仏教用語で「諦める」は「明らめる」と書くそうです。
明らめるとは明らかにするから来ており、事実をありのままに見、ありのままにうけとめるという意味があるそうです。
先日、ドラマの録画を見ていると母が、
「(リモコンを操作しそうなしぐさをしながら)これ見ていない」と私に言うので私は「もう終わるから待って」と、そのまま番組を見た出来事がありました。
この時私の中では勝手に、”母は見ていないドラマも多く、この番組も見ていないからわからず、おもしろくなくてチャンネルを変えたいんだ”と解釈をしていました。
でも、実際には母は頭からこのドラマを見たかっただけなんです。
結果的に「え。ちゃんと伝えてくれないとわからない!ちゃんと伝えてよ!」
こういうやりとり、普段の中でありませんか?
このようなコミニケーションって互いにあと一歩、相手に伝わるための言葉が足らずおこっているんですよね。
この例だと私は事実を明らかにする言葉不足。
勝手に自己解釈だけで母はどうしてそういったのか?相手が言った目的(ゴール)を知ることとそこからの事実を知ることが足りていなく。
母だと、自分の目的(ゴール)を伝える言葉が足りていなかったんです。
人は事実と解釈を混同してみていることが多く、混同したものを真実だと思っています。
まさにこの時の私で、何一つ事実と解釈をわけて知ろうとしなかったんですよね。この一連だけでもいかに私が事実を明らかにせず解釈の世界にいるなぁと気づかされる出来事でした。
特に日本人は真実と捉えているものと人格を一体化させやすいそうなので、意識して気をつけようと思います。
そして、相手に伝わるためのコミニケーションですが
話し手は目的(理由・感情)と行動(やりたい、やってほしいこと)を伝える。
→「このドラマを頭から見たいから、最初から再生してほしい」
受けては話し手の目的を知るところから始め、事実を知る。
→「見ていないっていうのはどういう意味?どうしたい?」
これだけでも格段にコミニケーションが円滑になると思いませんか?
その時に行動(したい・やりたい・やる)ことをできるだけ具体的に伝えると、脳は具体的な行動内容ほど理解して行動に移しやすいのでなお伝わりやすいです。
テストでいい点とるぞ!より、目の前に落ちているこのごみを拾って捨てようでは、頭の中で具体的なイメージの描き方が違い、何をするかの解像度が変わりますよね。
ということで、私はまず、相手をちゃんと知ることから改めてしてみようと思います。何かの参考になれば!