中国の小話でこんなものがあります。観光客は絶対に足を踏み入れてはいけないと言われている中国の暗黒街に、恐れ知らずも足を踏み込んだ日本人。そしてそこにある見世物小屋で、四肢切断された上で達磨の化粧を施されている異様な男を目にします。あまりにもショッキングな光景に驚愕する日本人観光客。すると、達磨になっている男と目が合った瞬間に、達磨が日本人に向かって叫びます。「おい!お前日本人だろ!助けてくれ!!」

 

 ゾゾ~っとする嫌な話ですが、まず間違いなく創作だろうと思います。確かに、どれだけ文明の発達した国でも足を踏み入れてはいけないアングラゾーンが一つや二つはあるものです。決して良いイメージとは言えませんが、アジア圏の中でも秀でて中国はそういった我々の想像を超える世界が広がっているような雰囲気があると思います。冒頭で言った小話もそういった奇妙さゆえに生まれたものでは無いでしょうか。というわけで今回はそんな中国特有の妖しさと戦時下でのアジア圏の歪を合わせて描いた怪作「北京填鴨式」を取り扱いたいと思います。本来漢字や中国語で表記する場合と微妙に感じが違いますが、読み方は北京と聞いて真っ先に浮かぶモノで合っている事かと思います。

 

 この世で最もおいしい料理と言われている中華料理。何と言ってもすさまじいのはそのバリエーションです。調味料から食材から調理法に至るまで非常に多彩ですが、中でも素材から変わっているのがタイトルにもなっている北京ダックです。虫に寄生するキノコやサメのひれを差し置いて鴨を変わっている扱いするのもどうかと思われそうですが、変わっているのは種族でなくその飼育方法です。ダックの首から下を土に埋め動けなくして、餌だけをバクバク食べさせ、とにかく脂肪を増やすのだそうです。運動していないのでダックは少しも餌を食べようとしませんが、そんなことお構いなしでくちばしを広げ、餌を突っ込みます。動物愛護団体が卒倒しそうな調理法ですが、確かフランスのフォアグラも似たような飼育法だった気がします。鴨って不憫な生き物ですね。

 中国観光ツアーに来た日本人の群れが、ガイドの仁さんに連れられてダックの飼育場にやってきます。NHKでしずちゃんがおすすめしてきそうな攻めすぎなツアーですが、風俗を学ぶというのであれば確かに良い体験になりそうです。各々写真を撮ったり、カワイソーと驚愕したりと好き勝手リアクションを取る中で、一人剛田という中年が「この光景(地中に埋められたダック)どこかで見たことがあると思ったが、思い出したぞ!」と騒ぎます。何を言うかと思ったら、よりにもよって戦時中にスパイを地中に埋めて処刑した時の光景にそっくりだと不謹慎なことを喚きます。明言こそされていませんが、日本軍のスパイで処刑されたとなると中国人で間違いない事かと思います。この剛田という男は何とも質の悪い男で、今回の件のみにならず、方々で非常識なことを喚き、ガイドの仁さんにも無礼を重ねていました。ガイドの中のガイドである仁さんは、そんな無礼も笑って流し、着々とツアーを進めます。肝心のツアーは飼育風景を見せた後に、北京ダックを実食するという凄まじいものですが……。

 

 さて、そんなこんなでツアーが終わりを迎える最終日前夜、仁さんは夜遊びするのは良いが、できるだけホテルの近くに居て、暗黒街には近づかないよう念押しします。ところが、行くなと言われると歯向かいたくなる困った男が一人いました。散々自分の無礼の尻ぬぐいをさせてきた甥と共に、暗黒街にのこのこ足を踏み入れ、あっという間に襲われ、拉致されます。

 拉致された先で、例のダックのように首から下を埋められた甥。混乱する彼の前には、明らかに身なりが立派になった仁さんが居ました。彼は裏社会での有力者だったようです。仁さんの動機や恐るべき結末は置いておくとして、今回は本作の見せ方に触れたいと思います。

 作中のシーンの多くは、北京ダックの説明に費やされますが、細かな点にもあらゆるチャイニーズ的要素が散りばめられており、ページ数のわりにツアー客はかなり中国を満喫しているような気にさせられます。そんな世界観の作りを徹底させるついでに、仁さんのセリフや剛田の横暴などの伏線を敷き、話を円滑にしています。さらに面白いのが場面転換のたびに挟まれる版画のような劇画的表現です。これによりデフォルメ絵のはずのA作画がグッと生々しくなり、ディープさを増します。この技法自体はAのブラックな作品なんかでよく目にするものなのですが、本作は特にこの技が活かされているように感じます。ラスト一コマの劇画表現は、戦時資料のような奇妙な生々しさを放っています。

 

出典:『藤子不二雄Aブラックユーモア短篇集2』藤子不二雄A 中央公論社(中公文庫) 1995年8月

※オリジナル単行本は1988年発売