「僕はこれから勉強を積んで洋行を済ませたそのあとは降るアメリカをあとにして晴れて日本に立ちかえり一大事業をなしたのち天下の男と言われたい」都都逸の節で高らかに夢を描いた細菌学者、南方熊楠は天才であると同時に非常に曲者で、日本史でも屈指の変人で知られています。こんな野心的な都都逸をうたっておきながら、生物学にしか興味がなく熟した偉業のわりに、当時は知名度がなかったのですが、近年では民族学者の柳田國男からの評価も相まって再評価されてきています。中でも記憶力が群を抜いていたらしいですね。その奇人っぷりもあって小話を追っているだけでも面白い非常に魅力的な偉人です。

 

 「てんぎゃん」はそんな熊楠の幼少時代のあだ名で、天狗という意味があります。由来は山に採集に入った熊楠先生が何日も帰らないことからきているようです。変人好きの水木先生はそんな天狗少年が大好きなようで、本作は熊楠少年について綴った伝記のような内容になっています。手塚治虫先生が世界の歴史を監修されたり、石ノ森章太郎先生が『日本史』を執筆したり、日本で大ヒットした横山光輝先生の『三国志』など漫画界の重鎮と言える先生たちはみなさん歴史に関する書物を多く出されています。水木先生も歴史とは少し異なりますが、『今昔物語』や『遠野物語』を漫画化されています。しかし熊楠に関してはまず、歴史について扱った漫画という垣根を越えて水木先生は数多く執筆されています。相当な大ファンです。『猫楠』という長編漫画も描かれていますし、「てんぎゃん」では描かれなかった海外で活躍する熊楠をベースにした『怪傑くまぐす』という短編も描かれています。

 「てんぎゃん」では熊楠の偉業や実績ではなく彼の人となりや奇人っぷりを集中して描いています。ここらへんが歴史書では見られない面白さです。逆に情報がアバウトすぎて教科書には用いられません。南方熊楠という人間に興味を持つきっかけを作るには非常に良い短編ではないでしょうか。

 

 また人となりの中でも水木先生が力を入れて描写しているのは、変わり者である熊楠を大人たちが呆れたり驚いたりしながらも、才能を認めたり自由にのびのびと暮らさせたりしていた彼の恵まれた環境です。もちろん大人たちが手放しにさせておきたくなるほど、熊楠が異彩を放っていたという彼の凄さはありますが、当時の風潮を鑑みてもここまでのびのび暮らせたのは周囲の寛容があったからなのかもしれません。

 ちなみに本作の熊楠はかなり三枚目に描かれていますが、現物は滅茶苦茶男前です。こんな見た目でキレたらゲロを吐いて威嚇するのですからたまりません。

 

(出典:『京極夏彦が選ぶ!水木しげる未収録短編集』水木しげる 筑摩書房 1999年12月)