ネガティブ思考という言葉がある。ネガティブなことは考えなくてもよい、というものだ。

だけど私はネガティブなことを思い浮かべる、というのはその人の経験した最悪なことを基準としているのではないかと思う。

つまりトラウマのようなものが別の形で現れたもの。私は結局のところ、受け入れるしかないのではないかと思う。


聖書に、ヨブ記という物語がある。ヨブは、信仰を試されるために、起こり得る最悪ともいえる状況に陥った。家族は死に、自身は重度の皮膚病にかかる。ヨブはいっそのこと殺してくれと叫ぶ。 


ネガティブ思考がだめというならば、このヨブ記を読むことすらできない。
今後起こり得るかもしれない災厄に思いを馳せることは間違いだというのなら。

もし仮に、自分の今が大丈夫だとしても、将来病気になるかもしれない。
それだけではない。

自分が大丈夫でも、今現在どこかで苦しんでいる人がいるのである。


他者の苦しみに向かい、それを共に担おうとするなら、苦しみというものを直視し、向き合う必要がある。自分の内部に恐れがあるのなら、それも同様だろう。 

もし、自分が難病になったらどう生きるだろうか…
そうしたら、そこから何を一体学ぶことができるだろうか。 

恐れというのは物質的なものを失う恐れ。物質的なものを失っても、自分を見失わずその意味を見いだせるというのが大事だし、それを信仰ともいう。

ヨブが見出そうとしたのはそれであると思う。 


 マザー・テレサ 

「神が下さる最も大きなプレゼントは、神が私たちに何を下さろうと、また何をおとりになろうと、笑顔で神の御意志を受け入れることができるようにして下さることです」


 キリストは人間の経験するあらゆる苦しみを背負っている、とキリスト教では考えられる。だから、自らの苦しみを十字架に例える。 


ケアにおいてそのことを考えるならば、専門性や属性にとらわれず、人のあらゆる苦しみを考える、ということ。専門性はその土台の上にあることが望ましいと思う。