感じず相手を一方的に非難するとんでもない文面です。毎日目をかけ祈っていたその彼が、私が最も忌み嫌う、私の目指す美しく清き世界の反対に住む超ダークサイドの住民であることが明らかになりました。

 

彼の自分勝手な私は恥ずかしいという文面を読み、

まずは怒りがわきました。


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それから、まず、第一に情けないのですが、すぐにこう思ってしまった。

 

「私は、あんたに対して神様に600回も

『仕事でうまくいってほしい。

活躍してほしい。安らぎの心で安心して仕事に取り組んでほしい』

と願ってきた。」

 

「その願いは、神様からのスーパーパワーですでにあんたに届いており、そのおかげで、いい仕事ができてきてかなり自信がついたよな。」

 

「それはそれは陰ながら喜んでいたんだよ。」

 

「それが、全部自分の才能だと思いこみ、まわりが愚かな人間ばかりと勘違いしたのか!」


「そしてついに私のことが恥ずかしいとまでいうのか。どこまで自己愛を貫き通せばここまで堕ちていけるのか?」

 

これほどのあんたを思う強い祈りがあんたには全く通じなかったのか!

 

と激しい怒りが沸き起こってしまいました。

 

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そうなるには理由がありました。

昔を、つらいつらい過去を思い出したのです。

 

実は私の若いころ、この彼と似たような、自分だけが素晴らしいという極端な自己中心的な考え方をする上司Aさんに壮絶なパワハラを受けておりました

 

「いいことがあれば、それは俺だけが偉いからだ」

「悪いことがあれば、それはオマエが悪いからだ。そんなオマエのことが心の底から恥ずかしい。」「恥を知れ恥を」「そんなんで生きていて恥ずかしくないのか」


毎日毎日ネチネチと1時間以上聞かされた言葉です。

 

本当に何十年も苦しめられたんです。私はまだAさんが人間とはどうしても思えず苦しんでいるのです。

きっと、私の中にある峻烈な被害者感情は、

殺人事件の被害者遺族と同じとまでは言いませんが、

同種であることは間違いがありません。

 

(現在もある種の心理ブロックを2重3重に施したうえでこれを書いています。被害者感情って知っているのかって?その件は、かけるときが来れば書きます。)

 

まだ詳しいことは書いていませんが、

過去のパワハラ関連記事に少しだけ、ほんのさわりだけ紹介してあります。

 

Aさんが退職でいなくなるまで、正確な日数が数えられた。当時、Aさんが、あと何年で退職するか、いつ聞かれても

 

あー、あと3256日ですね。と正確に言えた私。

 

 

それほど、Aさんがいなくなることを待望した。

それほどパワハラがきつかった。

電車を止めなかったのは、奇跡だったと、

今でも固く信じているほど

壮絶だったパワハラの日々

 

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その「恥ずかしくないのか」とハラスメントされ続けたあの日々が彼のメールの言葉「恥ずかしい」をみて一挙にフラッシュバックしてきたのです。


愛念で祈り続けているこの私に対しまさかのよもやの一般的禁句「恥ずかしくないのか」を投げかけ、それがまさかよもやの若い頃受けた壮絶パワハラの言葉そのもので、絶対的トラウマの言葉だったというこの最悪のシチュエーション。


自分を抑えるのに必死です。

 

究極の自己中心的サイコパス人間。自分しか見えない人間。もう、Aさんによるパワハラで大きな被害を受けたので人生では2度と出会うはずがなかった種類の極悪人間。



それがまた現れた。

 

なぜですか?なんで、こんなに究極までの自己中心の人間が私の周りには集まるのですか、もう勘弁してほしい、と思いましたが、でも今度はわかりました。神様は、またその種の人間を、私の前にお届けされたのだとはっきり認識できました。



悪役を登場させて乗り越えるべき課題を乗り越え徳を積めとの神様のご命令です

 

神様、今度は何を乗り越えればいいのですか?

心が打ち震えるほどの怒りが静まり、心がすーっと落ち着いてきます。

 

=====

 

そして、改めて思います。

神様と悪魔はセットでやってくる。

ここは対応を間違えてなるものか。

 

間違った対応とは

まずこの若者を呼びつけて、怒りに任せて怒鳴りつけるというものです

 

「こらああ、お前、お前はこのプロジェクトのメンバーの一員だろうがあ」

「恥ずかしいだって、お前の責任の範疇だろうがあ」

 

「お前が恥ずかしいわ。」

「もう、いいから向こうへ行け。お前なんてプロジェクト解除な。」

「究極までパワハラ地獄で苦しんでみるか。ああ?」

 

という、目には目のAさん張りの対応です。

 

そう、家庭内暴力の連鎖と同じく、ハラスメントをヤラレタ人間は、エネルギーを強奪され続けたので、人生のどこかで帳尻合わせるために立場の弱いものが出現すればその者にパワハラを仕掛けてエネルギーを取り返そうとするのです。

 

これをやれば、もうお背中の龍神様は、いきなり私に巻き付いて私を窒息させて、はい今回の人生これで終わりとなるのでしょう。

 

もう私は、ここまで神様に近づいた人生を辞めるわけにはいかない。もうここでこんな、怒りが怒りを呼ぶような人生に一度でも舞い戻ったら、もう死ぬのでしょう。

 

ここで死ぬぐらいなら、この愛念に対する裏切りとも思える行動に対する激しい怒りを鎮めます、と神様にお約束。

 

おかげさまで簡単な論理で動いていきそうです。

 

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さっそくメールを直接もらったプロジェクトメンバーと協議し、

「この自己中心主義の彼の、この恥ずかしいの文面だが、許してあげてくれないか、彼は正義感で本当のこと言っているところもあるんだよ。

 

いい指摘をしてくれていると思って

一番いい道を探っていこう。そしてお互い大きく成長しようよ。」

 

自分で言ってみて驚きます。

まるで神様みたいなことを言いました。ちょっと、自分でも信じられない変化です。

 

今日もまた、こうして私に対して恥ずかしいとまで言った彼に対して祈り続ける意味が見いだせました。


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長かったけれどいよいよ最後です。


そして、今日その事が起こった後で夜にいつもの神社さんにやってきました。なんだか不思議な澄み切った空気感でした。ものすごく寒かったのですが、祈りを始めたら、ものすごい精神集中ができて、非常に心地よい祈りができました。


いつもの女神様が優しくお迎えです。もうこの時間が嬉しくて、暖かくて、


ねえ姫さま。今日はねえ。えらいこと起こったんよ。と言ってしまってから、敬語で祈り直す。それを神様は受け入れて聞いていてくださる。この私の人生にまさかこんな美しく甘い時間が来ようとは思いもしなかった。


至福の時を経て祈りを終えました。もう気分は最高です。気がついたらなんと次の日になっていた。時刻は夜中の1:30です。かなりの冷え込みの深夜、寒いことも気がつかず時間の概念が完全に消えたトランス状態になってとてもいい祈りでした。



だからまあ、とにかく、あんなことこんなこと色々あっても神様と繋がっていれば、何がどうなっても安心で幸せだあ。この私の仕事が恥ずかしいとまで言ったこの若者にもずーっと祈り続けることができる私でした。この後どうなっていくのか楽しみです。





こんにちは。

 

Forestagelことモリシゲです。

 

最近ずっと祈りのことを書いています。ほかにも不動産とか音楽とか書きたいことがあるのですが、もはや、そういうのは別のところに移しましょうか。

 

もう祈るために生きているようなところが出てきて、

 

祈りの時間が取れないなら、歩いている間も祈る。

電車の中でも祈る。食べる前ぎりぎりまで祈る。

一人になったらすぐ祈る。

 

何とか、たくさんの方への祈りを完了させる日々です。

それだけでは、いわゆる神様の前に立った祈りとも違うので、毎日夜に今度は神社さんに行ってもう一度正式に祈ります。

 

私は、仕事のために1秒でも惜しんで働いてきました。

それが、今では、仕事は、人生の目標ではなく、目標達成のための単なる手段になったので、

優先順位がすっかり変わりました。

 

どうしてもやってしまいたい仕事がその日にできなかったら、これまでは最終電車を逃してもさらに夜が明けたってやってしまっていましたが、今では今日中に神社さんに行かなかったら、ちょっともう死ぬかもしれないぐらいの覚悟があるので、平気で中断します。

 

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書いていてはげしく脱線です。インスピレーション来たので予定変更。

 

これってどこかで聞いたことがある話だった。そうイスラム教徒のお友達が言っていたことです。私は今でこそ1日2回の祈りを行いますが、彼らイスラム教徒は来る日も来る日も1日5回。毎日そして毎回本当に真剣に祈ります。

 

そんなこと本当に知っているのかって?そう私は何回もイスラム礼拝を経験している日本でもかなり珍しい人なんです。いちどイスラム教の礼拝のことも書く日を作ります。それでお前みたいな日本人は初めて見た。もう、イスラム教に入れといわれたんだが、やっぱり朝早く起きての祈りから始まってあと夜まで4回も祈れないし、なにしろ大好きな豚肉食べられなくなるわけにだけはいかんし、お酒も飲めないなんて、ちょっと無理すぎるので、イスラム教にだけは入れませんでした。

 

でも、近づいているんだと気づきましたよ。

彼ら回教徒の神様とつながる究極の人生観が私にもついにやってきたのではないのでしょうか?

 

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彼ら回教徒は、本当に神様に深くつながっているので、祈りが第一優先です。だからこそ得られる人生観、死生観を持っている。

 

この前も仕事上でとてもよくしてもらっていたアリさんという40代の人が、ジャカルタでバトミントンしている間に心臓が止まって亡くなったのですが、アリさんの仕事上のパートナーさんが日本にいてさぞや落胆しているかと連絡すれば、

 

「アラーの御用で呼ばれた。だからこれでいいんです」

 

悲しいけれど悲しくない。なぜなら、本当にいなくなったなんて、これっぽちも思っていないから

 

仕事が全部止まって窮地に陥っているけれど、それでいい。なぜなら、神様がそれを選んだから、これで合っている。これで絶対あっているんです。と本気で思っているという事がわかりました。

 

やはり神様に毎日5回祈る人々の胆力は全然違うんだなあ。そう漠然と思っていましたが、このブログを書き出して、なんだかつながった気がしました。

いつの間にか、私にもそれに近い感覚が芽生えつつあるんだと、わかった。

 

それで、なんだか、いつも安らいだ感じが得られているんだ。

 

===

神様につながるとまず本当に、小さな奇跡がぼこぼこぼこぼこと起こります。

例えば、これまで、挨拶すらしない方が、道であっても絶対遠回りされる方が、なんだか懐かしそうにやってこられる、話しかけてこられるというのは、何度も起こります。

 

こういう事って、周りの人には奇跡でもなんでもなく、「それってたまたまでしょうが、なんでもいい方に解釈して人生豊かに過ごせるという事ですね。はいはい、よかったね。もうわかったから、それならわかるから、もう神様とかいいから」

 

というところから一歩も出ないはずなのですが、

 

当の本人にはわかる感覚ですよね。

絶対に挨拶しない人は、年月が経とうが、情勢が変わろうが向こうから挨拶してくることなんて絶対にないことぐらい。

 

それが、祈りを深めてくると、利害関係が発生したわけでもないのに、なんだか相手との距離が縮んでくる。向こうさんはなぜだか懐かしそうにしている。まるで時空にねじれが起こったかのように関係が良好になっている。向こうはなんだか懐かしそうに、声をかけてくる。お世話になりましたとでも言いたそうです。一度もまともに友達として話はしていない、ただ、仕事上のお付き合いだけ。

 

だから、自分だけ自分だけは、ひそかに強く思うのです

「奇跡でした。神様今日もありがとうございます」

 

 

そんなことが、何度も何度も起こると、自分の眼前におこったすべての出来事に対して、

こう思えるようになります。

「神様は当然知っている。」

「知っていて神様は止められていない。」

「ということはこれは私が受け止めて乗り越えるべきことに違いない。」

 

という風にさらーっと考えることができて、いわゆる圧倒的な胆力がついてくる感じがします。

 

そして、どうすれば、神様の御用に最も近い働きになるのか、と考える日々になります。くよくよすることなんかありません。なぜなら、私は絶対に一人ではないからです。

 

と、こういう風になるため修行中ですね。実は。

 

 

次回は私にとって、本当に祈り通す意味があるのか、どうにも苦しい祈りのことについて書いてみたいと思います。

こんにちは

 

Forestagelことモリシゲです。

 

今日は、いつものお掃除の女性と、またも職場の前の道路でご挨拶。

最近本当によく会うんです。偶然とはちょっと違うような高頻度です。

 

「やあーにいちゃん。」

「今日はすごーくいい天気だねえ。まるで兄ちゃんみたいだよ。

 

え。

 

あまりのあまりのお言葉に、ちょっと頭が真っ白になって条件反射で同じお言葉を返して差し上げるしかなかった私。

 

「いやいや、お姉さんみたいですよ。」

「何を言っているのよ。アタシもう80よ。」

 

もう80よ。でシメに入る、ほんの短いエネルギー循環。いつものお約束の様式美みたいなものですけれども、今日のお言葉は私にとってかなり意味があった。

 

今日は本当に雲一つない晴天。暖かくて気持ちの良いお昼のひと時。

その時にかけられた言葉

 

私が「まるで雲一つない晴天みたい」だって?

 

いつも、人を蹴落として生きてきた私。

どんな時だって、負けない。競争したら勝つ。

そんなんだから、いろいろな知りあい、お友達、いるけれど、みんな、何かの利害でつながっていて実はいつもなんだか孤独。

 

道を歩く時だって、知り合いが前から歩いてきても

偉いのはこっちだから

向こうが先に挨拶するべきだと思っていて

我慢して、挨拶しない。

むこうが0.5秒先に挨拶したのを見てから、

同時に挨拶したように見せかける。

 

大体にらみつけていることが多い。

怖いやつを演じていました。

 

そんな人生を送ってきた私は、当然そこらじゅうで

暗闘を起こす。戦闘状態でいることで、なんとか

心の安定を確保する。そんな超絶ダークサイドに生きた私


私のダークサイドキャラも確定していて、

私が通ると、さーっと人がよける

 

自分ではモーゼの出エジプト記みたいで

すこぶるよろしい、なんて

お気に入りだったのです。

 

天気で言うと「黒い雲」

黒い雲に稲光、周りが恐れる存在、かっこよくね?

なんて本当に思っていた私

 

自分で「雲黒斎」

なんて名乗って悦に入っていたこともあるような奴だったんです。(もっとダークになると漆黒斎を名乗ったりしました)

 

====

雲黒斎でよかったワタシ。

ダークサイドで生きる免疫がついて、もう地獄まっしぐらの生活。

 

そんな私に

どこからともなく吹いてきた風にのってささやく声

「もうそろそろその仕事もおわりだけれど」

「ケンカ人生ももうおわりだねえ」

「ケンカ相手ももういなくなるねえ」

「だってその戦いのリングから降りてもらうんだし」

「さあ、この先何やって生きるんだ?」

「何もないねえ。なーーんにもないねえ。」

 

誰かと必ず戦って相手を傷つけて成り立つ暗闘人生、

もういよいよ終わりのゴングがなるまで気づかないこんな人にも、ついに風が吹いたんです。

 

同時に色々なことが怒涛の如く私の身に起こりました。そして、ついに、こんなダークサイドでの生き方のままだと死んでも死にきれない、みたいな気持ちになり、ここから、怒涛の如く神様に引き寄せられました。

 

====

多くの人に支えられて生きていることが理解されていきました。

 

そりゃあね、ダークサイドの住民も、どこかの政治家も皆言いますよ。


「今この私がここにあるのも、周りで支えてくれる皆様のおかげ。」

 

でもそれ本当の本当の本当に、そうは思ったことは一度もなかった。

 

掃除の女性がいるから今私はここにあるなんて、

ただの一度もこれっぽっちも思ったことはなかった

 

そんな状態ではありましたが、

とにかく何かに突き動かされて

多くの人への祈りが始まりました。

 

 

最初は、形式的に祈るだけ。

 

でも不思議です。

祈りを深めていくと、祈る方に対する愛の気持ちが芽生えるのです。

 

たとえば、掃除の女性に対する気持ちも

最初は、掃除の方やいろいろな方への感謝の気持ち

程度で、はいはいまわりのみんな幸せに―と

軽ーくルーチン程度に祈っていましたが

 

毎日毎日神社さんでお祈りを続けるうちに、

そんな程度の祈りであっても

あれ?と思うことが日常で増えてくる。

 

「なぜだか道でよく会う」

「なぜだか最近元気にしてくれている」

「なぜだか、口をついて、どんどんと女性を喜ばす言葉が勝手に出てくる。そういうのかなり苦手な人なのに」

「なぜだか、さっぱりわからないが、こちらもなんだか幸せ気分に満たされる」

 

 

 

何かに押されてどんどん気持ちが乗ってくるのです。

祈りの質もバージョンアップになってきます

「掃除のおばちゃん。最近とてもうれしそうです。

その魂が、ますます、明るく、あったかく、元気になってください。」


そして、そうなっている姿までイメージして、強く強く神様にその願望を5次元の空間に送信するのです。

もう好きをさらに超越した全人的愛みたいなもので満たされて。

 

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そしてついに、この私に、冒頭の人生最大の言葉のプレゼントが今日あったわけです

 

「兄ちゃん。今日はいい天気だねえ。まるで兄ちゃんみたいだよ。」

私の雲黒斎人生で、人がかけてくれることはないはずの言葉を、本日ついにかけていただきました。

 

感謝してもしきれない。

 

感謝してもしきれない。

 

感謝してもしきれない。


物凄いエネルギー循環を神様にいただきました。

 

(いろいろ神社参拝のご報告がたまってしまっているんですが、

次々に起こる感動によって後回しになってきています。)

次回こそ神社のことを書きます。

 

こんにちは。


Forestagel ことモリシゲです。


今日書くことは、信じられない人が多いでしょう。具体性ゼロにしないと書けないので、何言ってるかよくわからないと思いますし。



でも昨年から祈り続けたことが、おそらくある段階まで達成されたんだと思いましたので、書くことにしました。



もう会わない方への祈りを多くのいろいろな方への祈りの中に含めてもう千回近く続けております。その祈りは、どの方の場合への祈りも同じですが、その方へのひたすらの幸せを祈ります。私が「こうなれ」「ああなれ」と相手様の受信装置に直接念力を送るのではなく、全て神様にお願いするのです。


時空を超えた5次元の通信をひとえにお願いします。イメージは私の気持ちが一旦上に上がって神様が聞いてもらってからその人に伝えていただくというイメージですが、神様からの伝え方は決して電子メールで「はいこうですよ」みたいな直接こちらの思いの通信ではなく、ものすごく巧妙で奇跡の塊みたいな伝え方になることもいろいろなことを経験して確信してきています。もちろん我が我がの変な願望を祈る奴の事何て神様は聞いてくれないでしょうし、あまり神界と下界に迷惑になるような変なこと祈ったら、もうさっさとダンプカーに轢かれると思いますが、この世界の真の意味での進化につながる祈りは、絶対聞いてくれると確信しています。


だからここでこの方に祈るのは、真の意味のしあわせで、経済的に豊かであっていて下さいであるとか、いつもお友達に囲まれて楽しくしていてくださいとか、仕事がうまくいっていますようにとかいう一般的にいう「ああしあわせ」みたいな超お軽ーいこととは全然違います。ましてや人のしあわせを願うと言いながら実は自分にとって結局メリットになるような欲まみれの祈りとはまったく違います。



という事なんですが、いや、そこまで断言できないです。それが出来るようになるまで格闘していると言った方がいいですね。そりゃあ、何もかも自分のものにしてしまえるならそうしたいという原始の欲望は常に蠢いていますが、それを押さえ込んで本当にピュアな気持ちで、大きな陰徳を積むために、その人へも祈ります。



その日も、神社さんでその自我を全部捨てた愛を念ずる祈りを終えて、神様の前にもう一度しっかりと立って目を瞑って前を見ると



うわ、いらっしゃる。

最近前の記事に書いた広がる3次元空間に


ぼよーんと神様が感じられていたのですが、


この日ははっきりとお顔がカラーで見えたんです。

小さく視界の中央に浮かんでおられます。


ついに見えた。怖い気持ちが30%、嬉しい気持ちが70%ぐらいでした。


やったーああやっぱりやっぱり姫様なんですね!いつも本当にありがとうございます。


と言った途端、カラーのお顔が白黒に変わって

ぐわーっと大きくズームアップになりました。


近づいてこられたんです。白黒のボワーンとした映像に変わっています。ここで怖い気持ちがちょっと上昇しますが、まだ嬉しい気持ちが勝っています。



そして私は抱きしめられました。気のせいなんかじゃなく絶対に両手でフワーッと抱き込まれました。ものすごく優しい感触でしたが、もうこれであの世に連れて行かれるのも怖くなって直ぐに驚いて目を開けました。



これほど鮮明に感じたのはこれが初めてです。今までもふーっと何かを感じることは多かったのですが、これほど近づいてこられて抱かれたことを確信する強い体験は初めてでした。やはり見えるようになるんですね。


お礼を丁寧に申し述べてお宮を後にしましたが、もうエネルギーが切れて歩けないんです。


なんとか自宅にたどり着きましたが、エネルギーが完全に切れています。


その日の夜は寝付けませんでしたが朝方鮮明な夢を見ました。それで一体何が起こったかを知りました。一つのことが終わったことを知りました。誰からもなんの知らせもなくてもそれはわかりました。私の祈りはおそらく成就されました。嬉しくそしてちょっぴり悲しい出来事でした。


これでこれでいいんだ。


さあ明日からまた明るく徳を積む人生を生きようね。お背中の龍神様頼むよ。

こんにちは。

Forestagel ことモリシゲです。

最近思うことがあります。
皆様よく自分一人で生きていけるなあ。

一人じゃない!友達が家族がいるよといわれるでしょうがどれほど仲の良いお友達も優しくて愛に包まれた家族も本当の自分のことは、言わないと、いや言わなかったとしても何か目配せでも表情でも身振りでも何でもとにかく筋肉使って表現しないとわからない。聞いてくれないことも多い。

結局自分のことなんか誰にもわからないと深い深い孤独感をもし感じたりしはじめたら、それはそれは大変だろうなあ、昨今有名人をはじめ多くの方が絶望の中で自ら死を選ばれる報道に触れるたびにそう思います。


昔の私がそうであったように。一度病気になった時強烈な孤独感が襲ってきたことがあります。もう完全に遮断されたなんとも言えない地獄の苦しみだった。あれはもう耐えられない。あれだけは経験したくないですね。

でも私は今は、たとえ見た目で一人ぼっちでも絶対的に一人じゃないんです。優しい家族もいるんですが、それだけではなく、上から包んでくれている神様がいて、背中には龍神様がいて、どんな時も一緒という感覚が維持されています。



昔からすぐ一人で悩み苦しむ方でした。苦しくなると、仮想敵を作ってそこに向けてリベンジを開始します。勝手に憎むべく相手を作ってそれを見返し復讐するんだというねじれた目標を作った場合だけ、心が安定して努力できる。それでなんとか人並みにやっていける。そんな苦しい人生だったように思います。

ある時から神様の存在を確信できるようになり、かなり楽に生きていけるようになりましたが、それでもまだ復讐心で生きるダークサイドの住民でした。それが今神社に導かれて、多分ですがダークサイドから卒業できたように思います。今はブライトサイドに向けて光の方向に向けて歩を進めている最中です。

今でも苦しい事だらけですが、もう今では苦しくなった原因を作った犯人を敵にしてそれを潰す目標を立ててやっと安心して生きていくというようなダークなことはしないようになりました。

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今は神様に祈り結果は全てお任せする日々です。ちょっと日常を詳説してみます。

苦しくなったら、辛くなったら、怖くなったら、泣きたくなったら、すぐ毎日行く神社さんに行って報告します。私はこれを神様へのホウレンソウと言っています。



「神様、今日はちょっと苦しいです。一体どうしたらいいのかわかりません」

目をつぶって懸命に意識を集中すると、目をつぶっているのに目の前が突然開けて四方が1キロメートルほど開けたような感覚になります。そこに私一人がいる感覚です。なんか崖っぷちに細長い板が一本かかっていていてその上に乗っかって、遠く下に鳥が飛んでいて、崖の下からグワーンと環境音が鳴る感じです。ゲームなんかでよく表現されている情景ですが、あれがリアルにやってきます。最初これを感じた時は怖くてすぐ目を開けて正気に戻りましたが、もう今ではこれが来ない日はがっかり。よほど邪念に満ち溢れて集中が足りないんだと反省します。


この状態になるとものすごく落ち着いてきて、神様が聞いてくれているという確信のもとに、今ある苦しみを神様にぶちまけます。友人は当然家族にも聞かせられないことを全部洗いざらい出してしまいます。

「あの人はどこまでも攻撃してきます。苦しいです。もう我慢できない。」「今回だけは攻撃させて欲しい。」「いやいやそれではダークサイドの住人ですよね。それはわかっています」

「ではどうしたらいいんですか。我慢も限界です。」
こんな風に神様に訴えます。

すると自分の中の誰かが、神様への質問形式でこんなふうに問うんです。

「神様。例えばこれって○○○ということだと考えればいいんですか?」

自分で言ってるんですが、自分では考えたこともないことです。

「あれ。私は一体何を言っているんだろう?」
「あっ?」

「ああっ!」

その質問を、自らの口を通して発した途端、電撃が脳天を打ち抜き、それこそが最善の解である事に気づきます。

「あ。そうか。そうですよね。そうか。いやそうだわ。それってそうだわ。いやわかった。もうわかった。そう考えればいける。平気で生きていける。いける。苦しまなくて済む。やれる。できる。そうかそうなんだ。」

自分の口を通して最善の解を与えてもらった感謝で、いっぱいになり、そうだそうですよね。神様そうですよねと何度も何度も言いながらさめざめ泣けてきます。

こうして苦しい時を全て楽しい事にすら変えてもらって神社を後にします。

こんなことを何度も経験すればもう神様のご存在は、信じるも何も人生における確固たる事実みたいなものになっています。見えないけれどここに主として酸素と窒素の空気なるものがあることはもう皆信じているようなものです。


これって読んでいて、もうたまらんなあとこう思う人もいる事でしょう。

「神様に教えてもらったって、まあハイハイ。」
「人はどう考えても自由ですからねえ」
「それで最後は高い壺買わせるんでしょうが。」
「私はそういうアヤシイものは決して信じない。もっとしっかりした論理で生きていく。この頭で論理的に考えて生きていく。」
「そりゃあ神社でいい答えが思い浮かんだのも、単に神社で心が落ち着いたからであって、それ以上のものではない」

見えない人にはもはやこれ以上のことは何もないことでしょう。

神様の存在はイスラム圏では学校で教わる。現代の科学を広めそれで世界を支配する欧米キリスト教圏では、ちょっと遠慮して日曜学校で教えます。日本では、GHQの指導で森羅万象のやおよろずの神様天津神国津神は教育禁止になって、教えませんから。それで「見神性」ゼロのひとがものすごく多い物質優先の希有の異常な人工的社会が出来上がった。それが今の日本だと思います。日本人の心を押さえつけて弱く脆い国民に改造するためです。

私も神様の存在は家族以外には決して口に出しません。迂闊に一般の見神性ゼロの友人や知人にこう言った話を少しでも少しでもすれば、それまでどれほど気が合う間柄でも離れてしまうんです。

「あいつカルトで怖いやつだった。もう2度と近づかないでおこう。」


何度もこういう事を経験して、今ではひた隠して生きています。


でも日本人には潜在的に物凄い見神性が備わっていると思います。古神道の八百万の神々の考え方は、どうも正しく森羅万象を表していると思うのです。一神教はわかりやすいので、庶民に伝えやすいのですがどうもすりガラスで物を見ているように思います。もちろん正しく森羅万象を伝えていますが、日本人の感性で作り上げた神道は、もっともっと詳しくてピントがバッチリあっている感じなのです。(キリスト教の事知っているのかって?はい。知っています。またその件はそのうち)


日本に生きる人たちには、潜在的に受信送信性能が高いと思います。まだなんとかお正月に神社に来てくれるこの潜在見神能の高い人々に少しでも神様の事を深く知ってもらいたいと思っています。そして一人でも多くの方が一人で生きる孤独感から解放されたらと、、、このコロナ禍で自殺者が増える昨今切に願います。

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これある神社さんにいくプロローグとして書き始めたのですが、思いがほとばしり具体的なレポートまでたどり着きませんでした。また続きは次回。あのエビスさんで有名な西宮神社への参拝です。