リアリズム(写実主義)とは現実的な描写で作品をありのままに表現することを言います。かなりざっくりしてますが、絵画で言えばミレーの落穂ひろい、小説で言えば二葉亭四迷の『浮雲』がリアリズムの代表作です。では宿のリアリズムとは?つげ義春先生がエッセイ漫画で教えてくれます。

 

 「マンガのネタを拾いに旅する身にはシベリアから吹きまくる寒風は身も心も凍らせる」と、冒頭から内情をもろ出しするつげ先生。おまけに経費削減のためにこういった遠征の際は商人宿を利用しているという世知辛い裏事情まで聞いてもないのに暴露してくれました。商人宿とは早い話が現代で言うビジネスホテルみたいなものです。(と言っても作品の舞台も現代ですが)

 行商人や取材旅行の劇画漫画家なんかがよく利用する旅館なのですが、素朴でつつましいモノを好むつげ義春先生にとっては正に「みすぼらしくて美しい」梶井基次郎的憩いの場所なわけです。灯台下暗しと言いますか、つげ義春先生はそんな日頃からよく利用している場所こそ恰好のネタであると踏み、早速取材先の青森県鯵ヶ沢で商人宿を探します。

 しかしいざ探してみると、たどり着けないもので、現地で聞き込みをするも行き違いにより目当ての商人宿にはたどり着けませんでした。そんなわけでつげ義春先生が商人宿と勘違いし利用することになった民泊こそ、今回の主題であるリアリズムの宿なわけです。ただしつげ義春先生が言うリアリズムは上記の意味とは少し塩梅が違います。ここでのリアリズムとは「生活の匂い」を意味し、つげ義春先生のお眼鏡的にはありすぎると嫌になる、マイナス要素なのです。

 

 果たしてその宿は、いかにも貧しい一家が細々とやっているもので、みすぼらしさもつつましさも度が過ぎています。欠片も美しくありません。宿の子どもがドタドタと走り回っていたり、それを咎める母親の怒声がはっきりと聞こえたり、確かにキツイ生活臭です。

 Tiktokの世界ではみすぼらしい、生活感あふれる場所でおっぴろげに撮影することは「和室界隈」なんて蔑称で中傷するようですが、どんなものでも生活臭というものは人を惨めな気持ちにさせてしまうのでしょう。と言っても、畳が傾いている、部屋からの風景がよろしくない、風呂が一家が入った後の使いまわしなど、クレームを上げたらきりがない旅館であるあたり、リアリズムだけの問題ではないような気もしてきます。そもそも、つげ義春先生は部屋を見た瞬間に、見切りをつけ宿を出ようとしていたのですが、半ば無理やり女将さんに引き留められ渋々泊ることになりました。傍迷惑に感じる話でしょうが、実際その光景を見ていると、女将さんのあまりの必死さに「泊まってやれよ!つげ!」と声をかけてやりたくなります。「リアリズムを目の当たりにすると心苦しくなる」というのは劇中のつげ義春先生のモノローグですが、よく言ったものだと感心しちゃいます。

 

 「リアリズムを目の当たりにすると心苦しくなる」この言葉はこの作品の本質であり、リアリズム(写実主義ではなく生活の匂い)の本質でもあります。

 僕は鍵っ子でしたが、母親が気を利かせて毎日僕と兄宛に置手紙を書いてくれていました。そこには晩御飯や家事の指示が事細かに書かれています。勿論誰に見られても恥ずかしいものなんかではありませんが、友人を家に招いた際に置手紙を目に入れられてしまったあの時の気分は言葉にできないものがありました。おそらく目に入れてしまった友人も少なからず感じていたことでしょう。外の世界というのは多かれ少なかれリアリズムを断ち切らせないといけないものなのかもしれません。

 作品のラストは、芥川龍之介の『くもの糸』を音読する宿の長男の声を聴きながら眠るシーンで締めくくられます。学業の一環、おそらく課題か何かなのでしょうが、そのたどたどしい音読につげ義春先生は長男の学力を案じます。他人の家庭を臭わせるリアリズム。それに触れた時、写実主義によって描かれた作品の現実が如何に空想的かつ理想的な存在であるかが、わかるコトかと思います。

 

※本作の初出は双葉社『漫画ストーリー』1973年11月号ですが、今回のブログを書くにあたって参考にしたのはちくま文庫『貧乏まんが』(山田英生:編)です。新刊でのお取り扱いも行っているため、是非ご一読ください。(僕は関係者でも何でもないので差し出がましいですが……)