現代人にとって、寺社仏閣でお守りを買ったり、おみくじで占いをしたり、御朱印をもらうのは、もはやレジャー感覚で、本来のゲン担ぎという目的は建前になっています。参拝自体が江戸時代の時分から観光事業と化していたのですから、当たり前と言えば当たり前ではないでしょうか。寺社は賑わい、参拝客は楽しいうえに御利益までいただける、いいことづくめです。

 そんなこんなで京都観光をしていると、安井金毘羅宮で縁結びを行った後、清水寺に隣接している地主神社で恋愛成就のお守りを買ってしまうという、神様に二股行為を働いたも同然な事案に陥ってしまったりもします。まあ信長のお墓がいたるところにあるような国ですから、多少の不敬も水に流してくれるのではないでしょうか。けっして唾を吐いているわけではないんだし。

 しかしレジャー目的と言っても買うならば、何というかご利益があるっぽい、パワーを秘めていそうなモノを求めてしまうのが、オーディエンスの贅沢なところです。プラスチック製の卒塔婆や印字の御朱印にいまいちありがたみを感じないあたり、雰囲気は大切ですね。

 そんな信心とビジネス・レジャーの中で、せめぎあう微妙な心の問題をコミカルに面白おかしく描いているのが、今回取り上げる短編漫画「担いだ縁起」です。作者は以前、エッセイ漫画を取り上げたpanpanyaさんです。本作はエッセイではなく創作作品の為、当然ですが出てくる神社もフィクションです。本当にこんな神社があるなら行ってみたい気はしますが…。


 主人公が購入したお守りが足を踏み外した弾みで、ドブに落ちてしまいます。「縁起でもない」と落ち込む主人公に慌てて宮司さんが駆け寄り、このお守りは不良品でしたと替えのお守りを持ってきます。

 意味が分からず唖然とする主人公に、宮司はお守りの製造工程を説明するため、工場へ招きます。そこではベルトコンベアに乗せられたお守りたちが凄まじい量のミシンマシーンの手により、縫合されている光景が広がっていました。当社は全自動化された完全自社制作です。と自慢げに言う宮司。

 そんな全自動化の波は御祈祷にまで行きわたっていて、神主ではなくマシンアームについている御幣(神主さんが持っている白いぴらぴらが付いた棒)ががちゃがちゃしているだけという始末。主人公もすっかりありがたみを感じなくなってしまいます。


 しかし、ここからが全自動お守りの御利益を裏付ける最大のポイントです。突然、ぐにゃぐにゃになったり狭くなったり、ベルトコンベアの形が不安定になってきます。当然ポロポロ落ちていくお守りたち。

 大方が予想する通り、この難所を抜け、生き残ったお守りこそが御利益のあるお守りなのです。ちなみに落ちたものは後日回収され敗者復活ゾーンからのやり直しになり、それでもダメなものはポチ袋として再利用されます。廃棄物を出さない生産者の鏡のような経営スタイルです。流石は神に仕える身といったところでしょうか。

 その後、生き残ったお守りたちは恋愛、交通、家内安全、金運などのお馴染みのお守りレーベルたちが羅列されたパチンコ板を駆け下り、自らの効用を定めます。それでいいのかと思うところはいくつかありますが、ここまですると不思議とご利益にも裏付けがあるような気持になってきます。天に身を任せているわけですから、変に祈祷するよりもある意味効率的かも……なんて不敬すぎる考えまでよぎってしまいます。

 結果的に最上のお守りをもらった主人公が、あえてちょっと雑に扱ってしまうのが可愛いですね。本作には他にも、パチンコ板に富士、鷹、茄子などの縁起物のイラストが描かれていたり、落ちたお守りを回収する雑用をキツネが任されていたり作者らしい可愛らしい仕掛けが続々あります。


(出典:『二匹目の金魚』panpanya 白水社 2018年2月)