今回は読んだ本からの引用です。



井上洋治著

「日本とイエスの顔」より



彼ら(パリサイ人)はたしかに立派でした。しかし彼らには、これしか私には生きられないのだという悲しみを背負って、人生の石だらけの道をとぼとぼ歩んでいる人のやるせなさを思いやる心が欠けていました。人の心をおもいやり、その人の心を自分の心の鏡にうつそうと努めるまえに、まず自分が絶対と考えている掟という尺度で人をはかり審いていたのです。

(中略)
イエスの姿勢は、かくあるべしという基準をもって人を審くまえに、その人が哀しみと孤独のうちに背負って来た痛みを受け止め、その人の心をそのあるがままの姿において感じとめる姿勢です。





聖書からの引用です。

ルカの福音書18.9-14

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」