『メイコの遊び場』『鬼死ね』などの人間心理に深く斬りこんだ作品を得意とする漫画家さん、岡田先生のオムニバス『ようきなやつら』から「忍耐サトリくん」を取り上げます。『ようきなやつら』はそれぞれの話で妖怪にフューチャーしたドラマを描いた作品です。

 本作ではタイトル通りサトリという妖怪が登場します。人の心を読むことができる妖怪です。ですが、それが如何にも功能なものとして描かれていたのは遠い昔のことです。昨今はサトリであろうとなかろうと、妖怪だろうと超能力者だろうと、人の心が読めてしまうということは大きなコンプレックスとして描かれがちです。偏にそれだけ人の本心という奴は汚いとみんな思っているという事でしょう。裏を返せば、全員自分の心も汚いことを自覚しているも同然です。例に漏れず、本作に登場するサトリくん(妖怪とは明記されておらず、サトリという名前の一男子高校生として描かれている)も人の心を読めてしまう体質故に人付き合いが上手くいかない様子です。というより、人の心を読むトリガーである目を合わせるという行為自体が怖くてできません。

 

 そんなわけで一学期も終わろうとしているのに、未だ友達はおろか誰かと話したこともロクにないサトリくん。当然、担任の先生も心配して面談を持ち掛けてきます。最初は突っぱねるサトリくんでしたが、あまりにもパーフェクトコミュニケーションな教師の応対により、遂に心が読めるという秘密を打ち明けます。おまけににわかには信じがたいであろうサトリ君の秘密をあっさり呑み込みます。メガネをかけて、物腰柔らかで、イケメンで、生徒の対応にも柔軟なんてほとんど『女の園の星』に出てくる星先生です。

 ここで星先生もといサトリくんの担任の先生が唱えた教えが、「心の声は許容しろ」というものです。つまり心の奥では何か快くない感情を燻らせていても、それを面に出さず喋ってくれるのは「対話ができる人」なのです。喋れるなら、少なくとも接することができない人と言うわけではありません。確かにおっしゃる通りですが、サトリくんは渋い反応。それなら例え裏で毒を吐かれることが分かっていても見て見ぬ振りしなければいけないのか。それもその通り。一先ず、相手の内面と外面の違いだとか、「対話」に慣れなくてはいけません。というわけでサトリくんは先生の提案で、先生と目を合わせての対話にチャレンジします。

 

 かなり心を開いたサトリくんは、勇気を振り絞って先生と目を合わせます。すると、何と言う事でしょう……聞くに堪えない罵詈雑言の数々が湧いてくるではありませんか。もちろん発信元は先生ですが、あまりのギャップに一瞬外部から漏れてきているのではと錯覚する程です。サトリくんに対する聞くに堪えない暴言だけにとどまらず、早く女子生徒でしこりまくりたいという発言まで飛び出します。星先生に似ていると言ったあの発言、撤回させてください。

 これにはサトリくんも「やっぱり人の内面は恐ろしい」ではなく「アンタの心の中醜すぎるだろ!?」という反応。よくもまあ、いけしゃあしゃあと自分で練習しましょうなんていったモノです。さて、トラウマを植え付けられそうなサトリくんですが、翌日、クラス全員で行くキャンプに誘われ、驚いた拍子に女子生徒と目を合わせてしまいます。ところが、その心は自分を気遣う優しいものでした。サトリくんは逆にギャップを食らい、戸惑いながらもキャンプに行きたいと返答し、見事連絡先をゲットします。

 卒業間際に大学の友人が言っていたことですが、「自分は周囲から声をかけて欲しいと3年間思っていた。それでも誰も声をかけてくれなくて3年間落ち込んで、4年目になってようやく全員自分と同じことを考えていたということが分かった」とのことです。この発言を用いて何が言いたいかと問われれば上手く返せませんが、要するに誰かと仲良くなりたいと思っていない人なんて少ないよってことです。まあ、断言はできませんけど。

 

 「こんなことならもっと早くから…」と丁度僕の友人と同じことを考えるサトリくんの前に、教師の皮をかぶった下衆野郎(サトリくん談)が現れ、先程の流れに喜びの表情を見せます。そう、あくまで表向き、裏は相も変わらず自慰行為のことで頭がいっぱいです。サトリくんはこの教師の内面を必ず曝け出すと意気込み、果てにはそれを教師本人に宣言するという漢気を見せますが、それに対し、教師は「人権意識を持て」と反論します。要するに「思想の自由」という奴です。

 今まで見たくもないのに人の心を見てきたサトリくんに逆転の発想で反論したわけですね。向こうは見たくないのかもしれませんが、そもそもこっちも見せたくないのです。いわばプライバシー侵害です。確かに、サトリくんの相談を「かまってちゃんのめんどくせえ与太話」と一蹴し、暴力行為を振るいたいとすら思っている上、聖職者という立場でありながら女子高生を性的な目で見るという教師であってはならない内面ですが、真逆に外面は完璧な教師でした。内面が汚すぎる自分を練習台にしたのも、サトリくんに人の心を覗いたうえで、それを非難したり、嫌煙する材料にして欲しくないと言う事を伝えるためです。(内面では単なる洗脳と断言していましたが…)

 

 ここからは本編を逸脱した僕個人の主張なのですが、そもそも性格が悪い人なんていないのではないでしょうか。僕はこのブログで散々倫理的なことを指摘している一方で、大がつくほどのイヤらしい性格をしています。物事を斜に構えないと受け取れません。だからこそ、一般的な性格の良し悪しというのは単に空気が読めるか読めないか、感情を上手くコントロールできるかにあると思います。コントロールできずに見せるべきでない人にまで内面を見せてしまうのは悪い人、見せないのが良い人なのです。かなり観念的な、斜に構えた僕らしい論ですが、こう考えれば、嫌らしいのは自分だけではないのだと思えて、幾分か生きやすくなったりします。ひょっとすると本作の先生も似たようなことを考えているのかもしれませんね。

 

出典:『ようきなやつら』岡田索雲 双葉社(WEB アクション) 2022年8月