絵本作家と漫画家という二つの顔を持つ作家、大庭賢哉先生の短編集『郵便配達と夜の国』から「まねっこさがし」を取り扱います。大庭先生と言えば少し前に「おるすばんと嵐」というお話をこのブログでも記事にして、その時にも再三言ったことになりますが、子どもたちに対する非常にピュアながらも等身大な視線を作品から感じ取ることができます。作中の子どもたちは、それこそ絵本の中のキャラクターのようにみんな無邪気で活発なのですが、子どもならではにみんな悩んだり、成長したりしています。その成長はどれも、「心の成長」とでも言いたくなるような温かく尊いけれど、一見には見逃してしまいそうになるほど内に秘められたものです。そんな「一見には見逃してしまいそうな繊細で内向的な成長」を丁寧に描き出す視野こそ、大庭先生の強い持ち味なのではないかと、勝手に思う次第です。
僕は『ドラゴンボール』は幼少期が一番好きなのですが、そんな幼少の悟空にはお股をパンパンしないと相手が女性かどうかが分からないという困った鈍さがありました。ですが、いつの間にか、そんなパンパン行為をしなくなります。幼少編から青年編になり、マジュニアと天下一武道会で激突したあの頃になる最中で、パンパンと卒業したのです。
悟空の場合はかなり特殊な件ですし、本人からしてかなり個性派ですが、子どもには必ず男女を意識するきっかけのようなものがあります。僕は意識したとて意味のない青春を送ってきましたが、それはそれとして小学生になるころにはある程度、スケベでした。いつか、何がきっかけか…とんと思い出せませんが、いつの間にか目覚めていたのです。そこから同世代のメンズと比べたら遅すぎるし、足りてなさすぎますが、周囲の目を意識しておしゃれしたり、身だしなみに気を付けるようにもなりました。まあ、これは異性というより、社会性を意識しだした側面もありますが、とにかくところかまわず鼻くそをほじるガキから人目を忍んで鼻をほじるバカに変わったのです。これまた、いつのまにかですね。
前置きが長くなりましたが、本作はそんな子どもにとっての転換期ともいえる変化を迎えるある女の子を描いた物語になります。主人公のヨリ子ちゃんがガサツで男勝りな少女からおしとやかに変わるその経緯をちょっとメルヘンに描いています。ちなみに一貫して僕が変化と言って成長と言わないのは、これが正しいことだとあんまり強く言い過ぎたくないからです。いつまでもボーイッシュな女子が居てもいいじゃない!と思うのですが、まあ、本作に限ってはそんな細かい好みの範疇は度外視で話を進めていきたいと思います。
わんぱくで男勝りな小学生のヨリ子ちゃんは学校で、友達から隣町の本屋で立ち読みしている自分を見たと聞きます。同じく、クラスの男子も「猫と喧嘩しているヨリ子を見た」と言うのです。どちらの行動も身に覚えのないヨリ子はこれを否定します。しかし、何と家に帰ると母親からまで「スーパーの前で下品に買い食いをしていた」と身に覚えのない行動を叱られます。この一連の流れにヨリ子は自分の真似をしている子どもがいると怒ります。その後も、事あるごとに隣町にいる真似っこの話を聞かされます。これに気を悪くしたヨリ子は普段なら絶対に着ないひらひらのワンピースに身を包み、隣町へまねっこ探しに繰り出すことにしました。
ところが一日かけて歩き回っても見つかりません。クラスメートに「ヨリ子の真似をしても得なんてない」と言われた通り、まねっこなんていないのでしょうか。
すると、背後から知らないおじさんが声をかけて来て、忘れものだと本をヨリ子に渡します。その本はヨリ子に全く身に覚えがないもの。おじさんはヨリ子と隣町のまねっこを間違えたのです。しかも、家に帰ったヨリ子は母親からまたもヨリ子を見たと聞かされます。驚くことにまねっこもヨリ子と同じようにワンピースに変装して隣町まで自分のそっくりさんを探しに来ていたのです。友達がふざけていったドッペルゲンガーという説も頷けてしまえるほどに奇妙な事態ですが、手渡された本の内容だけは全くヨリ子の好みと違いました。普段ならまず目を通さないタイプのお話のようです。それなのに、ヨリ子は本を読む手が止まらずあっという間に読み終えてしまいます。
この一連の出来事をきっかけにヨリ子はまだ見ぬ自分のそっくりさんに怒りではなく親愛のような感情を抱くようになります。以降、ヨリ子は無意識ながら徐々におしとやかになり、嫌がっていたスカートを着るようにもなります。本人が分析する分には、そっくりさんと間違われたくないことに併せて、品のないことをしているとそっくりさん迷惑をかけるのではと考えるようになったのです。そうして、ヨリ子の興味とは裏腹にそっくりさんの話は徐々に聞かなくなります。ヨリ子が人目に付く行動をしなくなったのもあるかもしれませんが、ヨリ子は向こうも同じことを考えておしとやかになっているのだと確信します。
そして、半年たつ頃には一切話を聞かなくなってしまいます。そのころにはヨリ子は面影を感じないほどに成長し、見た目も雰囲気も大きく変わっていました。そんな折、図書館で本を選んでいると、女性から声をかけられます。が、それはどうやら人違いだったようで相手は謝りながら、その場を離れて本来の友達のもとに走っていきます。ヨリ子は直感でその友達が会いたかったそっくりさんなのではと、随分おしとやかそうなその後ろ姿をしばらく眺めて本作は終了します。
生き写しのような子どもを通して、ガサツな性格から徐々におしとやかになる少女を描いたお話ですが、ここでのそっくりさんは冒頭で僕が言っていた「社会性の意識」の役割を担ったのではないかと思います。奔放でゴーイングマイウェイだったヨリ子は第三者の眼を通して、自分を客観的に見ることができるようになったのです。その第三者の目がほぼ自分そのものの眼で相手もまた、自分を元に変化していたという設定が色々と考えさせられて面白いですね。
冒頭で僕は「どのタイミングで変わったのか憶えていない」と言っていましたが、案外ヨリ子のように誰かの眼を意識するようになって、その人の前で恥をかきたくないから変わっていったのかもしれません。その点で、悟空のパンパンとはまた別の成長だったかもしれません。もう次で400話目だというのに、僕の文章力や読解力はいつになったら成長するのでしょうか。
出典:『郵便配達と夜の国』大庭賢哉 青土社 2012.5
出典:「Mahoroba Vol.5」国民みらい出版 2005