何となくのイメージだけで語りますが、小学館には野性的な漫画家が多いような気がします。ここでいう野生的(ワイルド)とはいわゆる飾り気のない登場人物の欲望や感情をストレートに表現したような作風を指します。ファンタジー物であったり不良漫画であったりといった少年漫画ではそういう性格の主人公たちが悪の何たらと戦うお話になりますが、野生漫画の多くは世の風潮、集団的な同調思考、法律といった個性を縛るものと戦います。

 少年漫画の大半が悪に勝利するのとは異なり、野生漫画は大抵敗北します。戦うというより足掻く、抗うと言った方が相応しいような気がしてくる程です。昨今は個性を大切にするという考えが広まっていますが、野生漫画はそれらのチャラチャラした優しさを逆に嫌います。

 確かにメディアで提唱される「敬えられるべき個性」というものは上記の法律だとか風潮だとかを守っているものにのみ許されるものなので、野性味あふれる登場人物が嫌うのは当然かもしれません。個性を尊重するとか言っておきながら、税金を納めているか、きちんと社会に貢献しているか、法は犯してはいないか、学歴はあるのかをやたらと気にする世の中は確かに歪です。

 私自身は「縛られるからこそ個性を育む余裕が生まれる」と考えているので、特別マイノリティを尊重したり、集団的同調を毛嫌いしたりはしないのですが、個性と常識の両立が成しえていない歪さには嫌気がさしています。そんな時に野生漫画を読むと何だか胸がすくというか、心のもやもやを取り払ってくれます。

 

 小学館にはこの手の漫画家が多いと言いながら一人も例を出していませんでしたが、ざっと挙げるなら新井英樹先生、浦沢直樹先生、花沢健吾先生、そして今回取り上げる作品の作者、土田世紀先生です。40代という若さでこの世を去られていますが、その間に『夜回り先生』や『同じ月を見ている』といった数々の作品を世に出されてきました。

 今回取り上げる『ノーサンキューノーサンキュー』は全く異なる経緯で人生から脱線してしまった二人の男の人生ドラマです。野生漫画ではこういった人生というレールからはみ出してしまった人々にもよく焦点を当てています。

 野生漫画の登場人物は基本的に勉強もできない、お金もない、家庭も築いていないなので、人生からよくはみ出ます。逆に言えばこれらがないだけではみ出してしまう人生の何と難解なことか、というテーマでもあるわけです。


 二人の男は友人ですが、その性格や境遇は全く異なりました。まず男Aは警察官でしっかり働いています。お金もありますし、掃除をしなければ気が済まない性格で部屋はピカピカです。様々な趣味に手を出していてホビー類も充実しています。しかし愛する人と死別してしまってからは生活の何にも楽しみを見出せません。掃除や料理を極めているのも一人でも平気で生きられることを証明しようと躍起になっているが故の副産物でしかありませんでした。どれだけ趣味に手を出しても楽しみを見出すことができません。

 一方の男Bは職なし金なし甲斐性なし、でも家を出た妻が置いていった娘はありというどうしようもない状況です。友人のAに金を借りてギャンブルに費やします。その上、夜毎ベンツ狩りを行うという本当にどうしようもないダメ男です。敢えて安っぽい視点で作品を見てみて、「同情するのはどっちだ?」なんて安っぽいアンケートを取れば100:0でAの圧勝でしょう。 


 経緯や客観的に見た印象は180°違う2人ですが、いっぱいいっぱいで後がないのは同じです。警察官で真面目に自分自身を律しなければ安心できない性分のAがベンツ狩りの現行犯であるBを見逃したのもいっぱいいっぱいの現状を無意味に足掻くという行為に共感したからなのかもしれません。いや、ただの趣味と犯罪は違うだろなんて意見を出しては楽しめないのが野生漫画です。

 

(出典:『土田世紀短編集 ノーサンキューノーサンキュー』土田世紀 小学館 2005年12月)