この世には怖ろしいことに犯罪を生業にしている不届き者たちが一定数存在します。フィクションなんかのカッコいい殺し屋や市民に優しいヤクザなんかは幻想にすぎず、現実世界のはみ出し者たちはとにかく、私たちの脅威に他なりません。中でも特に恐ろしいのは、道行く人に冤罪を吹っ掛けるタイプの輩です。


 『それでもボクはやってない』という邦画にもある通り、痴漢の冤罪なんかはかけられたらもうなすすべは無いとすら言える始末です。あれ本当にその場からダッシュで逃げるのが一番得策らしいですよ。

 しかし知っての通り痴漢なんて卑劣な許せん行為ですから、周囲の正義漢たちは逃げる男を黙って見逃してはくれないでしょう。十中八九、すぐに大勢に抑えられてジ・エンドです。以前、ネットで痴漢の容疑者が人の山に押しつぶされている画像を見ましたが、真偽のほどがどうであるにしろ、犯人を殺してしまった時、正義漢たちは一体どうするつもりなんでしょうか。みんなで重なり合う遊びは私も子どものとき、頻繁にやっては怒られていました。成長した今だからこそ言えますが、あれは簡単に人を殺すだけの可能性を秘めています。

 おそらくそれで人が死んでも、正義漢は罪には囚われないでしょう。しかしそれはあくまで法律という薄っぺらい書類上の世界だけのお話。彼らの心は人を殺してしまったという事実とどう向き合っていくのでしょうか。本作「殺人者さま」はそんな罪の押し売りと罪の意識の両方をお手軽に兼ね備えた名作ショートショートです。


 今回例に挙げたのはあくまで反社会的な人々ですが、本作に登場する女はそういった組織的なものや金銭目的のものではなく、もっと病的に根深い闇でもって、人に罪を押し付けます。俗に言えばメンヘラという奴です。反社な人々は生活でやっているわけですから、生活以上のものは求めませんし、リスクも負いません。その分、この女は下手な反社より恐ろしい存在です。

 女の手紙一つで展開される物語は、まるで太宰治の短編作品のような構成です。女には呪いの電話を繰り返し、腹の中で憎んでいた親友を自殺に追いやった過去があります。親友という立ち位置だった女は当然、一切名前が挙がることもなく少女の死は自殺で締めくくられました。しかしかつての親友を死に追いやったという事実は、明確に「自分は人殺しである」という自意識になり女自身を襲います。罪の意識から幻聴にまで悩みだす女は常人では考えもつかないような方法で罪を清算しようとします。

 それは自身の凶器である電話で見ず知らずの相手へランダムにつなぎ、自身の罪を告白するというものです。ところが自分の人生をかけた電話の重みに緊張しすぎて、女は一言も発することはできませんでした。かけ間違いであると認識された女は遂に一ミリも告白ができないままに電話を切られます。電話の応対は当然の反応と言えますが、女にとってそれは「死ね」というメッセージに他なりませんでした。

 女は自殺を決行しますが、その前に大勢の人々に読ませるつもりでこの遺書を書きます。この遺書が本文そのものです。そして彼女の狙いは例の電話を切った人間に、「自分が人殺しである」という自分が経験した苦悩を味わわせることです。とばっちりにもほどがある罪の押し付け、もし私が電話を切った張本人でも、「関係ねえや」と一笑に付す自信があります。あります…。…あるでしょうか。本当に。言い切れません、言い切れるはずがありません。人の命を奪うという事はやはり恐ろしいことであると改めて認識しなおしました。

(出典:『悪魔のいる天国』星新一 新潮文庫 1975年七月)