このテーマに関しては、過去記事で何度か書いているのですが。


精神的痛みと、身体的痛み。

病、貧困、障害、人間関係の痛み…


社会には様々な痛みがあるとされています。

私はこれらに共通性がある、と考えています。


聖書において、「最も小さい人に対してしたのは私にしたのである」とイエスが言った記述があります。

これはマザー・テレサが活動の土台とした言葉でもあります。


ここで、「最も小さい人」というのは特定の痛みを持つ人を表した言葉ではなく、あらゆる痛みを想定して投げかけられた言葉だと言えるでしょう。

実際に、イエスはあらゆる人々の痛みに向き合ったのだと思います。


自分の痛み(の経験)を通し、相手の痛みを理解する。

そのとき、自分に近い痛みと感じたものは、共感しやすいかもしれません。足の痛みを持つ人は、誰かの身体的痛みに対し理解を示すかもしれません。


しかし、誰かの精神的痛みに対してはどうでしょうか。それは自分の痛みとは違う、と考えるかもしれません。


思考実験として、もし、自分の今の悩みと、自分とは異なる、と考える痛みと「交換」できるとしたら?人間関係で悩んでいる人が、その悩みは無くなるけれども、慢性的な強い身体の痛みに常に悩まされることになるとしたら。

どちらかを自分で選べるとしたら、どうするでしょうか。

悩むでしょう。悩むということは、共通性がある、ということだと思います。


今の自分の痛みと、異なると思う痛みを比べることができる。それは、相手の痛みを想像できるがゆえです。

ならば、自分の現在の痛みが何であれ、自分の痛みを通して、あらゆる他者の痛みを想像できる、ということではないでしょうか。


自分の痛みの経験が、どのようなものであれ、他者の痛みの理解へと繋がるのだと私は思います。それが、他者との関係性を拓いていくのだと考えます。