生沢氏は60年代の日本GPに代表される活躍やヨーロッパでの戦歴で彼の地でも「日本人」の伝説となるほど。当時から国内は疎か海外の著名人とも親交が深く、時代を代表するスター選手のパイオニア精神は多くの人の憧れとなりました。

 

 

1974年からはオーナードライバーとしてGCレースに参戦した生沢選手と純白のGRD・S74には華やかで美しい不思議な魅力がありました。毎回、抜群のスタートで100Rからトップで現れる姿はGCレースのハイライトでありグランドスタンドが沸き上がる瞬間を今でも覚えています。

 

 

1977年にチャンピオンを獲得するまで毎回完走して10位以内に入賞、シリーズランキングは3年間とも4位以内の成績を残す立派なものでした。反面、1基のエンジンを8500回転に抑えて使用せざるを得ない期間もあり資金的な事情は常勝チームとは異なる体制であったようです。

 

 

 

 

1974年:デビューイヤーは2位を含む全戦シングル入賞でシリーズランキング3位

 

ウイングとリップスポイラーを追加したデビュー戦は予選14位から6位に入賞。

 

1974.05.03:富士ビクトリー200キロレース 

 

ヨーロッパでの経験から自動車競技についての見識を備えた生沢氏は1974年12月にJRDA(日本レーシングドライバー協会)の会長に就任。安全対策の強化を活動方針として尽力し、「競技」としてのマナーが向上したのもこの頃からのと記憶しています。

 

 

 

1975年:全5戦でシングル入賞。最高3位でシリーズランキング4位を獲得

 

1975.03.23:富士300キロスピードレース

 

ボディを全面的に修正した75年の後半からはストレートスピードがとても向上したとか。最終戦は優勝を手中に納めながらタイヤトラブルで後退。残り6周でピットインしたときはとても残念な思いした記憶があります。

 

1975.11.23:富士ビクトリー200キロレース 

 

 

 

1976年:スペアエンジンを確保して戦力が向上。後半戦は不運を払拭して2連勝!

 

開幕戦のメインスポンサーはヴァンヂャケット社のヘビーデューティブランド「SCENE」。予選4番手からスタートで2位にジャンプアップ。赤旗中断後の再スターでトップを快走中にリアホイールのエア漏れでピットインで無念の8位でフィニシュとなりました。

 

1976.03.21:富士300キロスピードレース 

 

第2戦は予選2位でフロントローにつけるもイグナイターのトラブルでスタート出来ず。ピット作業後に10位完走。3戦連続で優勝を逃す観戦となり肩を落として帰路に就きました。

 

 

1976.06.06:富士グラン250キロレース 

 

 

第3戦は予選から絶好調。ポールタイムを叩き出すもチェッカー後で無効となったとか。6番手からのスタートで2位にジャンプアップし、残り3周で星野選手を逆転して念願の優勝。この日の表彰式は大いに盛り上がり最高な日となりました。

 

1976.09.05:富士インター250マイルレース

 

第4戦もポールポジションからスタートしての完全優勝。「胸のすく思い」とはこのことかと感じる出来事でした。最終戦も3位に入賞してシリーズランキング2位に。

 

 

 

1977年:全戦上位入賞で優勝を含む表彰台3回でついにチャンピオンを獲得

 

開幕戦では予選2位からスタートでトップを奪ういつもの「見せ場」は歓声が起る瞬間です。第一コーナーのスピンで9位にダウンするも中盤には3位まで挽回。獲得したポイントはチャンピオン獲得のためにたいへん有効なものとなりました。

 

 

20周目には片山車(3位)と桑島車(4位)に迫る追い上げを展開し3位入賞。

 

1977.03.20:富士300キロスピードレース

 

 

中盤の難しいウエットな路面状況下で4位に後退するも終盤に逆転優勝した第2戦。「攻めた」開幕戦とは異なるクールな戦術でポイントリーダーとなった日でした。

 

 

1977.06.26 富士グラン250キロ

第3戦も3位に入賞し今期は連続で表彰台を獲得する不動のポイントリーダーとなりました。残りの2戦は共に4位でフィニシュして見事にシリーズチャンピオンを獲得した絶好調の1977年でした。

 

1977.09.4

 


 

レース後のパドックにて。どの角度から見てもカッコ良く魅力的なGRD・S74。今でも大人気でエブロのミニカーは入手困難なプレミアム価格となりました。

 

右上は生沢氏のセリカLB(5マイルバンパー仕様・特注の黄色だった⁉)とモーターホームです。

 

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1979:チームオーナー兼監督となりシリーズチャンピオンを獲得

 

1979年にはチームオーナー兼監督として2台のGRD・S74を高原氏と中嶋氏が出走。優勝を含む全戦完走・上位入賞は引き継がれ中嶋氏がシリーズチャンピオンを獲得しました。

 

わずか1年でトップチームを構築した力量も備えた生沢氏はいつの時代もファンを引き付ける出来事を発信する先駆者であると思います。


2003.09 コース改装のファイナルイベントにて GRD・S74改(マツダ13B仕様?)