まだまだ紹介したい作品はてんこ盛りですが、ひとまずこの辺りで伊藤潤二先生の短編ラッシュは最後にしようかと思います。

 最後にふさわしい作品を、と思い伊藤潤二先生最高傑作と言われている作品、「首吊り気球」を取り上げます。奇抜な発想、不思議と笑えるシュールさ、オチ、ストーリーの構成力、描写等々、どれをとっても確かに一級品。いつも優柔不断で一番好きな作品を決めることはできない私ですが、最高傑作に相応しい潤二先生の味を思う存分楽しむことができる最高の作品であると思います。


 意外にも未だアニメ化されていない作品なのですが、実写映画化はされています。伊藤潤二先生の実写化と言えば何度もシリーズが作られる『富江』ですが、実はひょこひょこ実写化されている作品は多数あります。長編の『ギョ』や『うずまき』はともかく、短編の「長い夢」や「うめく排水管」はどうやって一時間半ほどの尺を作ったのでしょうか。どれも評判がすこぶる悪いので今一つ見る気になれませんが、「富夫~赤いハイネック~」の実写化は何と伊藤潤二先生本人がメガホンを持たれた作品の為、少し興味があります。奇跡的にここで挙げた作品はまだ取り上げていない作品ばかりですが、どれもすこぶる名作の為ぜひ、原作から手に取って読んでみてはいかがでしょうか。

 

 「首吊り気球」は上記の理由から既に知っている読者も多いのではないでしょうか。本作の幹にあたる首吊り気球は設定だけでも人を十分惹きつけ、面白がらせる実力を持っています。気球というより風船のようなそれらは不気味に笑んだ人の顔をしていて、縄(風船で言う取っ手部分)に設けたわっかを使って、自分と同じ顔の人間の首をひっかけます。何故か気球目線で話をしてしまいましたが、要するに自分と同じ顔をした気球に絞殺されそのまま空の彼方へ吊り上げられてしまうのです。すこぶる恐ろしい設定です。おまけに首吊り気球のダメージはそのままその顔の人間に跳ね返る為、気球に対し何の手出しもできません。パニックホラーは数あれど、ここまで恐怖感と嫌悪感の強いモンスターはいないのではないでしょうか。

 

 パニックホラーの冒頭は、平穏な日常を送っていると唐突に化け物が現れて、友人や周囲の人々を手当たり次第に殺していくというのが一般的です。基本的に映画でも漫画でもここまでの展開は非常にスピーディで、学園が舞台の作品だとまず間違いなく学校内に化け物が現れ、さっさと暴動が起き、主人公がヒロインと共に一匹二匹、化け物を退けて「どうなちまったんだ…ひとまず脱出だ」という感じの展開を一話で終わらせることでしょう。

 その点、本作は異様なほど前座が長いです。アイドルで親友だった同級生が自殺し、葬式を挙げ、その同級生の彼氏と死の真相について話し、ファンクラブの面々に絡まれ、同級生の幽霊目撃情報が出て、写真に納まったものをテレビで取り上げられ、同級生の彼氏が件の霊を見たと話し、主人公に彼女の霊を見せるため呼び出し、主人公の前で彼氏が首を吊られ、とここで初めて首吊り気球が登場します。

 というか今まで長い時間をかけて扱ってきた親友の自殺の真相は、単に首吊り気球に襲われ途中でワイヤーが切れただけに過ぎなかったのです。この前振りを物語の実に半分もの尺を使って描いています。前振りというおざなりな言い方こそしていますが、私は個人的にこれほど素晴らしいパニックホラーのプロットは後にも先にも存在しないとすら考えています。

 理由はうまく言えませんが、この本筋に全く関係なかった自殺騒動は読者に後に控えるとんでもない恐怖の衝撃を与えるための策略だったのだと考えています。『アイアムアヒーロー』でもゾンビが出るまで実に一巻分もの間、ゾンビを出さずうだつの上がらない漫画家アシスタントの日常を描いていましたが、それでもところどころ臭わせるようにゾンビの予兆を醸しています。勿論、これも臨場感やハラハラした緊張感を出すために欠かせない素晴らしい構成ではあるのですが、「首吊り気球」のように奇抜で誰も考えが及ばないような事態が待ち受けているのならば、いっそ全く別の料理をこしらえているように見せかける方が相応しいフリなのではないでしょうか。

 

 本作の魅力の設定と構成には触れたので続いてはシュールな笑いです。自殺騒動から始まり、理不尽な怪物の餌食になる家族を描いている本作は一貫してシリアスかつ重いシナリオですが、語らずにはいられない名シーンが多い作品でもあります。一般家庭で平然と出てくるクロスボーガンやとてつもない事態にもかかわらず出勤しようとし、あっという間に吊られてしまうパパなどは必見です。

 オチは言いませんが、アイデアだけでオチが弱いことが多いと編集に駄目だしされる潤二先生のイメージを覆すほど良いものになっています。短編という事もありますが、やはりよくあるパニックホラーとは一線を引く作品なのではないでしょうか。


(出典:『伊藤潤二傑作集8 うめく排水管』伊藤潤二 朝日新聞出版 2013年4月)