テレビ番組などで感動的な実話を取り上げることが度々ありますが、そんな中で僕が最も感動したのがある病魔に襲われ後が長くない少女が、家族に向けた手紙を家中に隠したという海外のエピソードでした。いわばこれも大量の遺書であるわけですが、自分の死と向き合って尚、家族のことを思うなんてと、少女の気持ちを考えると涙が止まら無くなった覚えがあります。このように遺書というのは死と結びつくものですから、非常に大切なものです。その人との形を持って迎えられる最後の対話なのです。さて、松本清張先生の短編小説である本作もタイトルの通り、大量の遺書を残します。ただし、例の少女のように迎えが来たわけではなく、こちらから飛び込んでの死ですから、決して縁起の良いものではありません。借金を苦に自殺をした大森社長は何を思って遺書を書いたのでしょうか。

 

 サスペンスの名手で知られる先生ですから、この先、大森のもとで働いていた主人公が死の真相を知ったり、遺書を読んであれこれ推理する展開を思案しがちですが、本作は地方新聞の片隅で自殺を知った主人公があくまで一方的に死について考えた作品になっています。そこに明確な事実だとか、理屈めいた論だとかはありません。ただひたすら大森について回想し、それが小説のほとんどを占めますが軸はあくまで主人公です。

 さてそんな関係性ですが、主人公が給仕として働いていたオフィスの所長としてやってきたのが2人の出会いです。そして、そのまま単なる所長と給仕の関係で終わります。事実、新聞記事を見るまで主人公は大森のことを忘れていました。大森は真面目で有能だったようですが、どうにも軽く見られてしまう人柄だったようです。不満を抱いても口に出せない弱気さがそうさせたのかもしれません。主人公が犯した失敗とその後ついたある嘘に関しても、ショックこそ受けても口には出さず、責めることもなかったようです。主人公はそんな大森を見て、勝ち誇ったような陰気な喜びを憶えます。他の優秀な会計が有能なのをいいことにオフィスで私情を振りまいても、言及することすらできませんでした。有能であること以外、僕にも重なるところがあります。

 

 そんな大森と主人公が働いていた会社ですが、業績が悪く親元が倒産します。その衰退の過程で主人公も足切りを食らうのですが、その際に大森は人生の転機を見逃さずしっかりとするようにと静かに主人公へ檄を飛ばします。自分はそれが叶わなかったことをくるめて。しかし、その後社長になったのですから、遅咲きで良い転機に恵まれたと言えるのではないでしょうか。最もその後の結末は知っての通りですが。

 さて、主人公はそんな大森の人柄を思い出し、律義に関係者各位に先立つ不孝を詫びるため八十通もの遺書を用意している姿をありありと思い浮かべます。また同時に、八十通という一朝一夕には用意できない代物を準備している間の長い長い時間を思います。それは自分の死について考える、向き合える時間でもあるわけです。ここで唐突に主人公は自身の叔父の自殺も思い出します。叔父は首をくくった松の木で死の間際タバコを吸っていました。その吸い殻の数が甚大だったこと、それだけ叔父も死を躊躇い、生を躊躇い、悩みぬいて来たわけです。一本、二本と増えていく煙草を、ふと主人公は大森の遺書と重ねます。八十通という切りのいい数字ですが、果たして初めからその枚数を予定していたのでしょうか。ひょっとすると、叔父の煙草のように徐々に増えていったのかもしれません。そして、それは紛れもなく大森が死を覚悟するまでの葛藤の形なのです。

 

 主人公が大森という知人とも言いにくい間柄から、ここまでのことを思った背景に、主人公が50を超え、自身の死について考えるようになったことがあります。得体のしれない死というモノへの恐れや悩みが、ここまで大森の遺書について推察させたのです。自殺を幇助するわけではありませんが、自殺する人間にも膨大な、それこそ小説にでもなりえるような背景があります。そんな当たり前のことを思い出させてくれる短編です。

 

出典:『潜在光景』松本清張 角川文庫 2004年10月

※初出は昭和32年『文藝春秋』