今日丁度ニュースでやっていたんですが、身分を偽り大学共通テストの問題を東大生に解かせようとした女性がいて、一部問題が流出してしまったようです。

 犯人の肩を持つわけではないですが、この能力格差社会。そうでもしないと生き残れないと考えてしまうのも妥当なことなのかもしれません。

 実際、一昔前の中国では試験は総力戦ということで、家族ぐるみでカンニングを行っていました。裏口入学や特別措置も、持つものの特権として非難の対象ではなかったそうです。人間を測る物差しがデータになった現代では、生き方もそれ相応に淡白で、薄情なものになるのかもしれません。何にせよ、私のような学も才能もない人間には生きづらい世の中です。


 「こんな世の中に誰がした!!」となると、まあ結構な数の容疑者がいますが、A級手配犯は福沢諭吉ではないでしょうか?四民平等、学制の導入、『学問のすすめ』の大ヒット。まさに実力社会の立役者です。今回、取り上げる正宗白鳥の小説「塵埃」はまさにそんな考えが広まった明治時代に発表された作品です。彼の出世作にあたる『紅塵』に収録されている初期を代表する傑作ですが、この『紅塵』の発表にも面白い秘話があります。

 正宗白鳥は生きるためには働かねばならない、生きるために小説を書くようになってしまったと嘆きの思いで、本作を発表しているのです。実力社会は文学の世界にも現れてきたという事でしょうか、本作も生きるために働く男たちを描いた悲哀に充ちた内容になっています。


 主人公はあまり栄えていない出版社の校閲の仕事についています。低賃金で仕事の内容もけっして充実はしていない、そんな会社に勤めている現状に新入社員の主人公はこのままではいけない、変わらなくてはいけないという感情に苛まれています。焦燥感というよりは野心、現状に満足し堕落(主人公視点)した生活を送る先輩たちへの蔑視と受け取れる反応です。若い自分にはもっと可能性があるのだ、もっと高みへ行かなくては、そんな前向きな感じです。何だか転職サイトのCMみたいな主人公で、いまいち共感が持てません。あまり栄えていない出版社の校閲の仕事を最高のロケーションに感じてしまう私はきっと主人公が見下す先輩側の人間なのでしょうか。


 給料日を迎えた主人公は先輩の中でも特に向上心がなくぼんやり生きていると見下している先輩を飲みに誘います。いい性格してますね。

 安居酒屋ででちびちびと飲み始める2人ですが、大人しかった先輩が急にくだを巻き始めます。饒舌になった先輩は若い主人公をひたすらに羨みます。そして老ける一方の自身を嘆きます。いつもと調子が異なる先輩に少し驚く主人公、しかし打って変わって先輩は主人公の口づさむ歌に調子を合わせてきます。それがまた大したお手前です。驚く主人公に先輩は「自分は歌が趣味だった」と語ります。稽古こそすれとても舞台は見に行けない先輩は会社に支給される芸雑誌を読むことが生きがいでした。しかしその芸雑誌はある日急に、支給を打ち切られてしまったのです。給料の値上げも雑誌の再支給もどちらも聞く耳を持たれなかった先輩はただ碌々に置いていく一方なのです。

 先輩の話を聞き、去り行く先輩の背中を見ながら、主人公は自分には若さがあると繰り返します。その心は以前のような野心ではなく、焦燥感の方が強いのではないでしょうか。ポテンシャルの問題ではないことが先輩によって明らかにされてしまったからです。野心がないのではなく、碌々と老いる中で、削られていったのです。後はもう若さしか、主人公に頼るものはありません。


 実力主義になる前の日本は、お家柄や性別といった出生がものをいう社会でした。豆腐屋の子は豆腐屋、歌舞伎役者の子は歌舞伎役者、女の子は誰かのお嫁さん。先程実力社会にぶーたれていた私も決して名のある家元の子ではありません。実力主義という制度はある意味で私たちのような存在にこそ必要な制度と言えます。しかし実力によっていくらでも這い上がれるこの社会は、うまく生きられない言い訳をすることができなくなった社会であるとも言えます。

 そんな言い訳なんぞ言っている暇があるなら努力をしろ、勉強しろ、自分を磨け、いくらでもできるんだから。若いんだから。 一部の人間にとって、それらの言葉は部落差別や障碍者蔑視よりも手痛い言葉なのです。深刻な問題ではないからこそ、弱者の小規模な問題とでも言いましょうか、つらい問題なのです。分かってやる必要はありません。歩み寄ってやる必要もありません。ただ実力社会の影のようなものとして頭の片隅にとどめておいて欲しい。そんな問題です。

(出典:『文学で考える仕事の百年』飯田祐子 輸林書房 2010年4月)