ホラー漫画界の巨匠、楳図かずお先生の作品を取り上げるのはこれで4回目ほどでしょうか? そのどれも、いわゆるお化けや殺人鬼が登場する王道のホラーではなく、人間の心理に眠っている恐怖を描いたものだった気がします。もとより文学的情緒や人間的精神の不安定さを怪異含む登場人物に当てはめることが長けている方なので、当然と言えばそれまでですが、先生の描く恐怖のバリエーションの深さには驚かされます。

 今回もそんな人間の内に秘めた恐怖を描いた奥深い作品になっています。最初に述べますが、このお話は事件こそ起きますが何一つ異常な事態は起こっていません。日常の中で流れていてもそこまで違和感がないような…というには少し語弊がありますが、少なくともそこからホラーな思考には至らないかと思います。まあ、とにかくあらすじに入りますね。

 

 本作は冒頭からとても奥深い問題提起がなされます。全文起こすと文字数を食うのでかいつまむと「人は人生において何かしらの痕跡を残したがるが、同時に人生についた汚点も消したいと考えるのではないか?」です。問題提起されるまでもなく、「そうでしょうなあ」とウンウン頷きたい意見ですが、この問題が本作にとっては非常に重要なテーマになるわけです。

 名家の家に嫁いできた春さんは少し古風なほど献身的で一歩引いた良妻でした。派手に遊ぶこともなく、乱れた態度になることもなく、夫に小言を垂れることもなく…。そんな妻を夫は良く愛していました。

 しかし、そんな穏やかな日々は春の幼馴染が夫の留守中に訪れたことで音を立てて壊れてしまいます。これだけで大方を察せると思いますが、もし分からないという人はその純な感性を大切にしてください。幼馴染からのほとんど無理やりみたいな情事でしたが、流され間男を設けてしまった事実は変わりません。その上、事後の姿を隣家の少女に見られてしまいます。これからも間に入りに行く気満々の幼馴染はその日中に事故で死に、事なきを得ましたが、春はこのたった一回の不貞を、そしてそれを覗き見られたことを深く悔やみます。そして、少女がどこかで話はしないかと心穏やかでない日々を過ごします。それこそ、事故に見せかけ少女を殺してしまおうかと思ったほどです。

 

 この作品で描かれる主な恐怖がこの「悪事がバレないかの恐怖」です。形は違えど皆様も共感できる恐怖ではないでしょうか?お化けより怖いなんて人もいるかもしれません。結果的に、夫がこの事実を知ることも、夫婦間が険悪になることもなく春は表面上はすこぶる穏やかな日々を過ごします。

 ここで面白いのが、夫は普通に浮気をし、尚且つそれが明るみになっていたということです。もちろん春もこれを知っています。他でもない春が何一つ咎めなかったことで、単なる若き日の過ちとして日常の中に消化されていったのです。ここで「夫がしているなら私も過去にしたけど無問題だろう」「私もバレたところで夫の時のように流れていくんだろう」と安心したり、反対に夫に幻滅しない辺り、春が守りたいのは愛する人との生活というよりかは良妻としての己の立場である可能性が浮上してきます。

 

 この後も、夫が秘書としてあの隣家の少女を雇うという春の胸を苦しめるイベントが起こるのですが、これでも春の不貞はバレませんでした。そして、春は病床に臥し、余命いくばくもない状態になります。そして、枕もとで主人に自身の過去の過ちを打ち明けます。できれば墓場まで持って行きたかったのでしょうが、死後に隣家の少女にバラされることを思うと、耐えられなかったのでしょう。強い猜疑心は行動の矛盾すら起こしてしまうのです。

 不貞を働いたこと、その様をかつての秘書(隣家の少女)に見られたことを途切れ途切れに伝える春。夫は妻を看取る穏やかな顔のまま、「秘書から聞いて知っていた」と口にします。その瞬間、春は世にも恐ろしい恐怖の表情を浮かべ死亡します。ここの死相は流石のダイナミックさです。春が胸に抱いていた恐怖がどれほどのものだったのかが分かります。こういった王道的な恐怖とは少し離れた題材のホラーや大きなテーマを持ったホラーは多くの漫画家さんが描かれてきていますが、どうしても王道と比べ描写的な面でのパンチが弱くなってしまいがちになります。この前、取り上げた「愛しのゴンゴ」や伊藤潤二先生の「緩やかな別れ」などは名作ですが、シンプルな怖さとしては他に劣るところがあります。決して優劣をつけるわけではないですが、その点、きっちり目にも怖いシーンを印象的に描かれる楳図かずお先生は流石のお手前です。

 

 本作は本当にとてつもない作品でして、この後、春の死後が描かれるわけですが、夫は秘書に幼い時に春を覗いたことがあるか質問します。うん?あれあれ?……そのことは聞いていて知っていたのではなかったのでしょうか?

 その質問に対し秘書は「ある」と答えましたが、彼女の目は寝室にあった綺麗な人形に向けられていました。以前から綺麗な人形が欲しくて忍び込んで覗いていたのです。早い話、あの時の少女は春が不貞を働いていたことを知らなかったのです。となると、春の過ちは誰一人知らなかったと言うことになります。春が死の間際に自供するまで、夫も当然知りませんでした。

 ここで先程捻った首がより傾きます。では、なぜ夫はあの時「知っていた」と答えたのでしょうか。その答えは夫の一人語りで明かされます。何と夫も春と同様に、幸せな日々の中で彼女に不穏な感情を抱いていたようです。浮気までした自分をこうも献身的に支え、贅沢の一つも言わない妻に、あまりに寛大な彼女に恐れを抱いていたのです。自分勝手な恐怖にも思えますが、どれだけ仲睦まじげにみえ、事実そう過ごしてきた夫婦でも心の奥には僅かでも恐怖の心や相手を疑う心が眠っていると言うことなのでしょうか?身に覚えがあるが故の恐怖と覚えがない故の恐怖。両極端から描かれたドラマは超一級品です。

 

出典:『ビッグ作家 究極の短編集』楳図かずお 小学館(ビッグコミックスペシャル)2013.5

※初出は同社『ビッグコミックス』より 1969.4

 

☆これ聞いて書いてました:9

『イヴの肖像』アラン・パーソンズ・プロジェクト(1979)

プログレの大御所が女性の社会的進出や強さについて綴った4作目。

Spotify有

プログレアルバム大図鑑での評価は「地味」の一言ですが、ポップで落ち着いててイイと思います。