ジリオラ・チンクェッティ 「La Pioggia( 雨 )」 | アラフォー世代が楽しめる音楽と映画

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結婚、育児、人間関係、肌や身体の衰え、将来への不安...
ストレスを抱えるアラフォー世代が、聴いて楽しめる音楽、観て楽しめる映画を紹介します。
でも自分が好きな作品だけです!    

 2年ほど前、区役所にある書類を提出する際、“審査”の審の字が頭に浮かばず書けなかったことがあった。数年前なら造作なく書けていた漢字なのに愕然としたものだ。この漢字は日頃よく目にする筈なのに...。
 はたまた気が置けない仲間達の飲み会の席。昔話に盛り上がりながらも話題となった人物の名前が仲々出て来ない。いつもボクが先立って思い出していただけに、もどかしさに釈然としない! これらの恥例を安易に年齢を重ねた弊害と片付けるには抵抗を覚える。
 パソコンは今や日常生活に於いて欠かせない道具となっている。しかしそれに依存するあまり、ひらめき(発想力)を発揮する機会が減ったことは確かだ。 

$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 ボク等が学生時代は卓上型のパソコンは未だ世に出ず、またコピー機に頼る発想も無かった。(ボクの後の世代は平然としていたが...。)ボクは試験の際、教科書やノートの内容を新たに手書きして覚えるという極めて原始的な勉強法だったのだが、指(末梢系)を動かすことで脳が刺激され、確実に記憶していった。
 また手書きの利点は漢字を覚えさせ、字が上手になる。脳というより指が覚えている感覚なのだ。丁度ゴルフのスウィングを理屈ではなくボディターンで体得するのに似ている。(また脱線しそうだが...。)このことから記憶の衰退は年齢に依るものではなく、それを使用する機会を逸したからと言える。
 時間短縮や効率向上を追及することは決して間違ってはいないが、偶には地道な手法に委ねることも大切だ。何より脳が活性化して、計算力や思考力、判断に必要な洞察力、ひらめきやアイディアの根幹となる発想力が磨かれる。そしてそれは日常に思いがけない幸運を与えてくれると信じている。
 ひらめきは何らかの拍子で過去に脳に刻まれた微かな映像や音を表に出してくれるだろう。たった一つの音が当時の時代の雰囲気を蘇らせ、至高の恍惚感に浸らせてくれることもあるのだ...。

$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 ジリオラ・チンクェッティについては先日記載したボビーソロの記事の記事でほんの少しだけ触れた。「自分以外に優勝する者はいない!」とばかりに臨んだ1964年のサンレモ音楽祭で、その過剰とも言える自惚れを打ち砕いたのが「Non ho l’eta(夢みる想い)」を歌った当時16歳のジリオラだったのだ。
 彼女は自分が優勝するとは思ってもいなく、歌い終えた後すぐさま家に帰りたかったそうだ。しかし審査結果が出るまで待機していなければならず、仕方なく舞台裏でトランプで遊んでいたのである。まもなく彼女の優勝が決まり、舞台の上では大騒ぎとなっていたのにも拘らず...。
 勢いに乗った彼女はその後に開催されたユーロヴィジョン・ソング・コンテストでも優勝する偉業を果たし、「Non ho l’eta(夢みる想い)」はヨーロッパ各国で大ヒットした。一躍彼女の存在は世界的に知れ渡ったのである。
 一方、ボビー・ソロも才能とバイタリティーに溢れる若者だった。翌65年、「Se piangi,se ridi(君に涙と微笑を)」でサンレモ音楽祭で優勝して屈辱を晴らすと、69年にも「Zingata(涙のさだめ)」で2度目の優勝する快挙を成し遂げた。
 だがそれより先の66年、ジリオラ・チンクェッティは「Dio, Come ti amo(愛は限りなく)」で同音楽祭2度目の優勝を果たしているのだ。

 サンレモ音楽祭は1950年代から現在も続くイタリアの由緒ある音楽コンテストである。最盛期は1960年代で、この時期は世界中から有力なアーティストが集まり、その中にはコニー・フランシスやフランス・ギャル、日本からは伊東ゆかりや岸 洋子も出場した経験がある。採点システムはイタリアのシンガーと国外のアーティストが二人一組になり、予めエントリーされた同一曲を歌うという変則的なものだった。
 このサンレモ音楽祭で入賞した殆どの曲は世界中にヒットする傾向にあり、そういう意味ではイタリアの若手シンガーにとって憧れの的であり、スターに駆け上がる登竜門であった。
$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 ボクはサンレモ音楽祭と言うとヤードバーズ(ジミー・ペイジ加入前)の逸話を想い出す。66年、メンバーとは険悪な仲だったマネージャーのジョルジオ・ゴメルスキーは何を血迷ったのか、ヤードバーズを場違いなサンレモ音楽祭に出場させたのである。これに反撥したジェフ・ベックは、課題曲「Questa Volta」のレコーディング当日に雲隠れする事件を起こしたのである。取敢えず急場凌ぎでサイド・ギターのクリス・ドレヤがベックの替わりを務めたのだが、コンテスト本番でも不貞腐れたまま舞台に上がり、メンバー全員気が入らぬまま演奏したそうだ...。
 自分の意に沿わなければ平気で穴を開ける...ジェフ・ベックの面目躍如である! 痛快!

 おそらくボクと同年代の方々なら、曲名やジリオラ・チンクェッティの名前を知らなくとも、この曲調を聴けば「あっ! これ知ってる! 懐かしい!」と同意して貰えると思う。
 確か...記憶違いでなければ南 沙織がカヴァー曲で歌っていたような...。

$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 1947年、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」の舞台としても知られるイタリアの古都ヴェローナに生まれたジリオラ・チンクェッティは、幼少の頃からピアノを習うなど音楽に親しむ環境であった。
 その音楽少女の転機となったのは、63年にカストロカーロ新人コンテストに優勝したことで、翌64年に「Non ho l’eta(夢みる想い)」でデビューを果たした。また同時期に開催されたサンレモ音楽祭に出場し、下馬評を覆して見事に優勝を飾ったのだ。因みのこの時のパートナーはフランスのパトリシア・カルリである。
 その後、ヨーロッパ最大の音楽コンテストであるユーロビジョン・ソング・コンテストでも同曲で臨み、イタリアの歌手として初めて優勝する快挙を遂げ、彼女の名前は一夜にしてヨーロッパ中に知れ渡ることになった。更に同年開催されたイタリアでのもう一つの代表的な音楽祭であるカンツォニッシマにも出場し、「Non ho l’eta(夢みる想い)」と「Anema E core」の2曲が入賞する等、快進撃は留まらなかったのである。

$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 彼女とサンレモ音楽祭は余程相性が良かったのか、翌65年にコニー・フランシスと組んで歌った「Ho bisogno di vederti(あこがれはいつも心に)」は入賞。同年に初来日も果たし、その美貌と歌声を披露している。また翌66年には母国イタリアの有名なシンガー・ソングライターであるドメニコ・モドゥーニョのパートナーとして「Dio, Come ti amo(愛は限りなく)」を歌い、2度目の優勝を果たすのであった。この曲は世界的ヒットとなり、カンツォーネ・ブームの真っ只中だった日本でのジリオラの人気は急上昇。それに乗じて日本語ヴァージョンのレコーディングもしている。$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画
 また同曲は映画化もされ、ジリオラは女優として『愛は限りなく』に主演した。更に翌67年の映画『Testadirapa(おろか者』にも主演している。本流の音楽活動では同年“夏のディスク・フェスティヴァル”というコンテストに出場し、「La Rosa Nera(ローザ・ネーラ)」で2位入賞に輝いた。
 サンレモ音楽祭では翌68年、「Sera(夕べのしあわせ)」で入賞。同年は女優としての活躍も目立ち、ニーノ・カステルオーヴォを相手役にテレビ・ミュージカル『Addio giovinezza(さらば青春)』に主演した。続いて翌69年のサンレモ音楽祭では、あのフランス・ギャルをパートナーに迎え、「La pioggia( 雨 )」で入賞を果たした。それまでの曲調とは違い、アップテンポな同曲は日本でも大ヒットを記録し、当時のジリオラ人気は母国イタリアを凌ぐほどであったのだ...。


「I Grandi Successi」/ジリオラ・チンクェッティ [輸入盤CD]

$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 70年代に入り、ジリオラ人気も落ち着き始めた。しかしそれは後退を示すものではなく、天性の美貌に女性らしい深みを兼ね揃えたシンガーへの脱皮を図る時期を迎えたことを意味する。それは彼女のより感情豊かになった歌唱法に表れている。
 残念ながら70年のサンレモ音楽祭では「Romantico blues(ロマンティコ・ブルース)」が入賞ならずだったが、翌71年には「Rose nel Buio(薔薇のことづけ)」で、72年には「Gira l’amore(恋よまわれ)」で2年連続入賞を果たしている。惜しくも73年の「Mistero(ふしぎな気持ち)」は入賞を逃したが、翌74年には「Alle porte del sole(太陽のとびら)」でカンツォニッシマで初の優勝を飾るなど輝かしい実績を残したのである。

 ジリオラは79年に結婚した。翌年、二人の男の子の育児に専念する為に第一線を退き、ローマに転居した。その後、家庭も一段落した85年に再びサンレモ音楽祭へ出場し、「Hiamalo amore(愛と呼ぶの)」が3位入賞を果たし、健在ぶりを誇示したのである。しかしこの時の音楽活動はあくまで一時的なもので、本格的な復帰は89年の同音楽祭からで、この時は「Ciao(チャオ)」を引っ提げて出場した。
$アラフォー世代が楽しめる音楽と映画 翌90年には“デビュー25周年ツアー”でヨーロッパ各国を巡回し、91年には復帰後初のアルバム『Tuttintorno』を発売。以後、93年には15年振りに来日コンサートを開催。95年にはまた「Givane vecchio cuore」でサンレモ音楽祭に出場する等、精力的な活動を行ってきたのである。

 再び日本でジリオラ・チンクェッティの「La Pioggia( 雨 )」が注目されたのは、2002年にトヨタ自動車“ビッツ”のCMで流された時である。何故か日本では末永く愛されるイタリアの歌姫である...。