僕の兄は相当に落語マニアでして、聞くのも実際にやるのも大好きという変わった趣味を持っています。大学時代に落語研究会に所属して、その時から熱心に磨き続けている落語の腕は、素人目ながら中々に大したものだと、感心してしまいます。と言っても僕が感心するのは、プロアマ関係なしに、落語というのは相手もなしに、たった一人で座布団の上、一歩も動かず永遠に喋り続けるというそもそもの部分なのですが、やっぱりすごいと思います。長~い口上を一言一句たがわずペラペラと叫んでいる姿などは、なんだか緊張感あふれるというか鬼気迫るものがあります。

 

 感心すると同時に、ふと気になるのが、高座からの風景です。僕の兄がたまにやる趣味の落語会なんてのはキャパも小さいですが、それこそプロの方がホールなんかでやる大入りの落語会なんて時には、一体どんな光景が見えているのでしょう。それは美しいのか、それとも面白いのか、それとも所謂畑の野菜状態で、全く気にならないのか……はたまた、恐ろしいのか。

 というわけで、若干ムーディに今回の主題である短編漫画について触れていきたいと思います。今回は『ぼのぼの』のいがらしみきお氏によるホラー作品集『ガンジョリ』から「ゆうた」を取り扱います。本書はかなり前に表題作である「ガンジョリ」を取り扱って以来になると思います。「ガンジョリ」は田舎の僻地に迷い込んだ大学生たちが謎の神様ガンジョリ様に皆殺しにされるスリラーものとなっていましたが、本編中、おっかないのはガンジョリ様ではなくそれに襲われ、泣き叫ぶ被害者たちの表情の方でした。いがらしみきお先生は本来、漫画の中で描かなくていいような皺までバッチリ描写しているため、登場人物が迫真の顔になったら怖いのです。本作も、そのおっかない表情が一層際立ったお話になっているのですが、今回は恐怖の顔ではなく、笑顔です。笑顔で人を怖がらせるという事です。そして、ここでようやくどうでもいい序盤の身内話が繋がってきますが、本作の舞台は落語です。うだつの上がらない落語家の主人公を襲う神経が磨り減るような本格不条理ホラーとなっています。

 

 もともと不条理ホラーって気の毒で苦手なんですが、それに加えて今回の題材が落語家…ひいては人を笑わせることを生業にしている芸人さんが被害者なわけですからその陰鬱さは一入です。

 主人公は向上心がなく、真打入り早々に引退も視野に入れている落語家、六平です。この六平のもとに、ある日、子どもが書いたような汚い字のお便りが届きます。お便りにはシンプルに「でしにしてください がんばります」とだけ書かれていて、テープが内包されていました。若干、不気味ですが、差出人は仲間春夫とはっきり書かれていて住所も明記されていたことから、六平はそこまで深く考えませんでした。

 その後、所属している事務所の社長から別門の師匠が自殺したという話を聞き、驚きながらも葬儀に向かいます。自殺する様子など億尾にも感じておらず、周囲も戸惑っている様子です。促されるまま、棺桶を開き師匠の顔を見ると、綿が詰め込まれた状態でこそありましたが、不思議と笑っているような表情……。ご遺体に向かって失礼ですが、ハッキリ言って怖いです。僕の祖母も死後は笑っているような顔をしてましたし、案外あるあるなのかもしれません。死後硬直やら何やらで。

 

 家に帰った六平は仲間春夫なる男から送られてきたテープを再生します。テープにはおそらく仲間がやっているのであろう「あくび稽古」の落語が録音されていました。六平曰く「古今亭志ん生のモノマネしてるだけ」程度のクオリティみたいです。そもそもテープ音源だけでは判断もつかず、六平は律義に宛先にFAXでお断りの連絡をします。この時、六平はテープの奥に誰かの笑い声のようなものが入っているように聞こえますが、これも大して気にしませんでした。

 さて、再び落語会にて、袖で後輩のネタを見る六平でしたが演目が人情噺(感動的な内容のもの)だと言うのに、何故かにやけながらやっているのが気になります。セリフ的に恐らく『文七元結』をやっているのだと思うのですが、確かに汗を滝のようにかくほどの熱演に反して、その顔は何故か笑っています。しかし、指摘されても後輩の福ちゃんは笑ってないの一点張りでした。なんだか様子のおかしい福ちゃんはその後の打ち上げにも参加せず、後日、飛び降り自殺をして死亡してしまいます。その死顔もやはり傷だらけでしたが、笑っていました。

 

 ここで福ちゃんも、先日首をくくった師匠も例の仲間春夫からの手紙とテープが届いていたという事で二つの不審死が繋がります。例の『あくび稽古』は呪いのビデオならぬ聞いたら頭がおかしくなってしまう呪いのテープだったのです。ただ、ホラー漫画であることが前提としてわかっている読者はともかく、六平に関してはまだそこまで点と点を繋げることができませんでした。まだ、六ちゃん自身、おかしくなってないですしね。

 しかし、流石にこの仲間春夫という人物に関して気にはなったようで、六平は住所の場所に行って調べてみることにします。住所の場所には家がなく、ホームレスの溜まり場となっている公園がありました。そこに仲間春夫本人こそ失踪しているらしくいませんでしたが、彼の住んでいた段ボールハウスがあり、彼が柳亭小樂という元落語家だったと語っていたこと、金銭関係でやめるもずっと落語には強い関心があったこと、末期ガンで医者からも匙を投げられていること、などが分かります。この時、色々と教えてくれたホームレスにお駄賃を渡す六平でしたが、金を受け取ったホームレスの顔がやけに不気味に見え、逃げるようにその場を去ります。

 

 情報を持ち帰り、仲間に共有する六平でしたが、誰も柳亭小樂という落語家に覚えはありませんでした。結果、変なファンの所業という事で半ば無理やり〆られます。その後、六平は大入りの落語界で舞台に立ちます。気合を入れるよう社長に檄を入れられ、選んだネタが「あくび稽古」。テープのネタです。六平の熱演もあって沸く会場ですが、この笑顔が六平には嫌というほど不気味に移ります。そして、突然、脇目も降らず会場から飛び出し、引き留める社長に「笑顔が怖いです。あのテープは聞いちゃダメ。俺はダメな奴でした」と何度も鬼気迫る笑顔で、捲し立て、そのまま道路に飛び出し、バスに跳ねられます。

 大体、同じタイミングでしょうか? 落語家たちの預かり知らないところで、一人のホームレスの死体が発見されます。そして、例のテープが続々、落語家たちのもとに送られていたことが分かりどんどん回収されます。しかし、社長はすでにそれを聞いてしまっていたようで……。で、このお話は終わります。

 

 最期まで真相はハッキリしないモノの、いわゆる霊的な何かの仕業であることやそのもとに関しても推測できるよう細かく描写されているためモヤモヤはしません。それどころか、不気味に描かれた鬼気迫る笑顔、六平の「あくび稽古」から自殺までの怒涛の流れなどがインパクト抜群で、短いながらにとても骨太なホラーになっています。見る人が見れば、トラウマになりかねない怖さなのではないでしょうか。

 作中、誰からも認識されない小太りの老人の姿が度々描かれており、おそらくはこれが仲間春夫の霊であると思われるのですが、何度も書いている通り、彼は春夫です。ではタイトルの「ゆうた」とは?……というのが本作を読んでいて、唯一ハッキリとしない、予想もできないポイントでした。よく読めばわかるのか、それとも落語に詳しければ分かるのかは定かではありませんが、本編とは直接関係ないところで謎が残るのもミステリアスで良いと思います。

 ホラーとは関係ないですが、本作のお気に入り要素として落語家さんたちの内々の雰囲気があります。もともと本作はホラーになる予定のない物語が下地になっているらしく、それゆえか登場人物たちの関係性や会話が何となく印象深く、平和に描かれている節があって好きです。流石はいがらしみきおさんですが、そのアットホームさが本作ではより不条理ホラーのおっかなさ、えげつなさに拍車をかけ、読む者を苦しめています。何とも、不気味で印象に残る名作です。

 

六ちゃんの最期直前です。呪いの落語って字面だけだとギャグ味がありますが、その実は恐ろしいです。

 

 

出典:『ガンジョリ』いがらしみきお 小学館(スピリッツスペシャル) 2007.12

初出は同誌 2007.2