昨今、お金の為に身を売る女性が問題視されています。彼女たちはまるで「これが常識」「かしこい選択」であると誇示するようにその対価で得たモノをSNS上で掲げます。僕にはてんで縁がない話なので踏み込んで語ることは難しいですが、女性にとって身を売るという行為は、いざその気になれば容易いことなのでしょうか?偉そうなことは言いませんし、忌避こそすれ説教を垂れる気なんて毛頭ありませんが、SNS上の彼女たちの発言はどうにも、誰かしらより自分自身に言い聞かせているように思えます。当たり前ですが、きっと身を売る方にもいろいろな葛藤や思いがあるのでしょう。

 

 反面、男は単純。性欲オンリーです。金を払って若いチャンネエとイイ事したいのです。大分前に読んだ小林よしのり氏の『戦争論』内で「大人という存在を勘違いして自分の身を売る女はバカだが、買う男はそれ以前の畜生そのもの」と言った旨のコメントをされていました。相変わらずキツイ言い草ですが、一般の意見を遠慮なく形にするとこういったモノになると思います。

 そこでふと思ったのですが、反対に男と寝たいからという性欲オンリーで体を許す女性は現実に存在するのでしょうか。現実にいるかどうかは分かりませんが、フィクションの中には割といます。今回はそんな中でも、かなり重い、訳ありな女性をフォーカスしようと思います。『火垂るの墓』で知られる小説家、野坂昭如さんの小説を漫画化したコミカライズ短編集『怨歌劇場』より「マッチ売りの少女」を取り扱います。

 

 夜道を行く男に声をかける汚い身なりの女。彼女は5円でマッチを買わないかと商売を持ち掛けます。もちろん令和の5円とはモノが違いますので、マッチ一本に見合う値段ではありません。と言っても、男も読者も、女がその実マッチ以外のものを売ろうとしていることくらい容易に察することができるでしょうか。10円払って誘いに乗った男は、マッチを擦り真っ暗な夜道の中で女の股座を照らします。マッチは単なる隠語だと思っていましたが、まさかプレイの内容に含まれていたとは…ちょっと斬新です。

 10円払った男はお釣りを求めますが、女は文無しな上、この男が本日初めてのお客だったのでお釣りの用意がありません。代わりに先程のプレイをお代わりさせてあげますが、弾みで見えた女性の顔ですっかり萎えてしまいます。顔見えない方が良いエロスってありますよね。

 

 萎えたついでにツバを吐かれるくらい醜い女性でしたが、少女のころは整った顔立ちをしていました。しかし、母親の再婚相手が悪い男で、酒乱で暴力も振るう絵にかいたようなろくでなしでした。実の母に関しても、間男をこさえては亭主の居ぬ間に盛る貞操観念の薄い女性でした。そんな劣悪な環境で育った少女は14歳のころに、母親の留守中に訊ねてきた間男に抱かれ、初めての性交を迎えます。その際、少女はこの間男が自分の実の父親なのではないかと思い込むようになります。

 なぜそう思ったのかは定かではありませんが、彼女が父親と認定した間男との交流…つまりは家族関係は肉体によるモノのみです。これ以降、少女は性交によって父親のぬくもりを感じるようになります。

 

 その後、間男がバレ、再婚相手に激怒された母親は怒りを抑えてもらうため、若い娘の肉体を差し出します。「この娘を抱いて良いから」と差し出されるままに、再婚相手は少女を抱きます。少女売春をするパパが畜生なら、この両親は鬼畜です。

 そんな不遇過ぎる環境の元、少女は男のぬくもりを求めて成人になってからも良きずりの男とワンナイトラヴを重ねます。そんな生活を続けて、尚且つ戦後間もなくの過酷な時代。気が付けば可憐だった少女は冒頭のマッチ売りにまで堕ちてしまいます。

 

 そして、彼女は売り物のマッチを擦り、客もいないのに自分の股座に近づけます。そして、彼女は例の父親に思いをはせるのです。汗だくで、必死に熱い体を擦りつけてきた父親の想いでを抱くように、マッチで己を燃やし、夢を見るままにそのまま焼死します。死因こそ違えど、元ネタであるアンデルセン童話と同じ末路です。

 

 この上なく後味の悪いお話ですが、そんな中でも滝田ゆう先生の絵は美しいです。昭和という暮らし、戦争という暮らし、セリフの代わりに絵を浮かばせる吹き出し。素朴な魅力の一つ一つが、余りにもリアリズムで飾り気のない野坂昭如の世界観によくマッチしています。

 

出典:『怨歌劇場』滝田ゆう(原作:野坂昭如) 講談社 1980.1

 

☆これ聞いて書いてました:3

『放送禁止歌』山平和彦 (1972)

ダークなフォークを綴った1stアルバム。収録曲「月経」「大島節」は本当に放送禁止となった。

Spotify有

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